第二章
母になるという裏切り(前編1)
出産は、選択ではなかった。
それでも、彼女は手順を選んだ。
夜は深い。
屋敷は広いが、
使われている明かりは少ない。
灯の落ちた廊下は、
壁だけが正確に続いている。
遠くで見張りの交代があり、
規則通りの足音が往復する。
それが終わるのを待って、
エカテリーナは扉を開けた。
衣擦れの音が出ないよう、
事前に選んだ布をまとっている。
廊下に出る。
誰もいない。
誰もいない時間が
必ず巡ってくることを、
ここでの生活が教えていた。
彼女は灯りの届かない側を選び、
壁に沿って進む。
角を曲がり、
階段を避け、
普段は施錠されていない扉を抜ける。
使われなくなった区域は、
掃除の頻度が落ちる。
空気が違う。
乾き、
少しだけ古い。
人が居続ける場所とは別の匂い。
彼女は、そこへ入った。
祝福も、
介助も、
清潔な寝台もない。
その条件が、
ここを選ばせた。
⸻
扉を閉める。
音は小さい。
それでも彼女はしばらく動かず、
外側に変化がないことを待つ。
何も起こらない。
ようやく息を吐き、
床に膝をつく。
冷たい。
薄い布越しでも分かる。
次の波が来る前に、
呼吸を整える。
吸って、
止めて、
ゆっくり吐く。
医師から教えられたものではない。
自分の身体の変化を
日々観察して覚えた、
間に合わせの方法だった。
腹の奥が固くなる。
逃げ場のない圧力が、
下へ向かって押し出してくる。
喉が開きかける。
彼女は手の甲を口に当て、
声を閉じ込めた。
音は、
遠くまで届く。
屋敷は、
そういう造りをしている。
肩が震え、
額が床に近づく。
石の匂いが強くなる。
次が来る。
分かる。
間隔が、
もう隠せないほど短い。
⸻
時間は測れない。
ただ、
終わりに向かって進んでいることだけが
はっきりしている。
指先が床を探る。
掴めるものはない。
代わりに、
自分の袖を握る。
布が裂ける。
小さな音。
彼女は顔を上げる。
止まっている。
外は、変わらない。
進める。
⸻
最後の波は、
前触れなく形を変えた。
押す力と、
裂ける感覚と、
落ちていく軽さが
一度に来る。
視界が白くなり、
呼吸が途切れ、
世界が遠ざかる。
それでも彼女は、
腕を伸ばしていた。
先に探す。
床。
布。
そして、
そこにあるはずの小さなもの。
触れた。
滑り、
温かく、
確かな重さ。
両腕で囲う。
遅れて、
空気が戻ってくる。
肺が勝手に動く。
喉が痛む。
だが、
声は出ていない。
うまくいった。
⸻
一拍遅れて、
音が生まれる。
かすかな、
細い、
まだ世界に慣れていない震え。
泣き声だった。
彼女はすぐに、
布で包む。
厚くはない。
十分でもない。
だが、
直接床に触れさせない。
それだけはできる。
胸元へ引き寄せる。
鼓動が二つになる。
速さは揃わない。
揃わないまま、
そこにある。
⸻
灯りのない部屋で、
彼女は子の顔を探す。
目は閉じられ、
口が小さく開いている。
指を近づける。
握られる。
反射に過ぎないことを、
彼女は知っている。
それでも、
外す理由が見つからない。
そのままにする。
泣き声は、
布の内側で吸われ、
廊下へは漏れない。
まだ、
見つかっていない。
まだ、
ここにある。