第二章
母になるという裏切り(前編2)
子は布の内側で息をしていた。
浅く、途切れ、
また始まる。
規則はない。
彼女はそれを数えようとして、
途中でやめた。
数は、
報告に向いている。
ここでは必要がない。
指を握られたまま、
エカテリーナは背を壁に預ける。
石は冷たい。
熱を奪われる。
奪われるなら、
少しでも多く、
自分の方からでいい。
布の合わせ目を整え、
子の顔が隠れる角度を探す。
泣き声が細くなる。
消えたわけではない。
近くなった。
それで十分だった。
⸻
ヴィイ。
面会室で置かれたその音が、
遅れて追いついてくる。
帝国に死をもたらすもの。
物語を壊すもの。
腕の中に収まる重さと、
釣り合わない。
彼女は視線を落とし、
子の額に触れた。
汗と、
生まれたばかりの匂い。
伝承は、
こういう温度を持っていなかった。
首を振る。
考えを払うための動きではない。
ただ、
視界の位置を変えるため。
⸻
呼びかけようとして、
息を吸う。
音は形にならず、
喉の奥で止まる。
名を与えるには、
相手が必要だ。
呼ぶ者と、
応える者。
それが揃った瞬間、
ここから外へ線が伸びる。
伸びた線は、
辿られる。
彼女は口を閉じる。
代わりに、
子の額に自分の頬を寄せた。
皮膚が触れる。
それで、足りた。
⸻
立ち上がらなければならない。
長く留まれば、
巡回の時間と重なる。
彼女は先に、
布を締め直す。
包み、
結び、
解けない形にする。
抱き上げる。
軽い。
だが、
両腕はすぐに覚える。
この重さでなければならないと、
最初から知っていたみたいに。
一歩進む。
身体が揺れる。
出血の感覚が遅れて広がる。
壁に手をつく。
立てる。
それで進む。
⸻
通路へ出る前に、
床を見た。
痕が残っている。
布を裂いた切れ端を拾い、
できる範囲で拭う。
完全ではない。
十分でもない。
だが、
何もしなかった形にはならない。
それでいい。
扉を開ける。
廊下は変わらず長い。
灯りは遠い。
見張りの足音は、
まだ別の区画にある。
進める。
⸻
歩きながら、
彼女は腕の角度を調整する。
顔が見えない向き。
冷気が入り込まない向き。
揺れが最小になる向き。
答えはすぐに見つかる。
見つけたあとで、
なぜそれを知っていたのかを考える。
考えて、
やめる。
理由を持てば、
説明が必要になる。
いまは、いらない。
⸻
部屋へ戻る。
寝台は整ったまま、
彼女が抜け出した形を保っている。
子を下ろさない。
先に荷をまとめる。
準備は以前から進めていた。
持てる量。
目立たない色。
捨てても追跡にならない物。
確認する。
増やせない。
減らせる。
一つ、外す。
その空間に、
子を収める。
最初から
そこに置く予定だったみたいに。
⸻
静かだ。
不自然なほど、
何も起こらない。
腕の中で、
子は声を出さない。
目を閉じたまま、
胸だけが動く。
彼女は歩き出す。
夜明けまで、
まだ時間がある。
門の警備が
最も緩む刻限。
計算は、
何度もなぞった。
失敗すれば、
次はない。
それでも、
足は迷わない。
⸻
途中、
ふと足が止まる。
抱き直す。
外套の合わせがわずかに開き、
小さな顔が覗く。
閉じた瞼。
不規則な呼吸。
頼りないほど軽い重さ。
彼女は立ったまま、
しばらくそれを見ている。
覚えておく、
と思う。
次の角を曲がったあとも、
夜が終わったあとも、
もし腕の中が空になったとしても、
思い出せるように。
指先で布を寄せ、
覆いを深くする。
それから、
喉の奥で止めていた息を、
ほんの少しだけ外へ出す。
ごめんね。
声にはならない。
けれど、
それは確かに
彼女の内側から出ていった。
謝る理由は、
数えようとすればいくつもあった。
世界を選べなかったこと。
安全を用意できなかったこと。
名前を与えられなかったこと。
腕の中の温度が、
布越しに伝わってくる。
それだけは、
取り違えようがない。
もし、
この子が幸せになれる場所があるなら、
自分がそこにいなくても構わない。
彼女はそう考え、
外套の前を合わせ直す。
抱く力をゆるめないまま。
それは願いに近く、
同時に、
ここから先に進むための形でもあった。
彼女は歩き出す。
次の角へ。
まだ誰のものでもない朝へ。