2人の日記の余白   作:ミスブルー

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第四話


余白の行き先

余白の行き先

 その喧嘩は、本当に些細なところから始まった。

 

「……丹恒くんは、いつ帰れると思ってるんですか?」

 

 ヒアンシーは湯気の立つマグカップを両手で包んだまま、視線を落として言った。

 仮住まいの部屋は暖房が効いているはずなのに、彼女の声は少しだけ冷えていた。

 

「いずれ、だ」

 

 俺はそう答えた。

 考えた末の言葉ではない。いつもそう言ってきたから、そう言っただけだ。

 

「“いずれ”って、いつですか…?」

 

「……分からない。でも帰れる」

 

 間違ってはいない。

 俺たちは、いずれは帰れる存在だ。

理由は思い出せなくてもそれだけは確信がある。

仲間が待っているからだ。 

 

けれど。

 

「分からないって言いながら平気なのが、私は怖いんですよ」

 

 ヒアンシーは顔を上げなかった。

 怒っているというより、追い詰められているように見えた。

 

「私、ここが嫌いなわけじゃないですよ。でも――」

 

 その先を、俺は聞けなかった。

 言葉を挟むべきだったのか、黙るべきだったのか、判断がつかなかった。

 次の瞬間、玄関のドアが閉まる音がした。

 ヒアンシーは何も言わず、仮住まいを出ていった。

 

 静かになった部屋で、俺はしばらく座り尽くしたままだった。

 彼女がどこへ行くのか、見当もつかない。

 スマートフォンは置いていかれていた。

 メモもない。

 直接的な手がかりは、何もない。

 ――いや。

 机の上に置かれた郵便受けの中身が、妙に気になった。

 今日届くはずの紙はもう入っていない。

 代わりに、一枚の白紙。

 試し刷りに使われる、あの紙だ。

 俺はそれを手に取った。

 紙質、折り方、差し込まれ方。

 

 すべてが、これまでの日常と同じだ。

 

「……そういうことか」

 

 ノートを開きかけて、俺はやめた。

 これは記録じゃない。推理でもない。

 ヒアンシーが、俺に分かる形で残した居場所だ。

 白紙は、何も書かれていないからこそ意味がある。

 以前、彼女は言っていた。

 

『本というのは書いてないところの方が大事な時があるんです』

 

 行き先は一つしかなかった。

 

 図書館は、もう閉館間際だった。

 暖房の音と、ページをめくる音だけが残っている。

 奥の閲覧席。

 窓際にヒアンシーは、そこにいた。

 

「……丹恒くん」

 俺を見つけて、彼女は小さく息を吐いた。

 驚いた様子はない。見つけられると思っていた顔だ。

 

「すまない…ヒアンシー」

 

 先に言ったのは、俺だった。

 

「気づけなかった。

俺は……帰れないことを、不安に思ってなかったわけじゃない。

ただ…」

 

「分かっていますよ…」

 

 ヒアンシーは首を振った。

 

「丹恒くんは逃げてたわけじゃなくて…。

 私が一人で考えすぎてただけなんです」

 

 それでも、と彼女は続けた。

 

「怖かったんです。ここでの時間がずっと続くんじゃないかって」

 

「それは俺も怖い」

 

 初めて、そう口に出した。

帰った先に列車のみんなが待ってくれているはずなのだから。

この時間が向こうでも続いてると考えたらみんなは心配してくれているだろう。

それでも俺は信じているのだ。

だから今はヒアンシーと出来る事をしようと。

 

 

「だが不安でも……ヒアンシーの居場所は分かった」

 

 

 そう言うと彼女は少しだけ笑った。

 

「それなら、いいんです」

 

 答えはきっと違うだろうな。

 

 求めているものも感じている不安の形も違う。

 

 それでも同じ場所に立つことはできる。

 

 帰る話はしなかった。

 代わりに明日返却期限の本の話をした。

 図書館を出ると外は静かな冬の雪の夜だった。

 仮住まいまでの道を二人で歩く。

 

 

 その日のことは、

 丹恒のノートには書かれなかった。

 余白のまま残しておく。




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