2人の日記の余白   作:ミスブルー

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第一話


記録されない違和感

 この世界に来てから、俺は記録を欠かしていない。

 日付、天候、会話の断片、人々の行動。意味があるかどうかは後で判断すればいい。記録とはそういうものだ。

 その日も俺は施設の一角にある小さな資料室で借りた本を元の棚に戻していた。

 紙の匂いと、わずかに軋む床。静かで、変化の少ない場所だ。

 ――はずだった。

 

「ねえ、たんたん」

 

 背後からヒアンシーの声がした。

 彼女はいつも、思いついたことをそのまま口にしている気がする。

「この机、昨日と位置が違いませんか?」

 

 俺は振り返り、彼女の視線の先を見る。

 資料室の中央に置かれた、古い木机。四人掛けで、今は誰も使っていない。

 見た目には何の異常もない。

だが俺は机と床の境目に残る、かすかな擦り跡に気づいた。

 

「……数センチ、ずれているな」

 

「ですよね」

 

 ヒアンシーは嬉しそうに頷いた。

 

「でも不思議なんです。鍵はちゃんとかかってました。荒らされた形跡もないのに」

 

 俺は一度、否定しかけた。

 机が動く理由はいくつも考えられる。清掃、点検、気まぐれ。

 だがそのどれもが、今日という日付と噛み合わない。

 

「この部屋は使われていないんだろう?」

 

「はい。少なくとも今は。だから余計に私気になるんです」

 

 彼女はそう言って、机に近づき、そっと手を置いた。

 押してみる様子はない。ただ、触れて確かめるだけ。

 

「たんたん。意味のないことって本当に起きると思いますか?」

 

 俺は答えなかった。

 代わりに床の擦り跡の向き、机の脚の影、窓から差す光の角度を記録する。

 机は入り口から遠ざかる方向へ動かされていた。

 まるで誰かがこの場所に“留まりたかった”かのように。

 俺はノートを閉じた。

 

「……まぁ気になるな」

 

 そう言った瞬間、ヒアンシーは満足そうに微笑んだ。

 それが、俺たちがこの小さな謎に関わることになった、最初の記録だった。

 

 

 

 

 翌朝、俺は少し早めに資料室へ向かった。

 ヒアンシーは来ていない。

 机は、昨日よりもわずかに動いていた。

 だが――違和感がある。

 

「……止まっているな」

 

 机は中央まで行っていない。

 中途半端な位置で、きっちりと揃っている。偶然にしては整いすぎている。

 

「おはようございます、たんたん!」

 噂をすれば、だ。

 ヒアンシーは小走りで入ってきて、机を見るなり目を輝かせた。

 

「ね、動いてますよね! 

やっぱり昨日の見間違いじゃなかったんです」

 

「そうだな。ただし――」

 

「ただし?」

 

 俺は床を指さした。

 薄い擦り跡は、いつも同じ場所で止まっている。

 

「毎回ここまでしか動いていない」

 

 ヒアンシーはしゃがみ込み、床と机を交互に見比べる。

 

「本当です……。どうして中途半端なんでしょう。動かすならもっと端に寄せたほうが楽なはず…?」

 

「それが目的じゃないからだ」

 

 思わず口に出してから、俺は一瞬だけ言葉を選んだ。

 

「……少なくとも、“片づけ”ではない」

 

「じゃあ誰かの遊びとか?」

 

「遊びにしては規則的すぎる」

 

 ヒアンシーは少し首を傾げ、それから柔らかく笑った。

 

「ねえ、丹恒くん」

 

 この呼び方は、彼女が真剣な時だ。

 

「これ、もしかして誰かが“見てほしい”って思ってるんじゃないですか?」

 

 俺は答えなかった。

 だが否定もしなかった。

 机の位置は、ちょうど窓からの光が当たる場所で止まっている。

 朝のこの時間帯にだけ、影がはっきりと床に落ちる位置。

 

「毎朝、この時間に動かされている可能性が高い」

 

「朝……?」

 

「人目につきにくく、それでいて“完全には隠れない”時間だ」

 

 ヒアンシーは目を瞬かせた。

 

「隠れたいのに、気づいてほしいってことですか?」

 

「矛盾しているように見えるが、人の行動としては珍しくない」

 

 俺はノートを開き、時刻と机の位置を書き留めた。

「ねえ、たんたん」

 

「なんだ」

 

「これが解けたらすっきりすると思いますか?」

 

 少し考えてから、俺は答えた。

 

「……たぶん、しないな」

 ヒアンシーは一瞬きょとんとした顔をしてそれから静かに笑った。

 机は今日も、同じ場所で止まっている。

 それはまるで、誰かの“立ち位置”そのものだった。

 

 

 その日の昼、ヒアンシーは俺より先に資料室へ来ていた。

 正確には、資料室の前の廊下で、誰かと話していた。

 

「――だからですね」

 

 声を落としているが、隠す気はないらしい。

 

「……あの部屋か」

 

 相手は年配の職員だった。

 俺が近づくと、その人は軽く会釈をして去っていく。

 

「何を聞いてきたんだ?」

 

 俺がそう言うと、ヒアンシーは一瞬だけ“やってしまった”という顔をしてから、すぐに開き直った。

 

「怒らないですか?」

 

「内容による」

 

「じゃあ半分だけ怒っていいですよ」

 

 彼女は資料室に入り、例の机を見てから話し始めた。

 

「この部屋、前は“記録担当”の人が使ってたそうです」

 

 俺の指が、無意識に止まった。

 

「記録?」

 

「はい。今はもう使われてない形式の資料をまとめてた人。

几帳面で、静かで、あんまり目立たない人だったと…」

 

 ヒアンシーは机の横に立ち、窓のほうを見た。

「その人――この机、同じ位置に置いていたそうです」

 

 俺は、ゆっくりと視線を巡らせた。

 窓、机、入口。

 そして、机の位置から見える“廊下”。

 

「……見えるな」

 

「そうですよね?」

 ヒアンシーは小さく頷いた。

 

「廊下を通る人の足元が、ちょうど見えるんです。顔までは見えません。でも誰が来たかは分かる位置」

 

 記録係。

 

 人を待つ立場。

 だが、迎える立場ではない。

 

「その人はどうしていなくなったんだ?」

 

 ヒアンシーは、少しだけ言葉を選んだ。

「“いなくなった”っていうより……配置換え、だと。必要なくなったそうです」

 

 必要なくなった。

 

 その言葉は、理由を説明しているようで、何も語っていない。

「でもですね…たんたん」

 彼女は机に手を置いた。

 

「この机、誰かの“作業台”じゃない気がします」

 

「どういう意味だ」

 

「ここ、仕事をするには不便なんです。光が強すぎて人の気配も落ち着きません」

 

 彼女はそう言って、廊下に視線を向けた。

 

「でも、“待つ”にはちょうどいい」

 

 俺は、ノートを開いた。

 記録係。

 廊下が見える位置。

 毎朝、同じ時間。

 

「……机を動かしているのは、その人物だと考えるのが自然だ」

 

「うん。でも」

 

 ヒアンシーは、そこで一度言葉を切った。

 

「その人はもうこの施設には入れないそうです」

 

 俺は顔を上げた。

「理由は?」

 

「規則だならと。今はもう、関係者じゃないからと…」

 

 だから、鍵のかかった資料室。

 だから、朝の短い時間。

 だから、机は“戻されない”。

 

「ねえ、たんたん」

 ヒアンシーの声は、いつもより少しだけ低かった。

 

「これ、止めたほうがいい謎ですか…?」

 

 俺はすぐには答えなかった。

 真相は、もう形を持ち始めている。

 

「……知らないふりをすることはできるかもしれないな」

 

「でも?」

 

「それでも、机は動き続ける」

 

 ヒアンシーは静かに息を吐いた。

 

「じゃあ、知ることになりそうですね」

 

「あぁ」

 

 俺は机を見た。

 それは、誰かの不在を示すには、あまりにも几帳面だった。

 ――記録は、残されるためのものだ。

 だが、残したい理由は、必ずしも未来にあるとは限らない。

 

 その朝、俺はいつもより少し早く資料室の前に立っていた。

 鍵の音は聞こえない。だが、机の位置は――昨日と同じ場所で止まっている。

 廊下の奥、足音がひとつ分、遅れて響いた。

 顔を上げると、見覚えのない人物が立っていた。

 いや、正確には「見覚えがないはずなのに、違和感がない」人だ。

 その人は俺を見て、一瞬だけ動きを止めた。

 

「……もう、使われているとは思わなかった」

 

 声は低く、静かだった。

 言い訳でも、詰問でもない。ただの確認。

 

「ここは、今は使われていません」

 

 俺がそう言うと、その人は小さく息を吐いた。

 

「そうだろうね。だから、朝だけにしていた」

 否定しなかった。

 それだけで、仮説は確信に変わる。

 

「机を、動かしていたのはあなたですね」

 

 その人は視線を机に落とし、少しだけ苦笑した。

 

「……記録係の癖が、抜けなくてね。位置がずれていると、落ち着かない」

 

 理由としては、十分すぎるほど弱い。

 だが、動機はそこにはない。

 

「本当の理由は、別にありますね」

 

 俺はそう言ってから、言葉を選んだ。

 これは糾弾ではない。説明だ。

 

「あなたは、机を“使って”いなかった。ただ、そこにいた」

 

 相手は何も言わない。

「毎朝、同じ時間。

 

 窓から光が入って、廊下の足元が見える位置。

 

 人の顔は見えないが、誰が通ったかは分かる」

 

 俺は一歩だけ机に近づいた。

 

「あなたは、仕事をしていたんじゃない。

 ――ここに自分がいた時間を、もう一度なぞっていただけだったんです」

 

 沈黙が落ちた。

 やがて、その人は小さく頷いた。

 

「……記録は、残るものだと思っていた。

 だが、必要なくなった途端、何もかも消える」

 

 だから、戻ってきた。

 だから、机を動かした。

 だから、誰にも見つからないようで、完全には隠れない位置で止めた。

 

「気づいてほしかったわけじゃない」

 

 その人はそう言った。

 

「でも、誰にも気づかれないのも……違う気がしてね」

 

 俺は、それ以上は踏み込まなかった。

 

「このことを、公にするつもりはありません」

 

 相手は少し驚いたように俺を見た。

 

「理由は?」

 

「実害がありませんから。それに――」

 

 俺は机を見た。

 

「これは、あなたの問題であって施設の問題じゃないからです」

 

 その人は、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……ありがとう」

 

 そして、何も持たずに去っていった。

 机は、その日を境に、動かなくなった。

 

 

「つまり…」

 

 その日の夕方、資料室でヒアンシーに説明した。

 

「机が動いてた理由は、“作業”ではない“居場所”だった」

 

 彼女は机を見て、少し考え込む。

 

「誰かがもう戻れない場所に気持ちだけ置きに来てた……ってことですか?」

 

「近い」

 

 俺は頷いた。

 

「だから、毎朝同じ位置。

 だから、光の当たる場所。

 だから、誰にも見つからないけど、消えもしない」

 

 ヒアンシーはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

 

「……それ、解いちゃってよかったんでしょうか」

 

「それは分からない」

 

 それが正直な答えだった。

 

「でも放っておいても、机は動き続けたはずだ」

 

「そうですね…」

 

「だから、終わらせただけだ」

 

 ヒアンシーは、少し困ったように笑った。

 

「すっきりは…しませんね」

 

「しないな」

 

 俺はノートを閉じた。

 この件について、名前は書かない。

 必要なのは、事実だけだ。

 謎は解けた。

 

 だが、正解だったかどうかは、記録できない。

 それでも――

 

 机は、もう動かない。

 

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