第七章 ヴィイは目を閉じている(後編)
目が合ったまま、
時間が伸びる。
外の音が遠のく。
銃声も、
怒号も、
瓦礫の崩れる響きも。
腕の中の呼吸だけが、
近い。
小さな胸が、
規則を持たずに上下する。
それで十分だった。
⸻
そのとき。
乾いた音がした。
鋭く、
短く、
どこから来たのかも分からない。
偶然の音。
誰が撃ったのか、
誰に向けたのか、
意味を持つには速すぎる。
衝撃が、
遅れて届いた。
エカテリーナの身体が揺れる。
空気が抜ける。
膝が床に触れ、
視界が低くなる。
それでも。
腕だけは、
ほどかなかった。
子の背中を支える手に、
力を集める。
落とさない。
それだけを、
体が守る。
⸻
もう一度、
息を吸おうとして、
うまくいかない。
代わりに、
熱が広がる。
服の内側を伝い、
外へ出ていく。
床に落ちる音が、
妙に大きい。
⸻
世界が、
ゆっくり傾く。
天井が横へ滑り、
壁が遠くなる。
それでも、
腕の中は近い。
⸻
子は泣いていなかった。
さっきまでの声が、
どこかへ消えている。
ただ、
彼女を見ている。
何が起きたのか、
分からないまま。
⸻
エカテリーナは、
子の顔を見つめた。
まばたきを、
忘れたまま。
——大丈夫。
言葉を探す。
けれど、
喉は動かない。
代わりに、
口の形だけが、
それを作る。
音にはならない。
それでも、
伝えたかった。
⸻
指先が冷えていく。
腕の力が、
少しずつ
遠くなる。
離れていく。
⸻
誰かが、
外で叫んだ。
何かを見た声。
何かを、
結びつける声。
「……やはり、ヴィイは……」
⸻
その言葉は、
彼女の耳には届かない。
もう、
音より近いものがある。
腕の中の重さ。
額にかかる息。
視線。
⸻
彼女の意識は、
ゆっくりと
狭くなる。
戦場が消える。
旗が消える。
敵も味方も消える。
残るのは、
抱いているという事実だけ。
⸻
最後に、
彼女は思う。
——この子は、
——何もしていない。
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倒れたのは、
弾だ。
引き金だ。
命令だ。
⸻
殺したのは、
戦争だ。
思想だ。
人間だ。
⸻
それだけが、
確かだった。
⸻
力が抜ける。
支えていた腕が、
床へ近づく。
それでも、
最後まで、
子の下に入れておく。
硬い場所へ
当たらないように。
⸻
彼女は、
ゆっくりと目を閉じた。
象徴ではなく、
母として。
ーー
彼女の身体が床に触れたあと、
数秒だけ、
誰も動かなかった。
撃った者も、
見ていた者も、
次に何が起きたのかを
決められなかった。
⸻
やがて、
一人が声を上げる。
「見たか」
それが、
合図になった。
⸻
「目を合わせた」
「だからだ」
誰かが言う。
別の誰かが頷く。
意味が、
あとから形を持つ。
⸻
子は泣かなかった。
抱かれていた腕が緩み、
体が床へ近づいても、
ただ目を開けていた。
理解していない。
理解しなくていい。
それでも、
周囲は理解を与える。
⸻
「ヴィイだ」
確信は、
いつも出来事の後から来る。
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運ばれる。
確認される。
遺体が覆われる。
その間も、
言葉だけが
先に走る。
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どちらの陣営も、
自分に都合のいい順序で
事実を並べた。
目が合った。
倒れた。
だから怪物だ。
あるいは。
怪物だから、
そうなった。
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もう、
誰も疑わない。
疑うには、
時間が足りない。
戦場は動き、
命令が飛び、
次の混乱が始まる。
⸻
やがて、
崩れる。
決壊は一瞬だった。
統制は解け、
怒りは散り、
収拾のつかない形で
終わりへ向かう。
⸻
どちらの勝利でもない。
他国の介入。
停戦。
未解決のままの撤退。
書類の上でだけ、
整えられる終わり。
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そして。
ヴィイの噂だけが、
遅れて完成する。
「見た者は死ぬ」
「目を合わせたからだ」
繰り返され、
削られ、
磨かれ、
使いやすい形になる。
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だが、
誰も真実を語らない。
語れる者は、
もういない。
⸻
⸻
最終章
ヴィイは生まれなかった
数年後。
あの町には、
もう検問はない。
兵士の影も、
旗の色も、
通りから消えている。
⸻
弾痕は、
上から塗り直され、
崩れた壁は、
新しい木で支えられている。
傷は、
名前を持たずに
薄れていく。
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朝。
パンの焼ける匂い。
桶の水音。
誰かが窓を開ける。
生活が、
ゆっくりと
戻っている。
⸻
一人の子どもが、
光の中を走っていく。
石につまずき、
体勢を立て直し、
また走る。
遠くから、
名を呼ばれる。
振り返る。
手を上げる。
笑う。
⸻
その名は、
ヴィイではない。
怪物でも、
象徴でも、
呪いでもない。
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ただ、
与えられた名前。
日常の中で、
何度も使われ、
擦り切れていく音。
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母の顔を、
知らない。
記憶の中に、
いない。
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けれど。
抱かれたこと。
守られたこと。
選ばれたこと。
それらだけが、
形を持たずに
残っている。
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ヴィイは、
世界が欲しがった
怪物の名前だった。
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その子には、
最初から、
そんなものはなかった。
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戦後の記録
ヴィイについての記録は、
不完全である。
写真は存在せず、
名前も一致せず、
生死も確定しない。
にもかかわらず、
多くの者が
「確かにいた」と証言する。
歴史は、
そういうものを
好む。