第一章
血は、名より先に呼ばれる(後編2)
面会が終わったことは、
廊下の空気で分かった。
足音が戻り、
見張りの位置が入れ替わり、
いつもの距離が回復する。
部屋に通され、
扉が閉まる。
金具の噛み合う音が、
その日最後の予定を確定させた。
侍女が湯を運び、
薬湯の匂いが薄く立つ。
何も変わらない。
変わらないまま、
言葉だけが残っている。
ヴィイ。
口に出せば
誰かのものになる響きだった。
出さなければ、
まだ宙に浮いている。
エカテリーナは衣服を整え、
椅子に座り、
いつもより長く、
手を膝に置いていた。
呼吸は数えられる速さで進み、
外から見れば
安定の範囲に収まっている。
やがて立ち上がり、
窓辺へ行き、
幕に触れる。
動かない。
戻る。
机の上には、
帝国が用意した読み物が置かれていた。
血統、歴史、
正しい継承の形。
頁をめくる。
文字は整然と並び、
どこにも余白はない。
入り込む隙間がないことを、
指先が教える。
閉じる。
⸻
夜半、
遠くで扉が開く音がした。
医師が呼ばれている。
廊下を急ぐ気配はない。
緊急ではない。
予定が、
少し前倒しになっただけ。
声がいくつか行き交い、
書類の束が運ばれる。
低く、簡潔な確認。
「時期は」
「可能です」
「母体の負担は」
「問題ありません」
言葉は短く、
互いに十分だった。
やがてその一つが、
はっきりとした形で落ちる。
「処理する」
強さはない。
重さもない。
机の上の塵を払うような、
作業の終端。
誰も彼女を呼ばない。
立ち会いも求めない。
決定は、
当事者を必要としない場所で完了する。
足音が遠ざかる。
夜は元の厚みに戻る。
⸻
エカテリーナは寝台から起き上がった。
灯りは小さい。
自分の影が足元に収まっている。
腹に触れる。
昼間と同じ。
何もない。
動きも、
形も、
主張もない。
それでも、
先ほど廊下を通った言葉が、
ここを素通りしていったことだけは分かる。
彼女は、
もう一度触れた。
確認のためではない。
位置を覚えるためだった。
布団を戻し、
机に向かう。
引き出しを開ける。
中には、
到着した日に渡された備品が収まっている。
紙。
封筒。
筆。
使用の予定がないまま、
整列している。
彼女は封筒を取り出し、
裏返した。
何も書かない。
ただ、折り目を確かめ、
端を撫でる。
小さすぎる。
すぐに分かる。
それは書類を送るための大きさで、
包むためのものではない。
戻す。
次に衣装棚を開ける。
布地を一枚、引き出す。
軽く、柔らかい。
侍女が気づけば、
理由を尋ねるだろう。
尋ねられれば、
答えが必要になる。
彼女は畳み直し、
元の位置へ戻した。
まだ早い。
順番がある。
⸻
椅子に座り、
両手を腹に当てる。
温度が移る。
それだけで、
十分な作業のように思えた。
名前は呼ばない。
呼べば、
誰かが受け取る。
受け取られれば、
用途が決まる。
だから、
何も置かない。
ただ、
ここにあることだけを
繰り返す。
⸻
翌朝、
彼女は食事を残さなかった。
苦手だった匂いの強い煮込みも、
時間をかけて口に運ぶ。
侍女が一瞬だけ目を上げ、
すぐに伏せる。
記録は修正される。
散歩の距離を尋ねられ、
彼女は規定の倍を答えた。
却下される。
想定内だった。
引き下がる。
順番を守る。
医師が脈を取り、
問題ないと言う。
彼女はうなずく。
正しい角度で。
⸻
何も変わらない。
それでも、
昨日までとは違う場所に
力が置かれている。
逃げるのではない。
抗議でもない。
ただ、
先に進める。
彼女の身体が、
誰かの決定よりも
少しだけ早く進むことを願って。
⸻
まだ名のないそこへ、
今日も血が届く。
均等に、
規則正しく。
その働きを止めないことだけが、
いま選べる唯一の手順だった。
そしてそれは、
どちらの側にとっても
歓迎される動きではなかった。
だが、
まだ誰も、
それを違反とは呼ばない。
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号外
号外
帝国打倒の英雄、その血は今も生きている
当局の発表によれば、
かつて帝国を崩壊に導いた反逆者の直系が
現在確認されている。
この事実は、
帝国復活を目論む勢力にとって
無視できない不吉の兆しであると同時に、
帝国打倒の正当性が
今なお有効であることを示す
歴史的証拠でもある。