第二章
母になるという裏切り(後編1)
夜明けは、容赦がなかった。
空の色が変わるより先に、
通りの奥で戸が開き、
水を撒く音が始まる。
パンを焼く匂いが立ち、
荷車の軋みが石畳を渡る。
人の世界が、
自分の都合とは関係なく
持ち場へ戻っていく。
エカテリーナは歩いた。
走らなかった。
腕の中で揺れる幅を、
これ以上大きくしたくなかった。
足を出すたび、
布の重なりを確かめる。
肘の角度を直す。
覆いがめくれていないかを見る。
指先に触れる温度。
小さく動く、胸の上下。
途切れながら続く呼吸。
規則正しくはない。
それでも、
止まってはいない。
いる。
ここにいる。
その確認だけが、
足取りを一定にした。
⸻
曲がり角を抜けたとき、
空気が変わる。
人の密度。
動く気配。
会話の断片。
振り向かなくても、
複数いることが分かる。
追われている。
誰に、
という区別は
もう役に立たない。
帝国でも、
阻止派でも、
ただの通行人でも。
見つかれば、終わる。
彼女は視線を下げ、
外套を深く合わせ、
歩幅を崩さないまま進路を変える。
細い路地へ入る。
石畳が濡れている。
朝の水だ。
滑る。
踏み直す。
腕の中を締める。
⸻
そのとき、
背後で何かが倒れる音がした。
木がぶつかり、
金属が跳ねる。
誰かの短い声。
反射で振り返る。
訓練ではない。
長年の生存の癖だった。
ほんの一瞬。
本当に、
一瞬だった。
⸻
視線を戻す。
腕が、軽い。
軽い、
という認識が、
理解より先に身体へ届く。
支えているはずの重さがない。
布の張りが違う。
抱き直そうとする。
空を掴む。
視線を落とす。
そこにあるはずの膨らみが、
形を失っている。
「……」
喉が動く。
音は出ない。
腕だけが、
さっきまでの形を繰り返す。
包む。
引き寄せる。
守る。
対象がないまま。
子はいなかった。
落としたのか、
奪われたのか。
どちらでも同じだった。
いま、ここにいない。
それだけが確定している。
⸻
止まることはできない。
路地の入口で、
誰かが叫ぶ。
指示か、
確認か、
区別はつかない。
足音が近づく。
ここに立っていれば、
次に処理されるのは
自分になる。
それが分かる。
エカテリーナは息を吸い、
腕を下ろし、
体の向きを変える。
足が出る。
自分の意思より先に。
⸻
一歩ごとに、
何かが擦れる。
胸の内側を、
粗い布で引かれるみたいに。
戻る、
という命令が何度も浮かぶ。
角を戻れば、
まだいるかもしれない。
拾えるかもしれない。
それでも、
身体は前へ出る。
生きていなければ、
探せない。
その順番だけが、
強く残る。
⸻
路地を抜け、
人の流れへ紛れる。
呼吸を整える。
腕を空に慣らす。
軽さに慣れさせる。
うまくいかない。
何度やっても、
次の瞬間には
抱き上げる形へ戻ってしまう。
彼女は指を握り込み、
形を壊す。
もう一度歩く。