秘封倶楽部の二人が訪れたのは開港の街、横浜。
流入する異文化を受け入れ続けた街は至る所に境界が潜んでいる。
ちょっと不思議な横浜旅行譚。

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第1話

 桜木町の改札を抜けると、薄紫の夕暮れが港町のビル群を染めていた。潮の匂いが、どこか懐かしい。宇佐見蓮子は深呼吸して、くるりと一回転した。

「うーん、港の空気は格別ね。古い街並みに、新しいビル、そしてちょっと湿っぽい風。私のセンサーが全力で反応してるわ」

「それ、ただの観光客の感想でしょう?」

 マエリベリー・ハーンが、ため息まじりにガイドブックを閉じた。

「何よ、ガイドブックまで持ってきている人に言われたくないわ」

「観光と結界探しは両立するのよ。むしろ観光地こそ、結界の表の顔。人の目を集めることで、裏側を隠すんだから」

 そう言いながらメリーが歩き出すと、蓮子は苦笑しながらその後ろをついていった。

 

 

 

 赤レンガ倉庫は、夜になると観光客もまばらで、どこかひっそりしていた。二人は倉庫の裏側に回り、暗がりの煉瓦を一つひとつ確かめる。

「このあたりね……あら、ここ。壁の煉瓦が浮いてるわ」

「それはただの補修じゃない?」

「違うわ。糸が……裏側の糸が、ほら」

 メリーが指先で煉瓦をなぞると、青白い光がひと筋走る。蓮子は思わず目を細めた。

 

「……なるほど。これはこの倉庫そのものが境界を守る結界の要石なのね」

「観光客が写真撮るたびに、無意識にエネルギーを注いでるのよ。まったく、うまい仕組みだこと」

 そんな会話をしていると、背後からカップルの笑い声が近づく。二人は慌てて身を寄せ合い、何食わぬ顔で煉瓦を指さして「素敵な建築様式ね」とか言いながら誤魔化した。

「……観光客のふりも楽じゃないわね」

「そもそも、蓮子が怪しすぎるのよ」

 

 メリーが煉瓦に触れると壁の一部がふっと軽く外れ、引き戸のように動かすことができるようになった。

「まるで忍者屋敷ね、ワクワクしちゃう」

「次の旅行先は伊賀か甲賀か、考えておくといいわ」

 扉の奥は倉庫内部へ続く隠し通路のようだ。中からは冷たい風が流れてくる。

「どうする? 入る?」と、悪戯な笑みを浮かべるメリー。

「もちろん。ここで引き返すようじゃあ、秘封倶楽部の名折れだわ」

「そんな高尚な名誉が私達にあったかしら?」

 軽口を交わしながらも二人は暗い穴に踏み込んだ。

 

 中に入ると、奇妙な通路がどこまでも伸びていた。天井の低いアーチが連なり、壁には煉瓦の隙間から青白い光が漏れている。床に敷かれた石畳の模様が、迷路のように曲がりくねっていた。

「……やっぱり、倉庫の内部にも結界が編み込まれてるのね」

 メリーが目を細める。

「あそこ、床の線がずれてる。進む方向を選ばせる仕掛けね」

「うん、きっと裏側に繋がる“正解の道”もあるはず。でも、深入りする気はないから、ほどほどに遊びましょう」

「蓮子の“ほどほど”は信用ならないけど」

 

 最初の角を曲がると、突然、目の前の壁がひらりと薄く消え、また別の通路が現れた。奥の方では、無数の煉瓦のアーチが重なり合い、どこが天井でどこが床かも曖昧な、奇妙な広間に出る。

 壁に沿って並ぶ古い扉は、それぞれ微かに違う色に光り、鍵穴から小さな光が洩れていた。

「まるで異界のアパートね。どの扉も異界の”何か”をしまい込んでいる」嬉しそうに蓮子がはしゃぐ。

「開けたら帰ってこられないかもしれないけれど」

 蓮子はドアノブに軽く手をかけ、くるりと回してみる。しかし扉はかすかに冷たく、軋むだけで開く気配はなかった。

「……今はまだ、タイミングじゃあないのかしら」

「ありがたいわ。あなたがそのまま向こう側に旅立ったら、私が旅費まで払わされるもの」

 

 さらに奥へ進むと、廊下の両側の壁がぐるぐると渦を巻き、まるで巨大な螺旋階段の内部にいるような気分になる。床の線もだんだん複雑になり、歩くたびに少しずつ方向感覚が狂っていく。

「なんだか、ちょっと酔いそうね」

「酔わないように、意識して上を見ないとだめよ。ほら、星が見えるから」

 メリーが指さす先には、倉庫の天井を突き破るように、薄青い夜空が広がっていた。星が異様に多く、近い。

「……幾重にも星が重なっている。ここの時間は滅茶苦茶だわ」

「見るだけよ。こっちの世界の時間に取り込まれないように注意しなきゃ」

 メリーは逸れてしまわないように蓮子の手を取った。

 

 どのくらい歩いたのだろう。何度も角を曲がり、何度も広間を抜け、奇妙な階段を降り、気がつけばまた、最初のアーチの廊下に戻っていた。

「……元に戻ったみたいね」

「まあ、意外と出口は近いのよ。こういう迷路は、出る意志さえあれば出られるようにできてる」

「じゃあ、蓮子が無意識に迷う気満々だったってことね」

「違うわ、探究心よ。探究心」

 蓮子は胸を張るが、メリーはくすっと笑うだけだった。

 最後の一歩を踏み出すと、目の前の壁がひらりと溶け、夜の港の生温い潮風が頬を打つ。

 二人は無事に帰り着いたのだった。改めて潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、街の灯りを見渡した。

「……赤レンガ倉庫の中が、あんな迷路になってたなんて」

「倉庫は物の流れを制御する建造物だから結界的な役割があったのかもしれないわね、開国したばかりの日本に海外の異物を溢れさせない為に赤レンガ倉庫が建てられたのかもしれない」

「ねえ、そんな事はパンフレットには書いてなかったわ」

「じゃあ、私たちだけの秘密ね」

 そう言って、二人は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。夜の横浜はまだまだ眠らず、次の秘密を隠している。

 

 

 

 迷路のような赤レンガ倉庫から抜け出した二人は、夜風を浴びて深呼吸した。

「……無事に戻れたじゃない」

 胸を張る蓮子に、メリーは半眼で返した。

「私の足が棒になった以外は無事ね」

「メリー、異界探訪は脚力が命よ。トレーニングと思いなさい」

「あなたが迷い倒した分、私のカロリーが消費されただけでしょう」

 そんな軽口を叩いていたものの、蓮子の腹の虫が不機嫌そうに鳴いた。

 それにつられて、メリーもぐぅ、と音を立てる。

「……で、夕食は?」

「決まってるじゃない。横浜といえば中華街よ!」

 

 中華街は夜になっても人で溢れていた。赤い提灯が通りを染め、香辛料と油の甘い匂いが風に乗ってくる。店先からは威勢のいい掛け声と、飲茶の湯気が立ち上る。

「この空気、たまらないわ!」

「……あなた、もう目が完全に獲物を狙う肉食獣になってるわよ」

 蓮子は迷わず、路地の奥へ奥へと進んでいく。メリーは苦笑しながら後ろをついていった。

「でも……ちょっとおかしいわね。この匂い、八角や山椒の奥に、何か……別の匂いが混ざってる」

「あなたの鼻も異界寄りになってきたわね」

 そして二人が、ひときわ狭い裏路地に足を踏み入れた時だった。

 

 突然、視界の先で空気が歪み、道の先が暗い青い光に包まれた。そこには、中華街の喧騒とは別の、ひっそりとした市場が広がっていた。

 提灯の列がずらりと続く。その下、左右の屋台には、見たこともない果物や料理が並んでいる。人影──いや、人のような影たちが、物音を立てずに歩き、買い物をしていた。

 

「……ここは」

「異界マーケットかしら、呼ばれちゃったわね」

「呼ばれたのは蓮子の空腹でしょ」

 そう言いながらも、メリーはじっと市場の奥を見つめていた。

 果物屋の屋台に並ぶのは、星の形を模した紫色の実が房になっている葡萄の様な物、綿菓子の様にフワフワとした果実、水風船の様に半透明で一個体毎に異なる色をしている林檎の様な物──どれも、強烈に甘い香りを発し、異様に美味しそうに見える。

 蓮子は、屋台の親父(顔が狐のように見えた)に差し出された串に刺さった半透明の果物を受け取った。

「……ご丁寧に」

「お代は?」

 とメリーが聞くと、親父はにやりと笑い、首をかしげただけだった。

「……今度、どこかで払うことになるのかもね」

「怖いこと言わないでくれる?」

 

 二人はマーケットの賑わいの中を進む。

「もらったこの果物、ぷるぷるしてるけど……食べられるのかしら」

「私が試してあげるわ!」

 蓮子がぱくりと頬張ると、口の中で強烈な甘みが弾けた。

「……おいしいわよ! よく冷えた砂糖入りの炭酸水みたい」

「……やっぱり危ないわね」

 言いながらも、メリーも小さな黄色い実を齧る。

 その時、ほのかに薄明かりがほんの一瞬だけ差し込み、マーケットの奥がよく見えた。屋台の隙間から覗くのは、果ての見えない迷路、天井のない夜空、奇妙な食材が並ぶ屋台――まるでバンコクのチャトゥチャック・ウィークエンド・マーケット。

 

「……こういうところ、嫌いじゃないけど」

「でも、居続ける場所じゃないわね」

「ええ、いつまでもいると、帰り道を見失うわ」

 

 いつの間にか、提灯の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。

 屋台の親父たちも、無言のまま、こちらを見送りはじめた。

「……そろそろお開きのようね」

「まだ肉饅は食べてないんだけど」

「あとで現実で食べればいいでしょう」

 メリーに促され、二人は来た路地を振り返ると、そこにはただの薄暗い裏路地が伸びているだけだった。異界の気配は、すっかり霧散していた。

 

 現実の中華街に戻った二人は、まだ腹の中で冷たい炭酸水が弾けるような感覚を残しながら、人気店の行列に並んだ。

「……異界の果物って、満腹感がないのよね」

「食べたカロリーもどこかに持っていかれたのかしら」

「いいじゃない。ダイエットになるわ」

「あなた、異界の果物にまで都合のいい意味を見出すのね……」

 そうして二人は肉饅の湯気に顔を近づけ、現実の温かさに胸をなでおろした。

 

 街の賑わいはいつも通りで、異界マーケットはどこにも見当たらなかった。

 けれど、ふと振り返ると、細い路地の奥でひとつだけ、赤い提灯が、まだ揺れていた。

 

「まだ、呼んでるみたいよ」

「またお腹が空いた頃にでも、来てあげましょう」

 二人は軽く笑い、熱々の肉饅を頬張った。

 

 

 

 翌朝、港の空は少し霞んでいた。

 前夜に赤レンガ倉庫の迷路を彷徨い、中華街の異界マーケットで得体の知れない果物を食べ歩いた蓮子とメリーは、山下公園近くのホテルで一夜を過ごした。

 

「昨夜の果物、消化されてる気がしないわ……」

 エレベーターの中でメリーが言った。腹の底で、まだ夜風がさざめいているような感じがしている。

「いいじゃない。幻想の味よ」

 蓮子は楽しげにウィンクした。

「胃の中に異界を飼ってるみたいで、ロマンを感じるじゃない」

「私はロマンより整腸薬が欲しいわ」

 そんな会話を交わしながら、ふたりは市営バスに乗り、山手の坂を登る。

 

 観光地としても有名なこのエリアには、開港当時の異人たちが建てた洋館が数多く残っていた。石畳の道に沿って並ぶ邸宅は、それぞれが異なる時代と文化の匂いを纏い、そこだけ時間が緩やかに流れているように感じられた。

 

「こういう場所って、空気が他と違うわよね。密度が薄いというか、地面との距離がふわっとしてる」

「さすがメリー、感覚派ね」

 蓮子は広げた地図をひらひらと畳みながら続ける。

「このあたり一帯、境界が折り重なってるみたいなのよ。異国と日本、過去と現在、生と──まあ、死とか」

「……やっぱり整腸薬飲んでおくわ。色々と嫌な予感がする」

 

 二人が辿り着いたのは、薔薇の咲き乱れる洋館の庭園だった。

 手入れの行き届いたバラのアーチをくぐり抜け、玄関脇のステンドグラスの前で足を止める。

 ステンドグラスには、古い異国の図柄に混じって、どこか見覚えのあるモチーフ──星、目、そして輪――が幾重にも重ねられていた。

 その輪の中心が、わずかに揺れている。風もないのに。

「……やっぱり。ここ、開いてるわ」

「どこが?」

「境界よ」

 メリーは窓枠に触れながら、小さな声で続ける。

「この館そのものが、向こうとこっちの通路みたいになってる。境界にまたがる、巨大なドアよ」

 

 蓮子は黙って、館の奥へ視線を移した。

 中は無人だった。家具や壁の装飾はまるで美術館のように整っているのに、そこには妙な気配──誰かが“いた痕跡”のようなものがあった。

 階段の踊り場に置かれた古時計が、誰も触れていないのに、音もなく針を一周させた。

「今……進んだ?」

「時間が動いてるのか、止まってるのか、判断がつかないわね」

 メリーがそっと階段を登りながら言った。

「いいのよ。時間っていうのは、私たちが動けば動くのよ」

「また名言風の暴論を……」

 

 二階の奥の部屋は、静寂に包まれていた。

 けれどメリーには、そこに「もうひとつの部屋」が重なって見えた。半透明の書斎。異国の書籍が積まれ、誰かの手が机の上でペンを滑らせている。その姿は見えないのに、椅子が微かに軋み、インクの香りが鼻をくすぐる。

「……蓮子も見えてる?」

「ええ。これは境界の“写り込み”ね。あちらの世界の記録が、この部屋に投影されてるのかしら?」

「まるで……向こうの誰かが、ここを通して観察してるみたい」

 

 蓮子はそっと、テーブルの上に置かれた紅茶のカップに指を添えた。まだ温かい。

「この紅茶、今淹れられたばかりね」

「蓮子、現実と夢の区別が本当に危うくなってきてるわよ。それは私の特権」

「ずるい! 私だって夢を楽しみたいわ」

「じゃあ、そのまま夢の住人として置いて帰ろうかしら」

 二人はそっと部屋を後にし、階段を降りる。

 そのとき――

 廊下の先にある、庭へと続くガラス張りの扉が、ひとりでに開いた。

 そこから見えたのは、現実の庭ではなかった。

 

 紫色の空に、白い薔薇が逆さまに咲き乱れる庭園。空中に浮かぶベンチと、永遠に回り続ける風見鶏。地面に映る人影が、こちらを見ている。

「……“深く入るな”って顔してるわね、あの影」

「私たちがここにいるのを“知ってる”わ」

「でも、招待はされてない」

 

 蓮子は一瞬だけ扉の方へ足を向けたが、次の瞬間には、踵を返していた。

 扉は風もないのに静かに閉じ、何事もなかったかのように佇んでいる。

 

「……入らないの?」

 メリーが問いかける。

「今日は見るだけ。入るのは、呼ばれた時だけでいいの」

「慎重なのね」

「違うわ、怖がりなのよ」

「正直でよろしい」

 

 その後、館を出て石畳の坂を下りながら、メリーがふと呟く。

「でも、あの薔薇の庭……少し、きれいだったわね」

「向こう側って、怖くて、美しくて、ちょっと居心地がいい」

「居心地が良すぎるのが問題なのよ。ああいう場所って、帰る気を失わせるから」

 

 港の風が、山の手まで吹き上げてきた。

 ふたりはその風に押されるように、ふたたび横浜の街へと戻っていく。

 異国と現実の境界は、今日も、どこかで少しだけずれているのかもしれない。

 

 

 

 港の風は、陽が沈んでも生ぬるかった。

 山手の洋館めぐりを終えた二人は、バスに揺られて港の方まで戻ってきた。

 高台から見下ろしたときの港町が、いまや目の前に広がっている。

 

「こうして見ると、山手からの眺めも悪くなかったけど、やっぱり港に近い方が“境界”って感じがするわね」

 蓮子が帽子のつばを指先で弄びながら言う。

 メリーは薄い笑みを浮かべ、夜の湾に目をやった。

「高台の洋館は“遠くから覗く”場所。ここは、“足を踏み入れる”場所。どっちも必要なのよ、境界を感じるには」

「哲学的ね。でも私、哲学より夕飯の方が大事なんだけど」

 二人は笑いながら、みなとみらいの中心に立つ観覧車、コスモクロック21へと向かう。

 湾に向かって大きく開いた夜景の中に、時計の文字盤のように浮かぶそれは、今も静かに光を回し続けていた。

 

「しかし、こうして見ると……やっぱり不自然なランドマークよね。巨大なビル群と海の間に突っ立ってて」

「もともと臨時のものだったんだもの。1989年の博覧会のために作られて、終わったら撤去されるはずが、そのままひとり取り残されて。都市計画の都合で場所を移されても、きっとまだ夢の続きを見てるのよ」

 蓮子はふっと笑って、観覧車を見上げる。

「じゃあ、そろそろ夢の続きを覗きに行きましょうか」

 

 チケットを買い、乗り場で並んでいると、夜風に舞うチケットが足元に落ちた。

――天使のイラストが描かれ、『YES’89普通入場券』の文字が記載されている

 蓮子がチケットを拾い、メリーに見せる。

「こういうのがあるから、この街は楽しいのよ」

「趣味が悪いのは確かね。でも、嫌いじゃないわ」

 

 時計の針が21時21分を指す頃、二人は係員に促され、星の印が浮かぶ二十一番のゴンドラへと乗り込んだ。

 天井の真鍮の星が、わずかに脈打つ。

「……なんだか、臨時の未来が取り残された、っていうより、むしろ“定着してしまった”感があるわね」

「定着しているけど、どこか場違いなままなのよ。それが異界の入り口っぽくて素敵じゃない」

 観覧車がゆっくりと回り始める。

 ゴンドラが上がるにつれ、二人は港の夜景に包まれた。

 港の輪郭は灯りに縁取られ、赤レンガ倉庫の屋根が低く広がり、その奥に中華街のきらめきが見える。

 洋館の街灯が遠くに点のようにまたたき、海は漆黒の鏡のように街の光を映している。

「こうして見ると、現実の夜景もなかなか悪くないわね」

 メリーが窓に頬を寄せる。

「ほんとよ。異界じゃなくても十分に幻想的」

「……なんて、思うのは今のうちだけね」と、悪戯な笑みを浮かべるメリー。

 

 ゴンドラが頂上に近づくと、湾の光が奇妙にゆがみ始めた。街の灯りがまるで星座のように並び替わり、隠されていた異界の都市が浮かび上がる。

 そこに広がっていたのは、昭和と平成が夢見た“未来”。

 丸く膨らんだ高層ビル、宙に浮かぶガラスチューブの道路、無駄に幾何学的な公園。壁一面にネオンの看板が躍り、空中庭園の下には球体のモノレールが回る。

 どこまでもノスタルジックで、けれどどこにもない未来。

 

「……懐かしいわね」

 蓮子が小さく息をついた。

「私たちが生まれる前の人たちが夢見た未来。いま見ると、ずいぶん可愛らしいのね」

「可愛いけど、置いていかれちゃった未来よ」

 ゴンドラのドアの向こうに、異界の降り口が現れた。

 そこには、白いスーツを着た人影たちが立っていて、遠くからこちらを見ている。

「降りる?」

 蓮子が尋ねる。

「やめておくわ。夢の中で置き去りにされた未来には、住む場所はないもの」

 

 二人はドアの向こうを見つめる。

 古い未来の人々が、どこか寂しげに微笑みながら、ゴンドラの中の二人を見送る。

 観覧車が再び動き出し、異界の都市はゆっくりと溶け、現実の夜景が戻ってきた。

 

 ゴンドラが地上に着き、二人は降り立った。

「結局、行かなかったね」

「ええ。未来は、自分の足で歩くものだもの」

 二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。

 過去の未来時間を刻む時計の輪が、夜空に浮かび、静かに回り続けていた。

 

 

 二人は帰り着いたホテルの一室で缶ビール片手に微睡んでいた。

「ねえ蓮子、思うんだけど――」

「なあに?」

「この街、全部が異界みたいね。赤レンガ倉庫、中華街、山手の洋館、観覧車……境界だらけよ」

「うん。開国の頃よりこの国にとっての”異物“をごちゃ混ぜにして取り込んできたんだもの。境界が残らないわけがないわ」

「そうね。……明日は旅行最終日。どこの境界を視に行こうかしら?」

「あらメリー、視るだけで済むの?」

 

 二人は互いに微笑む。

 窓から見えたコスモクロック21が消灯した。港町が眠りについたその瞬間、また境界がそっと揺れたように見えた。

 

 二人の横浜旅行は、まだ終わらない。

 




初めまして。酉河つくねといいます。
秘封倶楽部が好きで小説を書いています。
これからいろいろ投稿できればと思います。

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