第四章 言葉だけが生き残る
帝国側で語られるヴィイは、
阻止派のそれとは、少し違っていた。
会議の卓は長く、
磨かれている。
声はよく通り、
端まで届く。
「存在しない」
「反逆者が作り出した怪異」
「恐怖を煽るための虚構」
発言は順番に並び、
記録係が頷く。
羽根ペンの先が紙を滑る。
言葉は否定の形を取りながら、
丁寧に繰り返される。
別の者が、
同じ結論を
別の語尾で述べる。
それが確認になる。
⸻
資料が回る。
封を切る音。
紙の擦れる音。
「存在しない」と書かれた項目の下に、
対策が箇条書きで並んでいる。
巡回の強化。
噂の出所の監視。
接触者の洗い出し。
誰も不思議に思わない。
存在しないものに対する準備が、
手慣れた動きで進んでいく。
⸻
廊下で名が出る。
ヴィイ。
それだけで、
会話が一拍途切れる。
すぐに続く。
笑いも混じる。
だが、
空気の張りは
消えないまま残る。
嫌われている。
その響きが持つものを、
彼らはよく知っている。
エカテリーナは、
それを眺めていた。
誰も、
彼女に説明を求めない。
彼女が何を抱いたかより、
その血がどこに属するかの方が
重要だからだ。
⸻
彼女は分かっていた。
なぜその言葉が
ここで使われるのか。
それは、
呪いだからではない。
説明できない敗北を、
置いていく場所が
必要だからだ。
机の上に、
原因を置く。
形のあるものとして。
そうすれば、
次へ進める。
⸻
帝国を倒したのは、
人間だった。
思想だった。
選択だった。
それらは、
責任を伴う。
だから、
もっと扱いやすい何かが
求められる。
怪物。
そう呼んでしまえば、
線が一本で済む。
⸻
阻止派も、同じだった。
部屋は狭く、
天井が低い。
息が近い。
彼らは、
エカテリーナに椅子を勧める。
湯を出す。
手つきは柔らかい。
「あなたは犠牲者だ」
「帝国に人生を奪われた」
「だから我々が代わりに戦う」
頷きやすい高さで、
言葉が置かれる。
けれどそのどこにも、
揺れはない。
⸻
子のことが
話題の中心に来ることはなかった。
名前は何度も出る。
ヴィイ。
だがそれは、
遠くへ投げられた形でだけ。
⸻
「ヴィイは生きているのか」
エカテリーナが口を開いたとき、
湯気が止まった。
器を持つ手が、
ほんの少しだけ
机から離れる。
視線が集まり、
そして、外れる。
「重要なのは、
生きている“可能性”だ」
返答は早い。
用意されている。
冷静で、
無駄がない。
誰も間違っていない。
だからこそ、
動かない。
返ってきた答えは、
揺れなかった。
卓の上にまっすぐ置かれ、
誰の手も触れない。
「可能性」という語は、
便利だった。
開いたまま、
閉じなくていい。
探しきれなくても、
責められない。
⸻
その瞬間、
エカテリーナは理解した。
この人たちも、
すでに別の場所へ
子を置いている。
届かない棚。
触れられない距離。
そこに収めて、
鍵をかけている。
彼らにとって、
ヴィイは
生きていようが、
死んでいようが、
動かない。
語れること。
使えること。
恐れさせられること。
それが整っていれば、
十分だった。
⸻
湯は冷めていた。
誰も口をつけないまま、
話は次へ進む。
配置。
連絡。
明日の予定。
エカテリーナの席だけが、
どこにも接続していない。
呼ばれてここにいるのに、
用事がない。
⸻
彼女は立ち上がった。
止める声はなかった。
見送られることもない。
扉を閉める音が、
やけに遠くへ行く。
⸻
外の空気は軽い。
人が歩き、
荷が運ばれ、
値段のやり取りが続いている。
誰も、
象徴について話していない。
生活が進む。
エカテリーナは、
その中へ入った。
⸻
噂を拾う。
誰かの小さな記憶。
確かめられない目撃。
曖昧な善意。
孤児院。
医師。
名もない女。
一夜だけ、
赤ん坊を預かったという話。
どれも、
大きな旗の下には置かれていない。
署名も、
宣言も、
ない。
ただ、
あったかもしれない
という形で転がっている。
⸻
彼女は足を止め、
繰り返し尋ねる。
顔を覚えられない程度に。
不自然にならない回数で。
抱き方。
布の色。
泣き方。
返ってくる答えは、
頼りない。
けれど、
重さがある。
机の上の言葉とは違う。
指で触れられる場所にある。
エカテリーナは、
そこにだけ
うなずくことができた。
ヴィイは、
言葉ではない。
先にあったのは、
息で、
温度で、
重さだ。
言葉は、
後から追いついてきただけだ。
⸻
ある夜、
彼女は一人で、
灯りの消えた部屋に座っていた。
窓の外を
人影が通る。
遠くで、
また誰かが語っている。
帝国を滅ぼす目。
見た者を殺す視線。
耳を塞がなくても、
届いてくる。
⸻
彼女は、
目を閉じた。
暗さの中に、
一度だけあった光景を置く。
見上げてきた瞳。
焦点も合わず、
意味も持たず、
ただそこにあった。
向けられた、
というより、
合ってしまった視線。
それだけ。
⸻
その瞬間、
彼女は決める。
探すのは、
象徴ではない。
救うのは、
思想ではない。
確かめるのは、
たった一つ。
あの子が、生きているかどうか。
⸻
ヴィイという言葉は、
もう止まらない。
人の口を渡り、
勝手に形を変え、
遠くへ行く。
追いかけても、
追いつけない。
だからこそ、
彼女は
反対へ歩く。
声の届かない方へ。
母であることだけを、
手放さずに。
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民間伝承の断片
ヴィイについて語るとき、
人は目を伏せる。
それは、
見てはならないものだからではない。
見た者が、
何を見たのか
説明できなくなるからだ。
ヴィイは、
目を開くとも言われ、
目を閉じているとも言われる。
誰も、
確かめた者はいない。