ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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ヴィイは目を閉じている(後編)

第七章 ヴィイは目を閉じている(後編)

 

目が合ったまま、

時間が伸びる。

 

外の音が遠のく。

 

銃声も、

怒号も、

瓦礫の崩れる響きも。

 

腕の中の呼吸だけが、

近い。

 

小さな胸が、

規則を持たずに上下する。

 

それで十分だった。

 

 

そのとき。

 

乾いた音がした。

 

鋭く、

短く、

どこから来たのかも分からない。

 

偶然の音。

 

誰が撃ったのか、

誰に向けたのか、

意味を持つには速すぎる。

 

衝撃が、

遅れて届いた。

 

エカテリーナの身体が揺れる。

 

空気が抜ける。

 

膝が床に触れ、

視界が低くなる。

 

それでも。

 

腕だけは、

ほどかなかった。

 

子の背中を支える手に、

力を集める。

 

落とさない。

 

それだけを、

体が守る。

 

 

もう一度、

息を吸おうとして、

うまくいかない。

 

代わりに、

熱が広がる。

 

服の内側を伝い、

外へ出ていく。

 

床に落ちる音が、

妙に大きい。

 

 

世界が、

ゆっくり傾く。

 

天井が横へ滑り、

壁が遠くなる。

 

それでも、

腕の中は近い。

 

 

子は泣いていなかった。

 

さっきまでの声が、

どこかへ消えている。

 

ただ、

彼女を見ている。

 

何が起きたのか、

分からないまま。

 

 

エカテリーナは、

子の顔を見つめた。

 

まばたきを、

忘れたまま。

 

——大丈夫。

 

言葉を探す。

 

けれど、

喉は動かない。

 

代わりに、

口の形だけが、

それを作る。

 

音にはならない。

 

それでも、

伝えたかった。

 

 

指先が冷えていく。

 

腕の力が、

少しずつ

遠くなる。

 

離れていく。

 

 

誰かが、

外で叫んだ。

 

何かを見た声。

 

何かを、

結びつける声。

 

「……やはり、ヴィイは……」

 

 

その言葉は、

彼女の耳には届かない。

 

もう、

音より近いものがある。

 

腕の中の重さ。

 

額にかかる息。

 

視線。

 

 

彼女の意識は、

ゆっくりと

狭くなる。

 

戦場が消える。

旗が消える。

敵も味方も消える。

 

残るのは、

抱いているという事実だけ。

 

 

最後に、

彼女は思う。

 

——この子は、

——何もしていない。

 

 

倒れたのは、

弾だ。

 

引き金だ。

 

命令だ。

 

 

殺したのは、

戦争だ。

 

思想だ。

 

人間だ。

 

 

それだけが、

確かだった。

 

 

力が抜ける。

 

支えていた腕が、

床へ近づく。

 

それでも、

最後まで、

子の下に入れておく。

 

硬い場所へ

当たらないように。

 

 

彼女は、

ゆっくりと目を閉じた。

 

象徴ではなく、

母として。

 

ーー

彼女の身体が床に触れたあと、

数秒だけ、

誰も動かなかった。

 

撃った者も、

見ていた者も、

次に何が起きたのかを

決められなかった。

 

 

やがて、

一人が声を上げる。

 

「見たか」

 

それが、

合図になった。

 

 

「目を合わせた」

「だからだ」

 

誰かが言う。

 

別の誰かが頷く。

 

意味が、

あとから形を持つ。

 

 

子は泣かなかった。

 

抱かれていた腕が緩み、

体が床へ近づいても、

ただ目を開けていた。

 

理解していない。

 

理解しなくていい。

 

それでも、

周囲は理解を与える。

 

 

「ヴィイだ」

 

確信は、

いつも出来事の後から来る。

 

 

運ばれる。

確認される。

遺体が覆われる。

 

その間も、

言葉だけが

先に走る。

 

 

どちらの陣営も、

自分に都合のいい順序で

事実を並べた。

 

目が合った。

倒れた。

だから怪物だ。

 

あるいは。

 

怪物だから、

そうなった。

 

 

もう、

誰も疑わない。

 

疑うには、

時間が足りない。

 

戦場は動き、

命令が飛び、

次の混乱が始まる。

 

 

やがて、

崩れる。

 

決壊は一瞬だった。

 

統制は解け、

怒りは散り、

収拾のつかない形で

終わりへ向かう。

 

 

どちらの勝利でもない。

 

他国の介入。

停戦。

未解決のままの撤退。

 

書類の上でだけ、

整えられる終わり。

 

 

そして。

 

ヴィイの噂だけが、

遅れて完成する。

 

「見た者は死ぬ」

「目を合わせたからだ」

 

繰り返され、

削られ、

磨かれ、

 

使いやすい形になる。

 

 

だが、

誰も真実を語らない。

 

語れる者は、

もういない。

 

 

 

最終章

 

ヴィイは生まれなかった

 

数年後。

 

あの町には、

もう検問はない。

 

兵士の影も、

旗の色も、

通りから消えている。

 

 

弾痕は、

上から塗り直され、

崩れた壁は、

新しい木で支えられている。

 

傷は、

名前を持たずに

薄れていく。

 

 

朝。

 

パンの焼ける匂い。

桶の水音。

誰かが窓を開ける。

 

生活が、

ゆっくりと

戻っている。

 

 

一人の子どもが、

光の中を走っていく。

 

石につまずき、

体勢を立て直し、

また走る。

 

遠くから、

名を呼ばれる。

 

振り返る。

 

手を上げる。

 

笑う。

 

 

その名は、

ヴィイではない。

 

怪物でも、

象徴でも、

呪いでもない。

 

 

ただ、

与えられた名前。

 

日常の中で、

何度も使われ、

擦り切れていく音。

 

 

母の顔を、

知らない。

 

記憶の中に、

いない。

 

 

けれど。

 

抱かれたこと。

守られたこと。

選ばれたこと。

 

それらだけが、

形を持たずに

残っている。

 

 

ヴィイは、

世界が欲しがった

怪物の名前だった。

 

 

その子には、

最初から、

そんなものはなかった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

戦後の記録

 

ヴィイについての記録は、

不完全である。

 

写真は存在せず、

名前も一致せず、

生死も確定しない。

 

にもかかわらず、

多くの者が

「確かにいた」と証言する。

 

歴史は、

そういうものを

好む。

 

 

 

 

 

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