第五章 幸福の発見(後編)
抱き上げられた子どもは、
高い位置から庭を見下ろし、
すぐに興味を失った。
指は袖の布を掴み、
もう片方の手で
大人の肩を叩いている。
降ろせという合図。
大人は困ったように笑い、
それでも少しだけ抱いたまま、
頬についた土を拭った。
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そのとき、
名前が呼ばれた。
短く、
柔らかな響き。
叱責でも、
確認でもない。
日々の中で
何度も使われ、
角が取れ、
手に馴染んだ呼び方。
もう一度呼ばれる。
今度は近くで。
子どもは振り向き、
返事の代わりに
声にならない声を出した。
腕の中で跳ねる。
降ろされる。
走る。
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エカテリーナは、
その音を聞いた。
聞いて、
ただ立っていた。
耳に入ったはずなのに、
意味へ進まない。
代わりに、
門の向こうの光景だけが
くっきりと保たれている。
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笑い声。
叱る声。
もう一度呼ばれる名前。
繰り返されるたびに、
そこへ入る隙間が
どこにもないことが、
形になっていく。
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門を越えれば、
手は届く。
声も届く。
けれど、
届いた先に
置く場所がない。
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抱き上げ、
叱り、
笑わせる手。
どれもが自然に行われ、
誰にも疑われていない。
そこに余白はない。
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エカテリーナは、
呼吸の長さを
静かに整えた。
吸って、
止めて、
吐く。
それを二度。
それ以上はしなかった。
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胸の奥で、
細い音がした。
乾いた枝が、
足の下で折れるときのような。
誰にも聞こえない。
自分にだけ分かる音。
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——私が行かない方が、
——この子は、幸せだ。
言葉は浮かび、
形を作り、
それ以上広がらなかった。
理由を求めない。
証明もしない。
ただ、
足の向きを決める。
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もう一度だけ、
庭を見る。
転ぶ。
笑う。
呼ばれる。
同じ動きが続いている。
そこには
帝国も、
阻止派も、
いない。
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彼女は、
背を向けた。
視界から消えたあとも、
声だけが少し残る。
歩幅がそれを
一つずつ置いていく。
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歩き出す足は、
不思議と、
震えていなかった。
石畳の凹凸が、
きちんと靴裏に伝わる。
つまずく理由がない。
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角を曲がる。
もう庭は見えない。
それでも、
さっきの光景が
閉じた瞼の裏のように
消えずにある。
彼女は目を閉じない。
消えないことを、
そのままにしておく。
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だが、
幸福は、
見つかると同時に、
嗅ぎつけられる。
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誰かが、
記録を辿る。
誰かが、
帳簿の端に気づく。
誰かが、
小さな町に
線を引く。
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帝国派は、
遅れて気づいた。
阻止派も、
察した。
「ヴィイは、
ここにいる」
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地図の上で、
印が打たれる。
意味が生まれる。
通り過ぎるだけの場所が、
目的地に変わる。
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エカテリーナは知る。
さっきまで
ただの町だった場所へ、
視線が集まり始めることを。
足音が、
数を持つことを。
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もう一度、
この世界は、
あの子を奪いに来る。
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彼女は立ち止まらない。
振り返らない。
代わりに、
歩く速さを
少しだけ上げる。
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母でいられないなら、
せめて、
世界を壊す側に回る。
その考えは、
激情ではなく、
手順に近い。
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帝国も。
阻止派も。
どちらも、
あの子の世界を
踏み潰す存在だから。
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どちらが先に倒れるかではなく、
どちらも立っていない場所を作る。
彼女が選んだのは、
そこだった。
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共倒れ。
その形だけが、
静かに残る。
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それが、
母として、
最後にできることだった。