俺のノートは、罫線入りの、ごく普通のものだ。
紙質も、装丁も、この世界で簡単に手に入る。
特別なのは、中身だけだ。
日付、時刻、場所。
観測した事実と、そこから導ける仮説。
感情は極力書かない。感情は変化するが、事実は残る。
――残るはずだった。
この街に来てから数日…朝、俺はストーブの前でノートをめくっていた。
外は雪。窓の向こうで音が吸われている。
問題の頁は、すぐに見つかる。
直前の記録は、途切れていない。
記録:継続中
同行者:ヒアンシー
状況:移動中
特記事項なし
ここまでは、確かに俺の筆跡だ。
だが、その次。
本来なら、
「到達」「環境変化」「初期観測」
が書かれているはずの場所に、何もない。
破られた形跡はない。
インクが滲んだ様子もない。
最初から、書かれていない。
ページ番号は、連続している。
時間だけが、存在しない。
「……」
俺はペンを取り、空白を埋めようとして止めた。
事実がない。
事実がない以上、記録はできない。
「たんたん、またそれですか?」
向かいの椅子に座り、ヒアンシーが湯気の立つカップを差し出してくる。
「そこ、何も書いてないですよね」
「あぁ」
「消えたではなく?」
「違う。最初から存在しない」
彼女は少し考え込み、雪の降る窓を見た。
「そこって…」
「?」
「“来た瞬間”ですよね」
俺は頷いた。
「移動していた記録はある。
ここにいる記録もある。
だが、その間だけが欠落している」
「……」
ヒアンシーはカップを両手で包みながら言った。
「それなら私たち、来たんじゃないんですよ」
俺は顔を上げた。
「続いてたんだと思います。
世界が私たちを含めて」
その言い方は、論理的ではない。
だが、妙に正確だった。
「説明はつかないな」
「はい。でも違和感は減りましたよ」
彼女はそう言って、笑った。
俺は空白の頁に、短く書き足す。
経緯:不明
記録:欠落
状況:継続中
理由は、まだ分からない。
だがこの欠落がある限り俺たちはここにいる。
外では雪が静かに降り続いていた。
足跡はすぐに消える。
――記録だけが、残る。
俺達がいるこの場所の冬は、音が少ない。
雪が降っていなくても、空気がすべてを吸い込んでしまうような静けさがある。
市立図書館の自動ドアが閉じた瞬間、外の冷気が断ち切られた。
「暖かいですねぇ……」
ヒアンシーが小さく息をつく。
白い息が出ないことに、少しだけ安堵したようだった。
「人も少ないな」
「冬ですよ。みんな外に出たがりません」
そう言ってから、彼女は首を傾げる。
「……でも静かすぎますね?」
俺は答えず、受付横の案内図に目を向けた。
図書館は新しく、無駄のない配置をしている。
それなのに、どこか“奥行き”を感じさせる建物だった。
——まずは記録。
俺はノートを開く。
・時刻:午後三時二十分
・来館者:七名
・職員:二名
・暖房:正常
・音:ページをめくる音のみ
「たんたん…もう書いてるんですか?」
「習慣だ」
「これは真面目ですね〜」
ヒアンシーは楽しそうに笑ってから、カウンターへ向かった。
「すみません。探している本があるんですけど…」
司書の女性は、ほっとしたような顔でこちらを見た。
「よかった……。 実は、私もちょうど困っていて」
その言葉に、ヒアンシーの目がわずかに細くなる。
「困っている、ですか?」
「はい。 “ある本”がどうしても見つからなくて」
俺は一歩、距離を詰めた。
「…貸出中では?」
「確認しました。でも、貸し出されていないんです。返却記録もありません」
「紛失でしょうか…?」
「それも考えました。でも……」
司書は声を潜める。
「この本、毎年この時期になると必ず探されるんです」
ヒアンシーが俺を見る。
「それはどんな本ですか?」
「郷土資料です。
地域の昔話をまとめた、薄い冊子で……
正式な題名は——」
「ちょっと待ってください」
俺はノートを閉じた。
「探される“時期”は、いつですか」
「……十二月から、一月にかけて」
「毎年、同じ人が?」
「いいえ。 不思議なことに、毎年“違う人”なんです」
ヒアンシーが小さく息を吸う。
「でも、探す理由は?」
「皆さん、同じことを言います。
『昔、ここで読んだ気がする』って」
——気がする。
その曖昧な言葉が、妙に耳に残った。
「たんたん」
ヒアンシーが、俺の袖を引く。
「その本、本当に“あった”のでしょうか」
司書が驚いた顔をする。
「え?」
俺はゆっくりと言葉を選んだ。
「……本棚を、見せてもらえますか」
郷土資料の棚は、図書館の一番奥にあった。
人の気配が薄く、窓際には冬の光が斜めに差し込んでいる。
棚には、番号の抜けはない。
分類も乱れていない。
——つまり、最初から空白がない。
俺はノートに書く。
・該当分類に欠番なし
・再製本の形跡なし
・寄贈記録:不明
「ねえ、たんたん」
「何だ」
「ここって… “読んだ人の居場所”はあるけど“本の居場所”がない感じがします」
的確すぎる言い方だった。
俺は息を吐く。
「結論から言います。
その本は——存在していません」
「……存在して、ない?」
司書の声が震える。
「正確には“一冊の本として”は存在していない」
俺は棚の横にある、古い掲示板を指さした。
「昔、この図書館には
郷土資料の展示コーナーがあったはずです」
「……はい。ありました」
「そこに冊子にまとめられる前のコピー資料や抜粋が置かれていましたね」
ヒアンシーが、ぽんと手を打つ。
「ああ……だから“薄い冊子”って記憶だけが残ってるんですね」
「展示は期間限定。
資料は後に回収され正式な本にはならなかった」
俺は続ける。
「でも冬になると郷土の昔話を思い出す人が来る。
記憶は“本”という形に書き換えられる」
「それで毎年、違う人が同じ本を探す……」
司書は、しばらく黙ってから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。でも、これ……掲示しておいた方が良さそうですね」
俺は首を振った。
「いいえ」
「え?」
「“存在しない本”だと知る必要はありませんよ。探しているのは、本じゃありませんから」
ヒアンシーが、柔らかく言った。
「たぶんですけど“ここで過ごした冬”なんだと思いますよ」
司書は、少し泣きそうな顔で笑った。
帰り道。
外は相変わらず寒かった。
「ねえ、たんたん」
「何だ」
「今日の謎少し……近くありませんでしたか?」
俺は歩みを止めずに答える。
「そうかもしれないな」
ノートを開き、最後に一行書き足す。
・存在しない本は、
存在しないまま棚に戻された
ヒアンシーは、それを覗き込みながら言った。
「欠けたまま、ですね…」
「ああ」
——それでいい。
俺たちは、
まだ“自分たちのページ”を書かない。
ヒアンシーは俺の前を歩きそして駆け寄る様に戻って笑う。
「本というのは書いてないところの方が大事な時があるんです」