ヴィイは目を閉じている   作:5734589

15 / 17
共倒れという選択(後編)

第六章 共倒れという選択(後編)

 

彼女の計画は、

派手ではない。

 

旗も、

宣言も、

英雄もいない。

 

あるのは、

ほんの少しの遅れと、

ほんの少しの誤差だった。

 

 

補給線をずらす。

 

昨日届くはずのものを、

今日にする。

 

今日のはずのものを、

明日にする。

 

それだけで、

現場は迷う。

 

足りない理由を、

互いに疑い始める。

 

 

誤情報を流す。

 

けれど、

嘘は使わない。

 

嘘は、

すぐに燃え尽きる。

 

代わりに、

まだ起きていない本当を

先に置く。

 

 

「もうすぐ動くらしい」

 

その一言が、

引き金より早く

人を動かす。

 

 

小競り合いを誘発し、

決定打を打たせない。

 

怒りが温度を持つ前に、

別の場所で煙を上げる。

 

視線は割れ、

命令は重なり、

踏み込む足が揃わない。

 

 

帝国派には、

「阻止派がもうすぐ決起する」と。

 

阻止派には、

「帝国が殲滅を準備している」と。

 

どちらも、

嘘ではない。

 

ただ、

少し早すぎる真実だった。

 

 

早すぎる真実は、

判断を狂わせる。

 

構えるには早い。

引くには遅い。

 

その場所に、

人は立ち尽くす。

 

 

戦場は、

膠着した。

 

進めば崩れ、

退けば疑われる。

 

勝てない。

引けない。

終われない。

 

 

その間にも、

町の人間は怯え、

荷をまとめ、

鍵を増やし、

夜を短くする。

 

 

パンを焼く家が減る。

井戸の周りの声が減る。

洗濯物が、早く取り込まれる。

 

生活が、

一枚ずつ畳まれていく。

 

 

エカテリーナは、

それを見ていた。

 

見える場所に、

立ち続けた。

 

目を逸らせば、

理由が薄れる。

 

 

自分が、

火に油を注いでいることを、

分かっていた。

 

油の量も、

火の高さも。

 

 

それでも、

手を止めなかった。

 

 

——あの子の世界を、

——戦場にしないためなら。

 

 

夜。

 

人が動くのをやめ、

遠くの灯りが減り、

犬の鳴き声が長くなる時間。

 

彼女は一人で座る。

 

壁に背を預け、

手袋を外し、

指を見つめる。

 

 

そこには、

もう

あの小さな指はない。

 

けれど、

覚えている。

 

重さ。

温度。

握り返された力。

 

 

かつての噂が、

耳の奥で蘇る。

 

「ヴィイと目を合わせてはならない」

「見た者は死ぬ」

 

 

笑えなかった。

 

もし、

本当にそうなら。

 

 

自分は、

とっくに死んでいる。

 

あの子と、

目を合わせた瞬間から。

 

 

彼女は、

静かに息を吐く。

 

吐いた分だけ、

夜が深くなる。

 

 

——もう少しだけ。

 

 

指を組む。

ほどく。

もう一度組む。

 

 

——もう少しだけでいい。

 

 

戦争が、

意味を失うところまで。

 

旗が、

役に立たなくなるところまで。

 

 

母であることを、

誰にも知られなくていい。

 

証明も、

記録も、

墓標もいらない。

 

 

英雄の血が、

誰のものか、

決まらなくていい。

 

 

ただ、

あの子が、

「巻き込まれなかった」

 

その一点だけが、

残ればいい。

 

 

そのとき、

遠くで砲声が響いた。

 

夜が、

一瞬だけ

形を持つ。

 

 

土が震え、

空気が遅れて届く。

 

誰かが、

始めた。

 

 

戦況が、

動き始めている。

 

 

彼女は、

ゆっくりと立ち上がった。

 

足の痺れを待ち、

外套を直し、

灯りを消す。

 

 

最後に、

自分が行く場所は、

もう決まっている。

 

 

——あの町。

——あの家。

——あの子のいる場所。

 

 

扉を開ける。

 

冷たい空気が入る。

 

 

それが、

母としての、

最終地点だった。

 

 

ーーーーーーーーーー

戦場での証言

 

「見たんだ」

 

「女が、子どもを抱き上げて……」

 

「目が合った」

 

「だから、あれは――」

 

証言は、

そこで必ず途切れる。

 

続きを語った者はいない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。