ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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共倒れという選択(後編)

第六章 共倒れという選択(後編)

 

彼女の計画は、

派手ではない。

 

旗も、

宣言も、

英雄もいない。

 

あるのは、

ほんの少しの遅れと、

ほんの少しの誤差だった。

 

⸻

 

補給線をずらす。

 

昨日届くはずのものを、

今日にする。

 

今日のはずのものを、

明日にする。

 

それだけで、

現場は迷う。

 

足りない理由を、

互いに疑い始める。

 

⸻

 

誤情報を流す。

 

けれど、

嘘は使わない。

 

嘘は、

すぐに燃え尽きる。

 

代わりに、

まだ起きていない本当を

先に置く。

 

⸻

 

「もうすぐ動くらしい」

 

その一言が、

引き金より早く

人を動かす。

 

⸻

 

小競り合いを誘発し、

決定打を打たせない。

 

怒りが温度を持つ前に、

別の場所で煙を上げる。

 

視線は割れ、

命令は重なり、

踏み込む足が揃わない。

 

⸻

 

帝国派には、

「阻止派がもうすぐ決起する」と。

 

阻止派には、

「帝国が殲滅を準備している」と。

 

どちらも、

嘘ではない。

 

ただ、

少し早すぎる真実だった。

 

⸻

 

早すぎる真実は、

判断を狂わせる。

 

構えるには早い。

引くには遅い。

 

その場所に、

人は立ち尽くす。

 

⸻

 

戦場は、

膠着した。

 

進めば崩れ、

退けば疑われる。

 

勝てない。

引けない。

終われない。

 

⸻

 

その間にも、

町の人間は怯え、

荷をまとめ、

鍵を増やし、

夜を短くする。

 

⸻

 

パンを焼く家が減る。

井戸の周りの声が減る。

洗濯物が、早く取り込まれる。

 

生活が、

一枚ずつ畳まれていく。

 

⸻

 

エカテリーナは、

それを見ていた。

 

見える場所に、

立ち続けた。

 

目を逸らせば、

理由が薄れる。

 

⸻

 

自分が、

火に油を注いでいることを、

分かっていた。

 

油の量も、

火の高さも。

 

⸻

 

それでも、

手を止めなかった。

 

⸻

 

——あの子の世界を、

——戦場にしないためなら。

 

⸻

 

夜。

 

人が動くのをやめ、

遠くの灯りが減り、

犬の鳴き声が長くなる時間。

 

彼女は一人で座る。

 

壁に背を預け、

手袋を外し、

指を見つめる。

 

⸻

 

そこには、

もう

あの小さな指はない。

 

けれど、

覚えている。

 

重さ。

温度。

握り返された力。

 

⸻

 

かつての噂が、

耳の奥で蘇る。

 

「ヴィイと目を合わせてはならない」

「見た者は死ぬ」

 

⸻

 

笑えなかった。

 

もし、

本当にそうなら。

 

⸻

 

自分は、

とっくに死んでいる。

 

あの子と、

目を合わせた瞬間から。

 

⸻

 

彼女は、

静かに息を吐く。

 

吐いた分だけ、

夜が深くなる。

 

⸻

 

——もう少しだけ。

 

⸻

 

指を組む。

ほどく。

もう一度組む。

 

⸻

 

——もう少しだけでいい。

 

⸻

 

戦争が、

意味を失うところまで。

 

旗が、

役に立たなくなるところまで。

 

⸻

 

母であることを、

誰にも知られなくていい。

 

証明も、

記録も、

墓標もいらない。

 

⸻

 

英雄の血が、

誰のものか、

決まらなくていい。

 

⸻

 

ただ、

あの子が、

「巻き込まれなかった」

 

その一点だけが、

残ればいい。

 

⸻

 

そのとき、

遠くで砲声が響いた。

 

夜が、

一瞬だけ

形を持つ。

 

⸻

 

土が震え、

空気が遅れて届く。

 

誰かが、

始めた。

 

⸻

 

戦況が、

動き始めている。

 

⸻

 

彼女は、

ゆっくりと立ち上がった。

 

足の痺れを待ち、

外套を直し、

灯りを消す。

 

⸻

 

最後に、

自分が行く場所は、

もう決まっている。

 

⸻

 

——あの町。

——あの家。

——あの子のいる場所。

 

⸻

 

扉を開ける。

 

冷たい空気が入る。

 

⸻

 

それが、

母としての、

最終地点だった。

 

 

ーーーーーーーーーー

戦場での証言

 

「見たんだ」

 

「女が、子どもを抱き上げて……」

 

「目が合った」

 

「だから、あれは――」

 

証言は、

そこで必ず途切れる。

 

続きを語った者はいない。

 

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