ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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ヴィイという言葉が歩き出す(後編)

第三章 ヴィイという言葉が歩き出す(後編)

 

 

帝国側もまた、

ヴィイという語を扱っていた。

 

ただし、

反対側から。

 

会議室は広く、

窓が高い。

朝の光が床に長く落ち、

人の顔を半分だけ白くする。

 

「そんなものは存在しない」

「反逆者の妄想だ」

 

言葉は短く、

記録用に整えられている。

 

書記が頷き、

羽根ペンを滑らせる。

紙が一枚めくられる。

 

それで済む話だった。

 

誰かが息を呑むこともない。

椅子が鳴ることもない。

警備の配置が変わることもない。

 

存在しない。

 

そう決めた瞬間、

それは「扱わなくてよい事柄」になる。

 

報告は閉じられ、

封がされ、

棚に収まる。

 

棚には似たような背表紙が並び、

区別はつかない。

 

否定は、

熱を持たない。

 

冷えた手続きとして、

淡々と積み重なる。

 

それでも、

確実に効果を持つ。

 

消すためではない。

 

触れられない位置に

移動させるための操作だ。

 

そこに置いてしまえば、

もう誰の責任でもなくなる。

 

 

その日の午後には、

同じ言葉が

別の部署へ伝わる。

 

「存在しない」

という前提だけが、

丁寧に運ばれていく。

 

兵はいつも通り門に立ち、

医師は別の患者の記録を取る。

 

忙しさは、

何も変えない。

 

変わらないという事実が、

否定の正しさを補強する。

 

 

結果として、

ヴィイは

消えなかった。

 

ただ、

違う棚に置かれただけだ。

 

阻止派の机。

帝国の記録庫。

酒場の噂。

祈りの中。

 

場所を変えながら、

残り続ける。

 

呼び方は違う。

求められる役目も違う。

 

それでも、

熱だけは似ていた。

 

誰かが語れば、

別の誰かが続きを足す。

 

足された部分は、

次には最初からあったことになる。

 

もう、

どこまでが最初だったのか、

戻れる人はいない。

 

 

ヴィイは、

語られる存在になった。

 

泣かない。

眠らない。

成長しない。

 

探しに行かなくていい形。

 

見つからなくても、

困らない形。

 

救わなくていい形。

 

恐れているだけで

役に立つ怪物。

 

 

夜、

人の声が減り、

足音が遠のく。

 

ようやく、

エカテリーナの耳に残っていた言葉が

ほどけはじめる。

 

彼女は手を洗う。

 

何度も。

 

冷たい水が

皮膚の感覚を奪うまで。

 

それでも、

指の内側に

残っている気がする。

 

握っていたはずの、

あの微かな力。

 

こすっても、

消えない。

 

布で拭い、

もう一度見る。

 

何もない。

 

それでも、

確かめる動作だけがやめられない。

 

名前を、

つけられなかったこと。

 

呼ぶことを、

許されなかったこと。

 

もし、

順序が違っていたら。

 

もし、

音の形が先にあったなら。

 

誰かの口が、

割り込む前に。

 

考えは

夜のあいだだけ許される。

 

朝になれば、

また追い払われる。

 

名前がないから、

奪われたのではない。

 

奪われたから、

名前を持てなかった。

 

その順序だけが、

石のように動かない。

 

 

噂は速い。

 

使者より、

命令より、

早く広がる。

 

口から口へ。

短くなり、

覚えやすくなり、

強くなる。

 

誰の手から始まったのか、

もう誰も言えない。

 

 

ヴィイを見た者は死ぬ。

ヴィイは帝国を滅ぼす。

ヴィイはもう、どこかにいる。

 

誰も、

確かめようとしない。

 

確かめるより、

信じた方が、

楽だから。

 

エカテリーナは、

ただ知っていた。

 

あの子は、

どこかで、

泣いているかもしれない。

 

それだけだった。

ーーーーーーーーー

帝国側の噂

 

帝国は言う。

 

「そのような子は存在しない」

 

だが、人々は囁く。

 

敗北の血は、

まだ息をしているのではないか。

 

夜、

赤子の泣き声を聞いたという者がいる。

 

見た者は、

なぜかその話を

最後まで語らない。

 

 

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