第六章 共倒れという選択(後編)
彼女の計画は、
派手ではない。
旗も、
宣言も、
英雄もいない。
あるのは、
ほんの少しの遅れと、
ほんの少しの誤差だった。
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補給線をずらす。
昨日届くはずのものを、
今日にする。
今日のはずのものを、
明日にする。
それだけで、
現場は迷う。
足りない理由を、
互いに疑い始める。
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誤情報を流す。
けれど、
嘘は使わない。
嘘は、
すぐに燃え尽きる。
代わりに、
まだ起きていない本当を
先に置く。
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「もうすぐ動くらしい」
その一言が、
引き金より早く
人を動かす。
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小競り合いを誘発し、
決定打を打たせない。
怒りが温度を持つ前に、
別の場所で煙を上げる。
視線は割れ、
命令は重なり、
踏み込む足が揃わない。
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帝国派には、
「阻止派がもうすぐ決起する」と。
阻止派には、
「帝国が殲滅を準備している」と。
どちらも、
嘘ではない。
ただ、
少し早すぎる真実だった。
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早すぎる真実は、
判断を狂わせる。
構えるには早い。
引くには遅い。
その場所に、
人は立ち尽くす。
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戦場は、
膠着した。
進めば崩れ、
退けば疑われる。
勝てない。
引けない。
終われない。
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その間にも、
町の人間は怯え、
荷をまとめ、
鍵を増やし、
夜を短くする。
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パンを焼く家が減る。
井戸の周りの声が減る。
洗濯物が、早く取り込まれる。
生活が、
一枚ずつ畳まれていく。
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エカテリーナは、
それを見ていた。
見える場所に、
立ち続けた。
目を逸らせば、
理由が薄れる。
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自分が、
火に油を注いでいることを、
分かっていた。
油の量も、
火の高さも。
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それでも、
手を止めなかった。
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——あの子の世界を、
——戦場にしないためなら。
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夜。
人が動くのをやめ、
遠くの灯りが減り、
犬の鳴き声が長くなる時間。
彼女は一人で座る。
壁に背を預け、
手袋を外し、
指を見つめる。
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そこには、
もう
あの小さな指はない。
けれど、
覚えている。
重さ。
温度。
握り返された力。
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かつての噂が、
耳の奥で蘇る。
「ヴィイと目を合わせてはならない」
「見た者は死ぬ」
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笑えなかった。
もし、
本当にそうなら。
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自分は、
とっくに死んでいる。
あの子と、
目を合わせた瞬間から。
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彼女は、
静かに息を吐く。
吐いた分だけ、
夜が深くなる。
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——もう少しだけ。
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指を組む。
ほどく。
もう一度組む。
⸻
——もう少しだけでいい。
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戦争が、
意味を失うところまで。
旗が、
役に立たなくなるところまで。
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母であることを、
誰にも知られなくていい。
証明も、
記録も、
墓標もいらない。
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英雄の血が、
誰のものか、
決まらなくていい。
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ただ、
あの子が、
「巻き込まれなかった」
その一点だけが、
残ればいい。
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そのとき、
遠くで砲声が響いた。
夜が、
一瞬だけ
形を持つ。
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土が震え、
空気が遅れて届く。
誰かが、
始めた。
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戦況が、
動き始めている。
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彼女は、
ゆっくりと立ち上がった。
足の痺れを待ち、
外套を直し、
灯りを消す。
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最後に、
自分が行く場所は、
もう決まっている。
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——あの町。
——あの家。
——あの子のいる場所。
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扉を開ける。
冷たい空気が入る。
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それが、
母としての、
最終地点だった。
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戦場での証言
「見たんだ」
「女が、子どもを抱き上げて……」
「目が合った」
「だから、あれは――」
証言は、
そこで必ず途切れる。
続きを語った者はいない。