ヴィイは目を閉じている   作:5734589

6 / 17
母になるという裏切り(前編2)

第二章

 

母になるという裏切り(前編2)

 

子は布の内側で息をしていた。

 

浅く、途切れ、

また始まる。

 

規則はない。

 

彼女はそれを数えようとして、

途中でやめた。

 

数は、

報告に向いている。

 

ここでは必要がない。

 

指を握られたまま、

エカテリーナは背を壁に預ける。

 

石は冷たい。

 

熱を奪われる。

 

奪われるなら、

少しでも多く、

自分の方からでいい。

 

布の合わせ目を整え、

子の顔が隠れる角度を探す。

 

泣き声が細くなる。

 

消えたわけではない。

 

近くなった。

 

それで十分だった。

 

 

ヴィイ。

 

面会室で置かれたその音が、

遅れて追いついてくる。

 

帝国に死をもたらすもの。

物語を壊すもの。

 

腕の中に収まる重さと、

釣り合わない。

 

彼女は視線を落とし、

子の額に触れた。

 

汗と、

生まれたばかりの匂い。

 

伝承は、

こういう温度を持っていなかった。

 

首を振る。

 

考えを払うための動きではない。

 

ただ、

視界の位置を変えるため。

 

 

呼びかけようとして、

息を吸う。

 

音は形にならず、

喉の奥で止まる。

 

名を与えるには、

相手が必要だ。

 

呼ぶ者と、

応える者。

 

それが揃った瞬間、

ここから外へ線が伸びる。

 

伸びた線は、

辿られる。

 

彼女は口を閉じる。

 

代わりに、

子の額に自分の頬を寄せた。

 

皮膚が触れる。

 

それで、足りた。

 

 

立ち上がらなければならない。

 

長く留まれば、

巡回の時間と重なる。

 

彼女は先に、

布を締め直す。

 

包み、

結び、

解けない形にする。

 

抱き上げる。

 

軽い。

 

だが、

両腕はすぐに覚える。

 

この重さでなければならないと、

最初から知っていたみたいに。

 

一歩進む。

 

身体が揺れる。

 

出血の感覚が遅れて広がる。

 

壁に手をつく。

 

立てる。

 

それで進む。

 

 

通路へ出る前に、

床を見た。

 

痕が残っている。

 

布を裂いた切れ端を拾い、

できる範囲で拭う。

 

完全ではない。

 

十分でもない。

 

だが、

何もしなかった形にはならない。

 

それでいい。

 

扉を開ける。

 

廊下は変わらず長い。

 

灯りは遠い。

 

見張りの足音は、

まだ別の区画にある。

 

進める。

 

 

歩きながら、

彼女は腕の角度を調整する。

 

顔が見えない向き。

冷気が入り込まない向き。

揺れが最小になる向き。

 

答えはすぐに見つかる。

 

見つけたあとで、

なぜそれを知っていたのかを考える。

 

考えて、

やめる。

 

理由を持てば、

説明が必要になる。

 

いまは、いらない。

 

 

部屋へ戻る。

 

寝台は整ったまま、

彼女が抜け出した形を保っている。

 

子を下ろさない。

 

先に荷をまとめる。

 

準備は以前から進めていた。

 

持てる量。

目立たない色。

捨てても追跡にならない物。

 

確認する。

 

増やせない。

 

減らせる。

 

一つ、外す。

 

その空間に、

子を収める。

 

最初から

そこに置く予定だったみたいに。

 

 

静かだ。

 

不自然なほど、

何も起こらない。

 

腕の中で、

子は声を出さない。

 

目を閉じたまま、

胸だけが動く。

 

彼女は歩き出す。

 

夜明けまで、

まだ時間がある。

 

門の警備が

最も緩む刻限。

 

計算は、

何度もなぞった。

 

失敗すれば、

次はない。

 

それでも、

足は迷わない。

 

 

途中、

ふと足が止まる。

 

抱き直す。

 

外套の合わせがわずかに開き、

小さな顔が覗く。

 

閉じた瞼。

不規則な呼吸。

頼りないほど軽い重さ。

 

彼女は立ったまま、

しばらくそれを見ている。

 

覚えておく、

と思う。

 

次の角を曲がったあとも、

夜が終わったあとも、

もし腕の中が空になったとしても、

思い出せるように。

 

指先で布を寄せ、

覆いを深くする。

 

それから、

喉の奥で止めていた息を、

ほんの少しだけ外へ出す。

 

ごめんね。

 

声にはならない。

 

けれど、

それは確かに

彼女の内側から出ていった。

 

謝る理由は、

数えようとすればいくつもあった。

 

世界を選べなかったこと。

安全を用意できなかったこと。

名前を与えられなかったこと。

 

腕の中の温度が、

布越しに伝わってくる。

 

それだけは、

取り違えようがない。

 

もし、

この子が幸せになれる場所があるなら、

自分がそこにいなくても構わない。

 

彼女はそう考え、

外套の前を合わせ直す。

 

抱く力をゆるめないまま。

 

それは願いに近く、

同時に、

ここから先に進むための形でもあった。

 

彼女は歩き出す。

 

次の角へ。

まだ誰のものでもない朝へ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。