ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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母になるという裏切り(後編1)

第二章

 

母になるという裏切り(後編1)

 

夜明けは、容赦がなかった。

 

空の色が変わるより先に、

通りの奥で戸が開き、

水を撒く音が始まる。

パンを焼く匂いが立ち、

荷車の軋みが石畳を渡る。

 

人の世界が、

自分の都合とは関係なく

持ち場へ戻っていく。

 

エカテリーナは歩いた。

 

走らなかった。

 

腕の中で揺れる幅を、

これ以上大きくしたくなかった。

 

足を出すたび、

布の重なりを確かめる。

肘の角度を直す。

覆いがめくれていないかを見る。

 

指先に触れる温度。

小さく動く、胸の上下。

途切れながら続く呼吸。

 

規則正しくはない。

それでも、

止まってはいない。

 

いる。

ここにいる。

 

その確認だけが、

足取りを一定にした。

 

⸻

 

曲がり角を抜けたとき、

空気が変わる。

 

人の密度。

動く気配。

会話の断片。

 

振り向かなくても、

複数いることが分かる。

 

追われている。

 

誰に、

という区別は

もう役に立たない。

 

帝国でも、

阻止派でも、

ただの通行人でも。

 

見つかれば、終わる。

 

彼女は視線を下げ、

外套を深く合わせ、

歩幅を崩さないまま進路を変える。

 

細い路地へ入る。

 

石畳が濡れている。

 

朝の水だ。

 

滑る。

 

踏み直す。

 

腕の中を締める。

 

⸻

 

そのとき、

背後で何かが倒れる音がした。

 

木がぶつかり、

金属が跳ねる。

 

誰かの短い声。

 

反射で振り返る。

 

訓練ではない。

長年の生存の癖だった。

 

ほんの一瞬。

 

本当に、

一瞬だった。

 

⸻

 

視線を戻す。

 

腕が、軽い。

 

軽い、

という認識が、

理解より先に身体へ届く。

 

支えているはずの重さがない。

 

布の張りが違う。

 

抱き直そうとする。

 

空を掴む。

 

視線を落とす。

 

そこにあるはずの膨らみが、

形を失っている。

 

「……」

 

喉が動く。

 

音は出ない。

 

腕だけが、

さっきまでの形を繰り返す。

 

包む。

引き寄せる。

守る。

 

対象がないまま。

 

子はいなかった。

 

落としたのか、

奪われたのか。

 

どちらでも同じだった。

 

いま、ここにいない。

 

それだけが確定している。

 

⸻

 

止まることはできない。

 

路地の入口で、

誰かが叫ぶ。

 

指示か、

確認か、

区別はつかない。

 

足音が近づく。

 

ここに立っていれば、

次に処理されるのは

自分になる。

 

それが分かる。

 

エカテリーナは息を吸い、

腕を下ろし、

体の向きを変える。

 

足が出る。

 

自分の意思より先に。

 

⸻

 

一歩ごとに、

何かが擦れる。

 

胸の内側を、

粗い布で引かれるみたいに。

 

戻る、

という命令が何度も浮かぶ。

 

角を戻れば、

まだいるかもしれない。

 

拾えるかもしれない。

 

それでも、

身体は前へ出る。

 

生きていなければ、

探せない。

 

その順番だけが、

強く残る。

 

⸻

 

路地を抜け、

人の流れへ紛れる。

 

呼吸を整える。

 

腕を空に慣らす。

 

軽さに慣れさせる。

 

うまくいかない。

 

何度やっても、

次の瞬間には

抱き上げる形へ戻ってしまう。

 

彼女は指を握り込み、

形を壊す。

 

もう一度歩く。

 

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