マレーシア、クアンタン。
南シナ海に面したその街は、じっとりと肌にまとわりつく熱気と、どこまでも青い水平線に抱かれていた。
海岸沿いのカフェテラス。
古びたファンが天井で緩やかに回転する下で、七海建人と水都梨那はテーブルに向かい合っていた。
「見たまえ七海! この黄金色に輝くジャムを! これぞまさに、僕のバカンスの幕開けに相応しい至宝だ!」
水都が高らかに声を上げ、目の前の皿を指し示す。
そこには、こんがりと焼かれた薄切りのトーストが積まれていた。
カヤトースト(Kaya Toast)
それは、ココナッツミルクと卵、砂糖、そしてパンダンリーフを煮詰めて作られた「カヤジャム」を、厚切りのバターと共にトーストで挟んだものだ。
七海は疑わしげな視線を皿に向けつつ、一切れを手に取った。
サクッ、という軽快な音。
続いて口の中に広がるのは、濃厚なココナッツの甘みと、バターの塩気。
熱帯の熱気で疲弊した脳髄に、その強烈な甘さが染み渡っていく。
「……悪くない」
七海は短く呟いた。
「だろう? 現地の人間はこれを半熟卵に浸して食べるらしいが、僕はあえてそのままで頂いたよ。この甘美な背徳感! 労働の後の疲れた体には毒なほど効くだろう?」
「……ええ。日本のカスクートも良いですが、この素朴な甘さは、今の私には丁度いい」
かつて行きつけだったパン屋の娘を思い出しながら、七海は二口目を運んだ。
不思議と、肩の力が抜けていくのを感じた。
チェンドル(Cendol)
「さて、次はこれだ! 見た目は少々グロテスクだが、味は保証するよ!」
次に運ばれてきたのは、山盛りのカキ氷だった。
しかし、日本のそれとは趣が違う。
氷の上には緑色の細長いゼリー(パンダンリーフで着色された米粉の麺)が大量に乗せられ、赤茶色のシロップとココナッツミルクがたっぷりとかけられている。
「この緑色の物体……まるで深海に潜む未知の生物のようだが……」
水都はスプーンで緑のゼリーをつつきながら、おっかなびっくり口に運ぶ。
瞬間、彼女のオッドアイが見開かれた。
「んんっ!? 美味しいじゃないか!」
グラ・マラッカ(椰子糖)のコクのある深い甘みと、ココナッツミルクのまろやかさ。
そして氷の冷たさが、火照った体を内側から冷やしてくれる。
七海もまた、スプーンを進めた。
小豆の食感がアクセントになり、見た目に反して上品な味わいだ。
「『創作料理』のような奇抜な見た目だが、味は計算されているね。合格だ! この僕が星を与えよう!」
「貴女は何様ですか……。ですが、確かに。この暑さの中では、下手に凝った菓子よりもこの冷たさが一番の御馳走ですね」
クエ(Kuih)
最後に出てきたのは、色とりどりの一口サイズのお菓子たち。
もち米やココナッツ、タピオカ粉で作られた、マレーシアの伝統菓子「クエ」の盛り合わせだ。 鮮やかなピンク、緑、白、青。
層になったものや、丸められたもの。
まるで宝石箱のような見た目に、水都のテンションは最高潮に達した。
「素晴らしい! まるでサロン・メンバーたちが舞踏会のために着飾ったようだよ。七海、君にはこの地味な色の……ええと、グラ・マラッカ味のものをやろう」
「私はそれで構いませんよ。派手なものは貴女にお任せします」
七海はホットコーヒーを啜りながら、甘い餅菓子を口に放り込む。
窓の外では、白い砂浜に波が寄せている。
呪霊も、上層部の腐敗も、終わりのない任務もない。
ただ甘い菓子と、騒がしい自称・神と、穏やかな時間だけがそこにあった。
「……七海、君は笑うと案外、悪くない顔をするんだね」
ふと、クエを頬張った水都が言った。
「笑ってなどいませんよ」
「いいや、笑っていたさ! 僕の目は誤魔化せない!」
七海はふと、自分の口元に触れた。
指先についたカヤジャムを拭き取りながら、彼は心の中で独りごちた。
──こんな時間が、もう少し続いてもバチは当たらないだろう、と。
南国の夕暮れが、海の色を深い紫色へと染め上げていく。
豪奢なホテルのラウンジには、波の音と、氷がグラスに当たる涼やかな音だけが響いていた。
最後のクエ(菓子)を口に運び終えた水都梨那は、ナプキンで口元を優雅に拭うと、唐突に立ち上がった。
そして、まるで劇の幕引きを宣言するように言った。
「──満足だ。この地の空気も、菓子も、十分に堪能した」
七海建人はコーヒーカップを置き、怪訝な顔を向けた。
彼女の満足の基準は相変わらず不明瞭だ。
だが、これでようやく日本へ戻れるということだろうか。
帰国すれば、交流会の報告書作成や溜まった任務が待っている。
そう思考を切り替えようとした七海に対し、水都は信じがたい言葉を放った。
「じゃあ君はこのまま、ここで半年ほど休暇を楽しみたまえ。ボクは明日の便で帰る」
「……は?」
七海の思考が停止した。
半年。
今、この特級術師は何と言った? 数日ではない。
半年だ。
それは長期休暇などという生易しいものではない。
職務放棄、あるいは失踪の類だ。
「何を馬鹿なことを。任務は終わったのでしょう? なら速やかに帰国し──」
「ノン! 君の任務はまだ終わっていない。『私の護衛』という名目はここで失効したが、新たに『現地での長期潜伏および文化調査』という特命を与えよう!」
水都はふんぞり返り、懐から分厚い革の物体を取り出した。
それは、見るからに重そうな長財布だった。
「これを受け取るといい!」
ドサッ、と重たい音がテーブルの上で鳴った。
彼女はそれを、七海の胸元めがけて放り投げたのだ。
反射的に受け止めた七海の手には、ずしりとした重量感が伝わる。
中を確認するまでもなく、そこには目が眩むような額の現金と、限度額無制限に近いカードが詰め込まれていることが分かった。
「……水都さん。これは賄賂ですか、それとも手切れ金ですか」
「必要経費だ! 家を借りるなり、本を買い漁るなり好きにしたまえ。君はずっと言っていたじゃないか。何もしない時間を過ごしたいと」
水都は七海の抗議を許さない勢いで捲し立てる。
七海は財布をテーブルに置き直し、鋭い視線を彼女に向けた。
「受け取れません。それに、私が半年も不在になれば、高専の業務が回りません。今は人手不足です。虎杖君の指導も、真人の件も……」
「あーもう、うるさいうるさい!」
水都は大げさに耳を塞ぐ仕草を見せ、そして、ふっと真顔になった。
そのオッドアイが、夕闇の中で妖しく光る。
「七海建人。君は少し、自分の背負う荷物を過大評価しているんじゃないかい?」
「……突然何です?」
「仕事? 呪霊? 世界の危機? そんなものはね──」
彼女はニヤリと笑い、吐き捨てるように言った。
「バカ目隠しに任せればいい」
その言葉には、絶対的な信頼と、それ以上の諦観が混じっていた。
現代最強の術師、五条悟。
彼がいれば、世界は回る。
一人の一級術師が半年いなくなったところで、地球の回転は止まらない。
それは残酷な真実であり、同時に救いでもあった。
「バカ目隠しは『最強』だ。君一人が泥を被って、擦り切れるまで働く必要なんてどこにもないんだよ。……たまには、後輩や先輩に丸投げして、キミは客席でポップコーンでも食べていればいいのさ」
「水都さん……」
「というわけで、決定だ! これは『特級呪術師』からの命令(オーダー)だよ!」
水都はくるりと背を向けた。
その背中からは、これ以上の議論を拒絶する意志が立ち上っている。
「さあ、僕は荷造りがあるからね! 君は明日の朝、波の音で目覚めるといい。労働の目覚まし時計ではなくね!」
七海が立ち上がろうとする気配を制するように、彼女は足早にラウンジを去っていく。
一度も振り返らなかった。
(流石に怒ってるかなぁ、でもあのままだとそのうち死にそうなぐらい疲れてそうだったし。いやぁボクはいい仕事をした!とはいえ帰ったらバカ目隠しに何か言われそうだなぁヤダなぁ)
情けない呟きを心の中にしまい込み、彼女は姿を消した。
残されたのは、呆然とする七海建人と、テーブルの上の重たい財布。
そして、窓の外に広がる、どこまでも穏やかなクアンタンの海だけだった。
彼は深く、長く溜息をつき、再び椅子に深く沈み込んだ。
「……五条さんに任せろ、ですか」
その命令が、どれほど理不尽で、どれほど優しい「縛り」であるかを、彼はまだ知らない。
ただ、投げつけられた財布の重みだけが、これは夢ではないと告げていた。
「……仕方ありませんね。今日は、もう一杯だけ頂くとしましょうか」
七海はウェイターを呼び止める。
彼の長い、長い休暇が、ここから始まろうとしていた。
所変わって高専の教員室。
気だるげな午後の日差しが差し込む部屋で、五条悟はパイプ椅子を前後に揺らしながら、天井のシミを数えていた。
バン、と乱暴に扉が開かれたのは、ちょうど彼が三百個目のシミを見つけた時だった。
「ただいま! そして称えるがいい! この水都梨那が、異国の地より凱旋したぞ!」
入ってきたのは、不釣り合いなほど大きなトランクケースを引きずり、しかし足取りだけは軽やかな少女──水都梨那だった。
その顔には、長旅の疲れなど微塵も見せず、舞台女優のような満面の笑みが張り付いている。
五条はサングラス越しに彼女を見やり、ひらりと片手を挙げた。
「おっかえりー。早いじゃん、梨那。……で?」
五条は椅子の背もたれに体重を預けたまま、彼女の背後、誰もいない廊下を覗き込むような仕草をした。
「僕の可愛い後輩、七海は? まさかトランクの中ってことはないよね?」
「失敬な。彼は今頃、クアンタンの波音をBGMに、優雅に文庫本を読んでいる頃だよ」
水都は胸を張り、悪びれもせず言った。
「彼は素晴らしい『役』を得たんだ。『何もしない男』という、現代社会において最も贅沢で困難な役どころをね。だから僕が、演出家として彼の長期滞在を許可した。半年ほどな!」
半年。
その単語が出た瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。
一級呪術師の半年間の離脱。
それは高専にとって痛手であり、本来なら許されることではない。
だが、五条は口笛を吹いた。
「へえ、半年。……思い切ったねぇ」
五条の『六眼』が、水都の呪力の揺らぎを観測する。
彼女の言葉に嘘はない。
だが、その瞳の奥──演じている仮面の裏側に、奇妙な焦燥と、悲壮な決意のようなものが渦巻いているのを、彼は感じ取っていた。
「七海先輩の顔見たかいバカ目隠し? あれはそろそろ死にそうな顔だった。一級呪術師の過労死なんて最悪だ。七海先輩が七三呪霊になって上層部のミカンが7:3にしてしまうじゃないか」
「HAHAHA!上層部が7:3とか見てみたいんだけど! で、お土産は? まさか手ぶらじゃないよね? 七海を置いてきたんだから、それ相応の対価がないと僕泣いちゃうよ?」
「ふふん、抜かりはないさ! これを見たまえ!」
水都はトランクを開け、中から大量の箱を取り出した。
カヤジャム、ココナッツクッキー、マンゴーのドライフルーツ、そして謎の木彫りの置物。
「現地の銘菓を買い占めてきた! 特にこのカヤジャムは絶品だぞ。糖分を愛する君なら、この神の恵みを理解できるはずだ!」
「お、いいねえ! 分かってるじゃん!」
五条はカヤジャムの瓶を手に取り、嬉々として蓋を開ける。
甘い香りが漂う中、彼はスプーン代わりの指でそれを掬い舐め、ニヤリと笑った。
「うん、合格。……で、なんで水都は帰ってきたの?」
唐突に、声のトーンが落ちた。
五条の蒼い瞳が、サングラスの隙間から水都を射抜く。
「七海だけ休ませて、自分も一緒にサボれば良かったじゃん。君なら『飽きた』とか言って半年くらい消えても、腐ったミカンも文句言えないでしょ」
それは、五条なりの気遣いだった。
彼女もまた、何かに追われるように奔走しているように見えるからだ。
水都は一瞬だけ、虚をつかれたような顔をした。
オッドアイが揺れる。
だが、すぐに彼女は「水神」の仮面を被り直し、大仰に腕を広げた。
「愚問だね、バカ目隠し!」
彼女はビシッと五条を指さす。
「これからの季節! この日本ではどれだけのスイーツの新作が出ると思ってるんだい!!向こうに居たら食べられないだろ!! やはりスイーツのトレンドはココだよ!!」
「……そっか」
(クソくだらん理由で笑える! あの目の理由これかよHAHA)
五条は再び、甘いジャムを口に運んだ。
その甘さは、難しく考えすぎた自分の馬鹿馬鹿しさを中和してくれるようだった。
「じゃあ、働いてもらおうかな。七海の分までさ」
「望むところだ! 僕の『サロン・メンバー』たちは休暇明けでウズウズしているからね!」
水都は踵を返し、ステッキを鳴らして部屋を出て行こうとする。
その小さな背中を見送りながら、五条は小さく呟いた。
「……スイーツ巡りは便乗するか」
その声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。
水都は振り返らず、ただ片手を挙げてヒラヒラと振ってみせた。
閉ざされた扉の向こうで、彼女の芝居がかった高笑いが響く。
「さあ行こう! 開演のベルはもう鳴っているぞ!」
五条悟は空になったスプーンを置き、窓の外に広がる東京の空を見上げた。
書いてて重くなりそうな気がしただけだった杞憂やったね。
フリーナが夏の新作スイーツに食いつかない訳がないから。
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