「今日はありがとうございました。色々刺激になりました」
「むしろこちらが感謝しなければならないわね。頼んだ側なのに私も新しい発見をさせてもらったわ」
講習後、休憩スペースの机で向かい合っていた葵と瞳はそんな会話を行っていた。
「また講習を頼みたいくらいには子どもたちも熱心に取り組んでくれていたわ。楽しみながらも所々で上達のコツが散りばめられていたし、スケートがより好きになってくれたんじゃないかしら」
「そうだったら講習を受けた甲斐がありましたね」
「それに、泣いちゃう子もいなかったしね」
瞳からの絶賛に葵はこそばゆい感覚を覚えながらも今日の講習を振り返る。
講習の対象はほとんどが小学生以下。そして、その大半が小学生3年生以下という中での指導だった。この年代の子どもたちによく見られるものとして、───スケートが嫌いになった訳ではないと信じたいのだが───練習が嫌になって泣いてしまう子が少なからず出てしまうというものだった。
その点から考えれば、スケートの楽しさに触れさせつつできるを覚えさせ上達の道を辿らせることができたというのは指導経験が浅いながら自分でも評価できる点ではないかと思わずにはいられない。
しかし、自分も人のことは言えないが精神的にまだまだ未熟な幼い子どもたち相手に完璧に近い指導ができたのは多少経験があったからだろうなと思う。
「そこはまあ、普段妹たちの練習を見ることがあるのでその経験がおそらくは活きたんでしょう」
「なるほどね。確かにありそうだわ」
少し離れた場所で司と遊んでもらっている、もとい絡みに行っている妹弟たちに目を向けていた葵は微笑ましい光景から瞳へと視線を戻した。
「……ところで瞳コーチ」
「何かしら?」
「今日の講習のコーチとして僕に白羽の矢が立ったのはどうしてですか?」
「あわよくばうちのアシスタントコーチに〜、っていうのは二割本音なんだけどね」
そこは建前じゃないんかい、てか二割は本気なんかい、と内心思わなくもなかった葵だったがそれは口には出さないでおこうと閉じたままにしていると、不意に瞳が真剣な表情に変わったことに気づいた。
「二割本音と言ってもね、講習前までは本当にそうなって欲しいと思っていたのよ」
「……そうなんですね」
では、今の瞳の考えとはなんなのだろう。講習前と講習後での違い、瞳が考えを改めるほどの何かが起こったと考えるのが自然だ。となれば、そのようなことで思いつくのは葵には一つしかない。
それを葵が頭に浮かべたと同時、瞳が告げた。
「葵君。貴方、もう一度選手に戻るつもりはないの?」
不思議と、何処につっかえることもなく、ストンと葵にその言葉が落とし込まれた。
「……そう、ですね」
言葉に詰まる。その原因は明白だった。個人的の感情と、自身を取り巻く環境という二つの要素から生まれる二つの選択肢。それが葵の中で葛藤を発生させていた。
個人的な感情を言うのなら、選手に復帰するのはなしではない。むしろ願ったり叶ったりなことだ。選手を事実上の引退という形で退いたのは誰のせいでもない、仕方のなかったことだと分かってはいる。
しかし、感情はそうではないのだ。選手を続けたい。夢を追いたい。もっと銀盤の上で表現を磨き極めたい。もっと大きな舞台で滑りたい。願望は思い浮かべれば尽きることはない。
一方で、続けられないだろうと感情にブレーキをかける自分もいる。リンクに乗ることができなくなったから、トラウマ───PTSD───は克服できたからと言ってそう易々と選手に復帰することはできるはずがないと理性は叫ぶ。
決定打となったのはもっと他のことだろうと。その事実に直面した理性は、何かを犠牲にする、大事なものから目を逸らすことを許さなかった。酷く残酷に、現実と向き合わせることを葵に強いたのだ。
「……現状、あの子たちの面倒を見られるのが自分しかいない以上、選手に復帰はできないです」
「お母様の事は伺っているわ。過労が祟ってしまったと。入院中であることも知っているわ……でも、貴方もまだ子供なのよ」
純粋に心配してくれているのだろう。それは瞳の目を見てもよく分かる。そして、その言葉の裏にある「もっと人を頼って」のいうニュアンスが込められていることも。だが。
「今、あの子たちを放って選手に復帰すれば、あの子たちはきっと自分たちを責めてしまう」
それだけではない。まだ自立できていないのに家族と接する機会が減ってしまうのはどう考えてもよろしくない。ただでさえ今面倒を見ることができるのは葵だけなのだ。そんな状況で家族よりも優先するべきものとは葵には到底思えなかった。
「少なくとも、あの子たちが自立できるまでか、母が心身ともに健康になるまでは、面倒をかけるつもりはありません」
「……そう。なら私からこれ以上言えることはなくなっちゃったわ。ごめんなさい。こうして心配することしかできなくて」
「……いえ」
そんなことはない。むしろ、自分程不義理な奴もいないだろう。夢を見切り、これまでの努力を投げ出し、本気で支えてくれていたクラブの方々と応援してくれていた人たちの期待を裏切り、なにも残すことなく、競技から去ってしまったのだ。そんな奴が優しいなんてお笑い種もいいところだ。
「そうね。最後にもう一つだけお節介を焼かせてもらうね」
「……?はい」
「
「……!」
「それだけは覚えておいてね」
ズキリと、胸の内が痛んだ。なんでだろうと考えて、答えは直ぐに脳が弾き出した。覚悟がないと言われたと感じたのだろう。誰かに負担をかけるという覚悟が葵にはない、と。確かに、葵が自ら抱え込んでいるものは誰かに頼るということをできれば解消できるものだ。
(…………ぁ)
そこまで考えて、気づいた。気づいてしまった。自分は、心のどこかで逃げるための口実を作ってしまっていたのだろう。いや、作ってしまっていたのだ。リンクから逃げた、支援や応援をしてくれた人達から逃げた、そんな自分の弱い部分から目を逸らしたくて、再び競技に戻った時に支えてくれた人達の顔を見るのが怖くて、まだ自立できない妹弟達のためと家族すら逃げの言い訳にしていた。
(……本当に、どうしようもない卑怯者)
その事実に、打ちひしがれる思いを心に抱くともに、俺は自嘲の笑みを浮かべた。そして、そこまで思考して、もう一つ葵の中に巣食っている存在に気がついた。
意地かプライドか、その類の安い存在に傷が着くのが許せないのだろう。氷上に戻れない弱い自分、母が入院で家にいない今家族の面倒を見れるのは自分だけ。母が過労で倒れた時、真っ先に駆けつけなければいけなかったはずの父は仕事を理由についぞ家族の前に姿を見せなかった。そんな奴に家族を預けたくない。葵自身があの子たちの頼れる大人でなくてはならないと、そんな想いで支配されていた。
だが、思う。どちらの自分が家族に誇れるだろうか、と。もう、立ち止まり、時計の針を止めたまま、有耶無耶にしているのも限界なのだろう。頼ること、はまだ難しい。だから、相談しよう。
「……分かりました」
そうして、いつの間にか下がっていた顔を上げて瞳と目を合わせる。彼女の表情はまるで、世話の焼ける弟を見るように優しい笑みを浮かべていた。
「さて!重苦しい話はここまでにして、もう少しだけ話しましょ!」
それから重苦しい話に耐えられなくなったのか、あるいは葵の変化に気づいたのか、瞳は明るい話題へと移した。
そして、少し歓談に興じたあと、時間が迫っていることもあり二人は立ち上がった。
「改めてになりますが今日はお誘いいただきありがとうございました。今後に活きる貴重な機会になりました。また機会がありましたらどうぞよろしくお願いします」
「えぇ。またお願いすると思うわ。子どもたちからもご両親からも好評だったから。あと、今日の演技、素晴らしかったわ。一年のブランクがあるとは思えないくらい」
「ありがとうございます……では、今日はお世話になりました」
お決まりのような会話を形式上行ってから席を立てば、司の傍にいた家族がこちらに気付いたのかてとてとと満面の笑みで駆け寄ってきた。
「お話終わった~?」
「うん。終わったよ。じゃ、帰ろっか」
「今日の晩御飯ハンバーグがいい!」
「分かった。じゃあ帰りにスーパー寄っていこっか」
藍と茜とそんな会話をしてから、葵は目線を合わすようにかがんでいた身体を正して瞳と明浦路と向き合う。
「じゃあ今日はありがとうございました。ほら、三人もお礼しな」
そう言って葵は三人を促す。
「ありがとうございました!瞳コーチに司先生」
まずは三人の中では一番上の澪がしっかりした挨拶を。
「ありがとうございました」
やや人見知りの気がある藍が控えめながらもしっかりとルクス東山の二人と目を合わせた後お辞儀と共に感謝を。
「ありがと!瞳せんせーに司せんせー!」
最後に元気よく茜が満面の笑顔で言う。
それに対して先生方も返事を返すと、この場はお開きとなり、葵たちはリンクを後にした。
この時の葵は想像すらしていなかった。今日の出来事が、明日以降、大きく自身を取り巻く環境が予想以上に変わっていくことを。
◇◆◇
───葵の講習から数時間後、名港ウインドFSCが練習で使用している某アイスアリーナにて。
「…………お」
名港ウインドFSC所属アシスタントコーチ兼公式SNSアカウント担当の雉多輝也は日課である練習前のSNSへの投稿を終えて、画面をスクロールしタイムラインを流し見ていると一人のフィギュアスケート選手の動画に目が引き寄せられた。
このアカウントを使っていればフィギュアスケート関連の写真、動画などの投稿はいくらでも流れてくる。そんな中その動画が目を引いたのはなんでだろう、と少し考えて、動画に写っている場所が大須にあるスケートリンクであり普段使っているアイスアリーナが使えない時たまに使うことがあるスケートリンクだからだと気づいた。
(……にしても、この選手上手いな。多分高校生、ジュニアくらいだろ?ジャンプ構成は抑えてるんだろうな。このスケーティングの技術を持っててジャンプこれが限界はギャップがある)
休憩スペースで自動販売機で購入したコーヒーをに含みながら動画に映るスケーターを分析する。
まあ、ありえることではある。例えば、成長期でジャンプを抑えている、とか。怪我明けで本調子ではないから高難度ジャンプはリスク、とか。挙げていけばキリがない。
(……って)
雉多は画面に映る映像に自分の目を疑った。それもそうだろう。
「……3A+3Tってマジか。誰だこの子」
こう言ってはなんだが、中部でここまでのジャンプを飛べる選手はこの年齢になるまでに近畿か東京に引き抜かれている。だから、この年齢でまだ中部に留まっているとなれば名前は直ぐに割れるだろう。尤も、今の中部にこのジャンプを飛べるジュニア男子シングルの選手はいない。
(つか、ワールドクラスに片足突っ込んでんだろこれ)
残念ながら、この撮影者はスマホで撮っているのだろうが画質が残念で顔までは判別できない。だが、投稿者はどうやらスケートファンのようだ。誰か分かるかもしれない。そう考えて雉多は画面を動かして、正体を探っていく。そうしていくうち、すんなり名前は明かされた。雉多はその正体に目を剥き愕然とした。せざるを得なかった。
「……は?」
鷲見葵。その名前に最初は人違いを疑った。もしくは同姓同名の別人。だが、映像に映るスケーターの滑りを見れば見るほど鷲見葵であるという確信ができてしまう。雉多はその投稿に対する反応も見ていく。
これが本当なら、驚きこそすれど非常に喜ばしいことだからだ。昨シーズン頭の
改めて映像を見るとなんで葵だと気づかなかったのかと疑問になるくらいだ。名港に来た当初、小学一年の時は当たり前だが今よりも未熟ではあったがそれでももう10年近く彼の滑りを見ていたというのに。
葵はここ一年全くリンクに上がることはできていなかったというバイアスもかかっていたのだろうと無理やり納得する。
「……と、皆にも見せに行くか」
喜びと、安堵が入り交じる感情を心中に内包したまま、雉多はタブレット片手にスケートリンクへと向かう。恐らく葵と名港で一番付き合いが長く可愛がっている理依奈と葵に心酔しているりんなあたりは感情表現こそ違えど心底喜びそうだ、なんて考えていたその時、スケートリンクから普段より大きなざわめきの音が雉多の鼓膜を打った。
それに対し、雉多は苦笑を漏らす。
「はは……マジで情報回るの早すぎだろ」
リンクサイドでは、普段の練習前もしくは練習後の和気藹々とした雰囲気はなく、動揺、驚愕、困惑、そして喜色を入り混ぜた独特な雰囲気が支配しているように理依奈は感じていた。リンクサイドの一角に集まっているノービスからシニア、そして、名港のコーチ陣と勢揃いしている場所では、皆一様に一つのタブレットへと視線を送っている。
その視線の先には雉多が見ていたものとは別画角の葵が滑っている映像であり、その映像はスケートリンクに近く葵の表情すら鮮明に映されているものだった。反応は皆様々だが、一番反応が大きいのは彼のことを心から慕い尊敬しているノービスAの選手である申川りんなだった。
「ひぐっ……えっぐ……うぅ~~」
練習後、製氷をすると言って名港のヘッドコーチと残り、人知れずトラウマを克服するためリンクに上がろうとする度に顔色を悪くしてトイレに駆け込む彼の姿を彼と親しい人なら皆一度は見ている。その中でも人一倍彼に感情移入していたのがりんなだった。
「りんなちゃんこれ使って?」
「ありがと〜。夕凪ちゃん……」
そんな彼女を傍で夕凪が宥めている。その光景を見ながら思う。彼女が感極まって泣いてしまうのも理解できる、と。そして、そんなことを他人事のように理解を示していた理依奈自身も嬉しさと喜びで胸がいっぱいだ。
なんたって弟みたいな存在の葵がトラウマを克服してこれだけ素の感情を見せながら氷上を滑っているのだ。喜ばないわけがない。ただ、理依奈ももう高校三年で来年には大学生の身だ。多少落ち着きを持ったと言うだけのこと。
それにしても。
(こんなに楽しそうに滑ってるのを見るのはいつ以来かな)
彼の演技が今のスタイルにひとつの完成系として現れたのはノービスAの事だ。となると、純粋に演技を楽しんでいたのはノービスBの一年目くらいまでだろうか。どちらが良い悪いという話ではなく、柄にもなく感傷に浸っているのだと理依奈は己の感情を分析した。
(トラウマは克服できたな。あとは、葵がどう向き合うか、か)
とはいえ、葵の家庭の事情をそれとなく聞いたことのある理依奈には、あとは葵自身の問題だと思っている。そして、葵なら、間違いなく乗り越えられるだろうと信じている。
「……ちゃんと向き合えよ。お前だったらできるさ。なんたって───」
───私の弟弟子なんだから。
◇◆◇
「これ見たか?いるか」
「見た」
「なんだ。反応薄いな。嬉しくないのか?」
「……嬉しくない訳じゃない。でも、このくらいで喜んでたらあいつに失礼じゃん」
「素直じゃないなぁ」
「うっさい……それに」
「それに?」
「いや、なんでもない。練習始めよ」
◇◆◇
東京都千代田区丸の内。
「鷲見社長。今お時間よろしいでしょうか」
「ああ。何か報告か?」
「四月末に予定されているスプリングチャレンジカップの件で追加招待の許可を頂きたいのです」
「勿論構わないが、選考に関しては全て君に一任していたはずだ。わざわざ私に聞きに来る必要はないぞ?」
「では、鷲見社長のご子息である葵選手を招待しても構わないでしょうか」
「……なんだって?」
「ですから、許可を取りに来たのです。こちらをご覧になってください。これを見て判断していただければと思います」
「───招待してくれ。頼む」
「かしこまりました……鷲見社長」
「……なんだ」
「そろそろ、葵君と向き合う時ではないでしょうか。失礼します」
「…………葵」