現実の人物とは一切関係がありません。
夜だった。
瓦礫の町から少し離れた、高架下。
外山街児は、コンクリートの柱にもたれながら、膝を抱えていた。
「……はぁ……」
ため息が、やけに大きく聞こえる。
(なんで……こんなことに……)
ほんの昨日まで、
学校行って、帰って、飯食って、寝るだけの生活だった。
それが今は――
町は消えて、
知らない女の人といて、
「戦う力がある」とか言われている。
「む、無理でしょ……普通に……」
声に出すと、少し落ち着いた。
その横で、ジェン・ダーは壁に背を預け、周囲を警戒している。
「ねえ……」
街児が、小さく声をかける。
「ぼ、僕……本当に……
その……戦うしか……ないんですか……」
ジェンはすぐに答えなかった。
しばらくして、短く言う。
「選択肢は、三つ」
「……み、三つ……?」
「逃げる。隠れる。握る」
街児は、思わず俯いた。
「……逃げても……
どうせ……追ってきますよね……」
「ええ」
即答だった。
「隠れても?」
「嗅ぎつけられる」
その言い方に、街児は背中がぞわっとした。
「……じゃあ……」
「残るのは、ひとつ」
ジェンは、街児の拳を見る。
「握る」
「……」
街児は、ぎゅっと手を握り直した。
「……こ、怖いです……」
「知ってる」
ジェンの声は、少しだけ柔らかかった。
その時だった。
――ぬるり。
空気が、変わった。
甘ったるく、
鼻にまとわりつくような、不快な臭い。
「……っ」
街児は、思わず口元を押さえる。
「う……なに……これ……」
「来たわね」
ジェンが、一歩前に出る。
高架下の影から、
ゆっくりと人影が現れた。
「くっさ……」
男は、笑っていた。
半笑い。
口元を押さえたまま、楽しそうに。
「いや〜……
やっぱさぁ……
“覚醒直後”の匂いって、最高だよね」
街児の喉が、鳴る。
「……だ、誰……」
「おっと、失礼」
男は大げさに頭を下げた。
「ダニ・ビラ。
君たちみたいな“新米”を、
ちょっとからかうのが趣味でさ」
「……か、からかう……?」
「うん」
ダニは、ゆっくり近づいてくる。
一歩ごとに、
臭いが、濃くなる。
「離したくなるでしょ?」
「……っ……」
街児の視界が、少し揺れた。
「な……なに……これ……
気持ち……悪……」
「でしょ?」
ダニは嬉しそうだった。
「ほらほら、
その手。開いちゃいなよ」
ジェンが、低く言う。
「街児、見るな。吸うな」
「む、無理……です……
に、臭いが……」
ダニが、にやりと笑った。
「いいね、その顔」
「我慢してる感じ、最高」
次の瞬間。
ダニが、ぐっと拳を握った。
臭気が、圧になる。
「――っ!!」
街児の膝が、がくっと落ちた。
「……や……やば……」
吐き気。
目眩。
頭が、真っ白になる。
(は……離したい……)
その時。
ジェンが、街児の肩を掴んだ。
「外山街児!」
「……っ!」
名前を呼ばれ、意識が戻る。
「今、何を握ってる?」
「……え……」
「考えなくていい。答えて」
街児は、震えながら答えた。
「……こ……この……気持ち……」
「それでいい」
ジェンは、街児の前に立つ。
「離すな」
ダニが、舌打ちした。
「チッ……
邪魔すんなよ、ジェン」
「この子は、まだ“壊していい段階”じゃない」
「へぇ?」
ダニは、興味深そうに街児を見る。
「じゃあさ」
「試すだけ、試していい?」
次の瞬間――
街児の顔のすぐ前まで、ダニが迫った。
「……っ!!」
「ほら」
「臭いでしょ?」
街児の手が、震える。
(やだ……)
(でも……)
(ここで……離したら……)
街児は、歯を食いしばった。
「……は……離し……ません……」
声は小さい。
でも、確かだった。
ダニは、一瞬だけ目を見開き――
そして、笑った。
「……いいね」
「その目」
「覚えとくよ、インキャくん」
次の瞬間、臭いが引いた。
ダニは、後ずさる。
「今日はここまで」
「続きは……
ちゃんと“握れる”ようになってから、ね」
そう言い残し、
闇の中へ消えていった。
沈黙。
街児は、その場にへたり込んだ。
「……た……助……かっ……た……?」
ジェンは、深く息を吐く。
「ギリギリね」
街児は、まだ震える手を見る。
「……ぼ、僕……
本当に……戦えるんですか……」
ジェンは、少し考えてから答えた。
「戦い方は、知らない」
「でも」
彼女は、街児の拳を見る。
「離さなかった」
街児は、かすかにうなずいた。
「……それ……だけは……」
夜風が、吹き抜ける。
外山街児はまだ弱い。
まだ怖い。
まだ何もできない。
それでも――
手だけは、開かなかった。
――第三話・完。