ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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ただ、母でありたかった。


血は、名より先に呼ばれる(前編1)

第一章

 

血は、名より先に呼ばれる(前編1)

 

エカテリーナが最初に失ったのは、自由ではなかった。

名前だった。

 

それまでは、どこにでもある響きだった。

市場で呼ばれても、振り返らないことがあるくらい。

誰かが別の誰かを呼んでいることの方が多い、

そういう種類の名だった。

 

けれど、血筋が露見した日から、

その名は急に壊れ物になった。

 

人々は口にする前に一拍置き、

周囲を見て、

必要があるかどうかを測った。

 

呼ばれる回数は減り、

代わりに、便利な呼び方が増えていく。

 

——あの血の者。

——象徴。

——生き証人。

 

どれも彼女を指していた。

指してはいたが、

そこに「彼女」はいなかった。

 

呼ばれているのに、

誰からも触れられていない感覚だけが残る。

 

その違和は、

ゆっくりと、だが確実に、

生活の端から染み込んでいった。

 

 

阻止派の建物は、いつも静かだった。

 

石造りの壁は分厚く、

窓は細く高い。

外光は床に届く前に弱まり、

昼も夜も、同じ色をしている。

 

足音は吸われ、

扉は音を立てない。

 

ここでは、声を張ることが

無作法ではなく、

不適切とされた。

 

廊下ですれ違う者たちは、

目礼だけを残して通り過ぎる。

視線は長く続かない。

見すぎることは、責任を持つことに近いからだ。

 

部屋に通されるたび、

机の上には書類が積まれていた。

 

羊皮紙、封蝋、記章。

重ねられたそれらは、

誰かの生や死よりも

扱いに慣れた重さで並んでいる。

 

「あなたは、重要な存在です」

 

何度も聞いた。

 

声の高さも、

言葉の並びも、

不思議なほど同じだった。

 

まるで決められた手順のように。

 

相手はいつも丁寧で、

無礼はなかった。

椅子は引かれ、

茶は冷める前に取り替えられた。

 

ただ、

そこに「問い」は置かれなかった。

 

「帝国を打倒した血は、まだ生きている。

それ自体が、彼らにとっては脅威です」

 

説明はされる。

理解も求められる。

 

だが、選択は提示されない。

 

エカテリーナはうなずいた。

 

うなずく動作は便利だった。

会話を進め、

場を保ち、

相手を安心させる。

 

そしてなにより、

拒否だと解釈されにくい。

 

拒否は、

多くの場合、

別の議論を呼び寄せる。

 

その議論の中で、

彼女の椅子は少しずつ、

居心地の悪い位置へと移動していく。

 

だから彼女は、

正しい角度で、

正しい速さで、

首を縦に動かした。

 

彼女は何もしていない。

 

剣も取らなかった。

命令も出さなかった。

誰かの背を押したこともない。

 

それでも。

 

「何もしなかったこと」は、

「生き延びた」という一点で、

勝手に形を与えられる。

 

血が、意味を生む。

 

それが、この世界の

手入れの行き届いた決まりだった。

 

 

帝国へ渡る朝、

荷物は少なかった。

 

持っていける物が少ないのではなく、

持つ必要がないと言われたからだ。

 

衣服は用意される。

部屋も、食事も、護衛も。

 

困ることはない、と。

 

門の前で、

見送りの列は整然としていた。

 

誰も泣かない。

誰も声を荒げない。

 

ここでもまた、

音は慎重に扱われていた。

 

「すぐに戻れます」

「形式的なものです」

 

いくつかの言葉が手渡される。

 

軽く、

持ち運びやすい慰めだった。

 

エカテリーナはそれらを受け取り、

落とさないように抱えた。

 

馬車の扉が閉まる。

 

金具が噛み合う音がして、

外界は布一枚ぶん遠くなる。

 

車輪が回り始めても、

誰も追ってはこなかった。

 

 

帝国の屋敷は広く、

そして冷えていた。

 

石畳は磨かれ、

窓は透き通り、

装飾は贅沢だった。

 

整えられている。

どこまでも、整えられている。

 

なのに、

生活の痕跡だけが薄い。

 

廊下を歩く侍女たちの足取りは正確で、

視線は伏せられ、

命令は短い。

 

必要なことだけが

空気の上を滑っていく。

 

壁に並ぶ肖像画が目に入る。

 

同じ色の瞳。

同じ角度の顎。

同じ形の微笑。

 

似ているのではない。

似せている。

 

「血が濃い」

 

案内役の男は、

誇らしげでもなく、

ただ確認のように言った。

 

褒め言葉だった。

 

薄まらないこと。

混ざらないこと。

変わらないこと。

 

ここで守られているのは、

人ではなく、

配合だった。

 

エカテリーナは歩きながら、

自分の指先を見た。

 

そこに流れるものが、

この建物にとって

誤差でしかないことを、

もう理解していた。

 

だから彼女は、

迎え入れられたのではなく、

配置された。

 

正すために。

 

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