ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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幸福の発見(後編)

第五章 幸福の発見(後編)

 

抱き上げられた子どもは、

高い位置から庭を見下ろし、

すぐに興味を失った。

 

指は袖の布を掴み、

もう片方の手で

大人の肩を叩いている。

 

降ろせという合図。

 

大人は困ったように笑い、

それでも少しだけ抱いたまま、

頬についた土を拭った。

 

 

そのとき、

名前が呼ばれた。

 

短く、

柔らかな響き。

 

叱責でも、

確認でもない。

 

日々の中で

何度も使われ、

角が取れ、

手に馴染んだ呼び方。

 

もう一度呼ばれる。

 

今度は近くで。

 

子どもは振り向き、

返事の代わりに

声にならない声を出した。

 

腕の中で跳ねる。

 

降ろされる。

 

走る。

 

 

エカテリーナは、

その音を聞いた。

 

聞いて、

ただ立っていた。

 

耳に入ったはずなのに、

意味へ進まない。

 

代わりに、

門の向こうの光景だけが

くっきりと保たれている。

 

 

笑い声。

叱る声。

もう一度呼ばれる名前。

 

繰り返されるたびに、

そこへ入る隙間が

どこにもないことが、

形になっていく。

 

 

門を越えれば、

手は届く。

 

声も届く。

 

けれど、

届いた先に

置く場所がない。

 

 

抱き上げ、

叱り、

笑わせる手。

 

どれもが自然に行われ、

誰にも疑われていない。

 

そこに余白はない。

 

 

エカテリーナは、

呼吸の長さを

静かに整えた。

 

吸って、

止めて、

吐く。

 

それを二度。

 

それ以上はしなかった。

 

 

胸の奥で、

細い音がした。

 

乾いた枝が、

足の下で折れるときのような。

 

誰にも聞こえない。

 

自分にだけ分かる音。

 

 

——私が行かない方が、

——この子は、幸せだ。

 

言葉は浮かび、

形を作り、

それ以上広がらなかった。

 

理由を求めない。

証明もしない。

 

ただ、

足の向きを決める。

 

 

もう一度だけ、

庭を見る。

 

転ぶ。

笑う。

呼ばれる。

 

同じ動きが続いている。

 

そこには

帝国も、

阻止派も、

いない。

 

 

彼女は、

背を向けた。

 

視界から消えたあとも、

声だけが少し残る。

 

歩幅がそれを

一つずつ置いていく。

 

 

歩き出す足は、

不思議と、

震えていなかった。

 

石畳の凹凸が、

きちんと靴裏に伝わる。

 

つまずく理由がない。

 

 

角を曲がる。

 

もう庭は見えない。

 

それでも、

さっきの光景が

閉じた瞼の裏のように

消えずにある。

 

彼女は目を閉じない。

 

消えないことを、

そのままにしておく。

 

 

だが、

幸福は、

見つかると同時に、

嗅ぎつけられる。

 

 

誰かが、

記録を辿る。

 

誰かが、

帳簿の端に気づく。

 

誰かが、

小さな町に

線を引く。

 

 

帝国派は、

遅れて気づいた。

 

阻止派も、

察した。

 

「ヴィイは、

 ここにいる」

 

 

地図の上で、

印が打たれる。

 

意味が生まれる。

 

通り過ぎるだけの場所が、

目的地に変わる。

 

 

エカテリーナは知る。

 

さっきまで

ただの町だった場所へ、

視線が集まり始めることを。

 

足音が、

数を持つことを。

 

 

もう一度、

この世界は、

あの子を奪いに来る。

 

 

彼女は立ち止まらない。

 

振り返らない。

 

代わりに、

歩く速さを

少しだけ上げる。

 

 

母でいられないなら、

せめて、

世界を壊す側に回る。

 

その考えは、

激情ではなく、

手順に近い。

 

 

帝国も。

阻止派も。

 

どちらも、

あの子の世界を

踏み潰す存在だから。

 

 

どちらが先に倒れるかではなく、

どちらも立っていない場所を作る。

 

彼女が選んだのは、

そこだった。

 

 

共倒れ。

 

その形だけが、

静かに残る。

 

 

それが、

母として、

最後にできることだった。

 

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