第七章 ヴィイは目を閉じている(前編)
戦場は、
もう戦場と呼べる形をしていなかった。
陣は崩れ、
旗は煤に汚れ、
命令は途中で途切れる。
帝国の部隊と阻止派の部隊が、
同じ場所に集まり、
同じ方向を向き、
それでも互いの背中を信用できないでいる。
銃口は敵へ向いているはずなのに、
視線だけが味方を測る。
踏み出すきっかけを、
誰も持てない。
そこにあるのは、
衝突ではなく、
破裂寸前の沈黙だった。
遠くで瓦礫が落ちる。
誰かが怒鳴る。
それに何人かが反応する。
だが、
始まらない。
始めてしまえば、
終わりまで進むしかなくなることを、
全員が知っている。
エカテリーナは、
その隙間を縫って進んだ。
兵の視線が、
彼女の上を通り過ぎる。
女であること。
武器を持たないこと。
焦点の外にいること。
それらが、
今だけは役に立った。
銃声が近い。
怒号が混じる。
煙が低く流れる。
崩れた家の壁に、
昨日までの生活が
貼りついている。
鍋。
椅子。
半分開いた窓。
どれも、
彼女の目的ではない。
彼女が見ているのは、
ただ一つ。
——あの家。
何度も遠くから確かめた形。
何度も夜の中で思い描いた位置。
道が変わっても、
壁が崩れても、
そこだけは見失わない。
窓が割れている。
扉は半壊している。
床板が外へ飛び出している。
それでも。
奥に、
人の動きがあった。
呼吸の気配。
潜む音。
彼女は立ち止まらない。
足場を選び、
音を立てず、
崩れた扉を押し分ける。
蝶番が悲鳴を上げる。
誰かに聞こえる。
もう、構わない。
⸻
室内は暗い。
煙が入り、
光は細く、
家具が影になっている。
その奥で、
小さなものが動いた。
子どもだった。
床にしゃがみ、
両手を握り、
音の意味を測りかねている。
泣いていた。
けれど、
泣き続ける体力も
残っていないようだった。
息が細く、
肩が震え、
声は途切れる。
エカテリーナは、
膝をついた。
視線の高さを合わせる。
近づきすぎない。
逃げ道を塞がない。
そうしなければ、
子は、
大人を怖がる。
呼びかける言葉が、
喉で止まる。
——名前を、
——知らない。
知らないという事実が、
舌を重くする。
それでも。
腕は伸びた。
ゆっくりと、
掌を見せる。
武器を持っていない、
という合図。
⸻
子は、
しばらく彼女を見ていた。
泣き止まないまま、
逃げもしない。
考えている。
この人間は、
何をするのか。
⸻
やがて、
小さな体が傾いた。
ほんのわずかに、
彼女の方へ。
それだけで十分だった。
エカテリーナは、
抱き上げた。
軽い。
腕の中に、
収まる。
背中に触れると、
骨の並びが分かる。
息が、
服を押す。
生きている。
⸻
その瞬間、
子が顔を上げた。
目が合う。
ただ、それだけだった。
理解も、
憎しみも、
呪いもない。
何かを問うわけでもない。
ただ、
人を見る目。
見上げる高さ。
それだけの距離。
エカテリーナは、
瞬きを忘れた。