2人の日記の余白   作:ミスブルー

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第三話


郵便受けに入らないもの

仮住まいと呼ぶには少し広かった。

 

 祇阜市郊外。

 元・短期滞在者向けの公務員住宅。

 築年数は古いが、最低限の手入れはされている。

 俺とヒアンシーはそこで一緒に暮らしている。

 理由は単純だ。

 市の担当者が、成り行きでそう判断した。

 

「外国人の方…ですよね。

でしたら、こちらの物件が……短期滞在用で」

 

 身元不明。

 国籍不明。

怪しさは満点だ。

 

だが日本語が通じ、常識があり、問題を起こさない。

——調べきれなかった結果、住めてしまった。

 

 そんな場所だ。

 

 朝は決まってヒアンシーのほうが早く起きる。

 理由は特別なものじゃない。

 ただ、目が覚めてしまうからだ。

 台所で湯を沸かす音が、薄い壁を通して聞こえる。

 それで俺は、目を覚ます。

 天井は低く、白い。

 知らない家の天井だ。

 ——だが、もう「初めて」ではない。

 俺は身体を起こし、居間の机に向かう。

 そこに置かれたノートは、昨日と同じ位置にある。

 ページを開く。

 

・場所:祇阜市

・住居:短期滞在者向け住宅

・同居人:一名

・不具合:なし

 

 淡々と書いて、ペンを止めた。

 

「たんたん、起きてます?」

 

 ヒアンシーの声が、台所からする。

 

「ああ」

 

「パン、焼きますけど食べますか〜?」 

 

「……頼む」

 

 数分後、彼女はトーストを二枚、皿に乗せて持ってくる。

 ジャムは一種類だけ。

 選択肢が少ないのは、仮住まいらしい。

 

「今日は寒いですね」

 

「今日もだ。冬だからな」

 

「それはそうなんですけど…」

 

 ヒアンシーは窓のほうを見る。

 結露が、うっすらと広がっていた。

 

「この街は寒さが“じっとしてる”感じがしません?」

 

 俺は少し考える。

 

「風の通り方だろう。まずは山が近い」

 

「理屈っぽいですねぇ」

 

 そう言いながら、彼女は笑う。

 俺たちはこうして普通に会話をしている。

 それが、まだ少し不思議だった。

 外に出ると、住宅街は静かだ。

 通学の時間帯を過ぎていて人影は少ない。

 郵便受けが、玄関脇に並んでいる。

 

「……」

 

 ヒアンシーが、足を止めた。

 

「ヒアンシーどうした」

 

「あ…いえ何でもありません」

 

 彼女はそう言って、視線を外す。

 俺はその様子を記録しなかった。

 理由は分からないが、

 今は書かなくていい気がした。

 昼前、二人で近くのスーパーへ行く。

 

「お野菜安いですねぇ」

 

「旬だな」

 

「たんたんそればっかですよ」

 

 買い物かごの中身は、必要最低限だ。

 長く暮らす前提ではない。

 それでもヒアンシーは豆腐の種類を少しだけ悩んだ。

 

「……こっちですかね」

 

「理由は?」

 

「なんとなくですかね」

 彼女の“なんとなく”は、

 後から理由が見つかることが多い。

 俺は何も言わなかった。

 夕方。

 俺は机に向かいノートを広げる。

 ヒアンシーは窓際で本を読んでいる。

 図書館で借りた郷土資料だ。

 

「ねえ、たんたん」

 

「何だ」

 

「私たちって…」

 

 少し、間が空く。

 

「……いつまで、ここにいるんでしょう」

 

 俺は、ペンを止めた。

 

「そうだな…」

 

「はい…」

 

 それ以上、彼女は聞かなかった。

 俺も続きを書かなかった。

・滞在期間:未定

 その一行は、

 書かれないまま、ページの余白に残った。

 夜。

 風の音が、家の外を通り過ぎる。

 ヒアンシーが、ふと思い出したように言う。

 

「そういえばたんたん」

 

「?」

 

「この家の郵便受け、

 ちょっと変じゃないですか?」

 

 俺は顔を上げる。

 

「何がだ」

 

「……明日、見せますね」

 

 それだけ言って、

 彼女は部屋に戻った。

 俺はノートを閉じる。

 ——まだ、謎ではない。

 ただの違和感だ。

 だがそういうものほど、

 後から形を持つ。

 

 翌朝も、寒かった。

 昨日より少しだけ雲が低く、空の色が重い。

 ヒアンシーは先に外へ出て、郵便受けの前で立ち止まっていた。

 

「たんたん」

 

「どうした」

 

「これです」

 

「これか…」

 

 彼女が指でつまんで引き抜いたのは、一枚の紙だった。

 白い。

 折り目はない。

 だが郵便受けの口には、明らかに収まりきっていない。

 

「……入ってたというより」

 

「差し込まれてた、だな」

 

 俺は紙を受け取る。

 触った感触は、普通のコピー用紙。

 だが端が少し湿っている。

 

「雨は降ってない」

 

「朝露でしょうか?」

 

「それにしては、偏っている」

 

 俺はノートを開く。

・発見時刻:午前七時三十二分

・天候:曇

・紙:コピー用紙

・折り目:なし

・湿り:下端のみ

 

 ヒアンシーが言う。

 

「これ、“誰かが届けようとした”感じじゃありませんよね」

 

「宛名もないな」

 

「はい。でも捨てた感じもしません」

 

 彼女は少し考えてから、こう言った。

「入れようとして入らなかった感じです」

 

 その言い方に、俺は頷いた。

 同じものは、翌日もあった。

 さらにその翌日も。

 時間は、ほぼ同じ。

 紙の質も同じ。

 枚数は、いつも一枚。

 俺は、三日分を並べて机に置いた。

 

「違いは?」

 

「……ほとんどありませんよ?」

 

「じゃあ、共通点を見よう」

 

 俺は、紙の端を指でなぞる。

「インクの跡がある」

 

「え?」

 

「薄いがある。

 印刷の“かすれ”だな」

 

 ヒアンシーが覗き込む。

「本当です……文字じゃありませんけど…線みたいなのが」

 

「試し刷りだ」

 

「えっと、コピー機のですか?」

 

「ああ」

 

 ノートに書き足す。

・用途:印刷機の動作確認

・使用者:事務的作業に慣れている人物

 

 ヒアンシーは、少し首を傾げた。

 

「でも、どうしてここに?」

 

「それが謎だな」

 

 昼過ぎ、俺たちは家の周囲を歩いた。

 半径百メートルほどの範囲に、

小さな町内会の集会所

個人経営の不動産事務所

古い文具店があった。

 ヒアンシーが集会所を見て言う。

 

「ここ朝早くから電気ついてますね」

 

「気づいていたのか」

 

「はい。たぶん、六時半くらいでしょうか」

 

 俺は、歩きながら考える。

 試し刷り。

 早朝。

 無意識の動線。

——答えは、人だ。

 

結論は、拍子抜けするほど静かだった。

 

「以前、この家に住んでいた人がいる」

 

「はい」

 

「その人は町内会か事務所の関係者だった」

 

「朝、コピー機を使う習慣があると?」

 

「そしてーーー」

 

 俺は、郵便受けを見る。

 

「歩く方向だけが昔のままだ」

 

 ヒアンシーは、しばらく黙ってから言った。

 

「なるほど……癖、ですね」

 

「そうだ」

 

 人は、考えずに歩ける道を持っている。

 それが、更新されないまま残ることがある。

 

「でもこれあの…」

 

「何だ」

 

「間違ってるって、言わなくていいですか?」

 

 俺は首を振る。

 

「そのうち別の誰かの家に入れようとして気づくだろうな」

 

「それまでここに来ちゃいますよ?」

 

「来るだろうな」

 

 ヒアンシーは、少しだけ笑った。

 

「それならその人はまだこの家が好きなんですね」

 

 俺は否定しなかった。

 その夜。

 俺は、郵便受けの横に、小さな紙を貼った。

 

「転居しました」

 

 それだけだ。

 名前も、日付も書かない。

 ノートには、こう残す。

・誤配ではない

・未更新の記憶による行動

・修正は、最小限でよい

 

 ヒアンシーが、それを覗き込む。

 

「たんたん」

 

「何だ」

 

「これって……」

 

 彼女は、言葉を探す。

 

「私たちとは、違いますね」

 

 俺は、少しだけ考えてから答えた。

 

「似ている部分はある。

でも俺たちは行き先を間違えているんじゃない」

 

 ノートを閉じる。

 

「書かれていないだけだ」

 

 ヒアンシーは、何も言わなかった。

 ただ、郵便受けをもう一度見てから、家に入った。

 

 翌朝、 白い紙は来なかった。

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