第一章
血は、名より先に呼ばれる(前編2)
部屋は広かった。
天井が高く、
音は上へ逃げ、
人の気配だけが足元に残る。
家具は過不足なく置かれている。
座る場所、眠る場所、書き物をする場所。
用途は明確で、
迷う余地がない。
窓辺には重い幕が垂れていた。
開閉は外から管理され、
内側に紐はない。
エカテリーナは、
そこが与えられた範囲なのだと理解した。
滞在ではなく、
収容でもなく、
もっと穏当な言い方で呼ばれる種類の配置。
扉の外には、
いつも同じ位置に人が立っている。
視線は合わない。
話しかけられることもない。
ただ、いなくなることがない。
⸻
数日は、何事も起こらなかった。
起床の時刻に扉が叩かれ、
湯が運ばれ、
食事が並ぶ。
食器は静かに取り替えられ、
着替えは寸分違わぬ大きさで用意される。
不足はない。
不便もない。
だからこそ、
彼女は自分の身体に目を向ける時間を持った。
朝、目を開いたとき、
遠くで水に潜ったような感覚がある。
天井の模様が、
薄い膜を隔てた向こう側にある。
瞬きをすると戻る。
何事もなかったように。
立ち上がると、
足裏が床を探すのに一瞬遅れる。
以前はなかった遅れだった。
階段を使うことは許されていなかったが、
廊下を往復するだけで、
呼吸が浅くなる日があった。
侍女は何も言わない。
だが、湯の温度が変わり、
料理の味付けが薄くなり、
香の匂いが消えた。
記録されている。
そう思った。
彼女の表情ではなく、
歩幅でもなく、
体温や脈や、
食事の減り方が。
人ではなく、
数値として。
⸻
ある朝、
いつもより早く扉が叩かれた。
侍女ではない。
靴音が重い。
白衣の男が二人、
道具箱を持って入ってくる。
挨拶は短い。
視線は手元に落ちている。
椅子に座るよう促され、
脈を取られ、
瞼を上げられ、
腹部に触れられる。
どれも手慣れていて、
迷いがなかった。
紙に文字が並ぶ音だけが、
部屋の中央に残る。
やがて、年長の方が言った。
「妊娠しています」
報告だった。
発見でも、
祝福でもない。
手順の最後に置かれる確認。
沈黙が数拍あり、
若い方が書類に印を押した。
それで完了したらしい。
身体から手が離れ、
椅子を立つ許可が出る。
「今後の管理については、追って通達があります」
それだけが付け加えられた。
男たちは入ってきた時と同じ速さで退室し、
扉が閉まる。
金具が噛み合う。
部屋は元の広さに戻った。
⸻
廊下の向こうで、
声がした。
低く、抑えられている。
「血が混ざるな」
強い調子ではない。
誰かを責める響きでもない。
帳簿に線を引くときのような、
均一な声音だった。
いくつかの返答が続く。
内容は聞き取れない。
だが、
話題が整理されていく気配だけが伝わる。
問題点。
対処。
必要な期間。
扉の外で、
未来が分解されていく。
⸻
静かになってから、
エカテリーナは立った。
窓辺まで歩き、
手を伸ばす。
幕は動かない。
決められている。
彼女は自分の席へ戻り、
ゆっくりと腹に触れた。
平坦だった。
形はない。
重さもない。
皮膚の下は、
いつもと同じ沈黙を保っている。
それでも、
そこに新しい項目が追加されたことだけは、
はっきりしていた。
食事。
睡眠。
移動制限。
そして、
ここ。
彼女の身体は、
すでに彼女一人のものとして
数えられていない。
手を離す。
もう一度触れる。
何も変わらない。
変わらないまま、
記録だけが先に進んでいく。
⸻
この子は、
生まれるより前に
用途を持つ。
理由が与えられる。
望まれるか、
排除されるか、
どちらにせよ。
決定は、
ここではない場所で行われる。
エカテリーナは椅子に座り直し、
背筋を伸ばした。
呼び鈴は鳴らさない。
誰も呼ばない。
ただ、
次に扉が開く時刻を待つ。
それが、
いま彼女に許されている
唯一の参加だった。