第二章
母になるという裏切り(後編2)
探した。
通りの端から端まで。
石段の影。
荷の下。
桶の裏。
視線が不自然にならない範囲で、
しかし一つも取りこぼさないように。
赤子を抱いていない腕が、
探すという動作に慣れない。
布をめくる。
箱を覗く。
戸口に立つ。
どれも違う。
違う、
という事実だけが増えていく。
⸻
孤児院を訪ねた。
正面からは入らない。
裏口で足を止め、
出入りする顔を読む。
新しい布。
増えた洗濯物。
運び込まれる籠。
変化があれば、
分かるはずだった。
だが、
いつもと同じ朝だった。
診療所へも行った。
忙しい時間を選び、
紛れる。
泣き声を数える。
どれも、
違う。
市場の裏で、
荷運びに尋ねる。
「赤ん坊を見なかったか」
目を合わせない。
名も出さない。
返事は曖昧で、
そして軽い。
「さあな」
「誰かが拾ったって話は聞いた」
「泣いてなかったらしい」
断片。
掴もうとすると、
指の隙間から落ちる。
⸻
阻止派の人間は言った。
「ヴィイは、もう我々の手の外だ」
机の向こうで、
書類を整えながら。
視線は上がらない。
「帝国が始末した可能性が高い」
その言葉が終わる前に、
椅子が鳴った。
エカテリーナは立っていた。
「違う」
それしか出てこない。
根拠も、
反証も、
持っていない。
ただ、
それを受け取る形だけは
どうしても選べなかった。
部屋の空気が固まる。
それでも、
訂正は入らない。
⸻
帝国側は言った。
「そんな子は、存在しない」
記録がない。
報告もない。
扱う必要がない。
淡々とした声だった。
その滑らかさが、
胸の奥を削る。
存在しない。
最初から、いなかった。
抱いた腕の記憶だけが、
どこにも提出できない証拠として残る。
⸻
日が落ちる。
探す場所が減る。
人が減る。
可能性が、
減っていく。
エカテリーナは
ようやく一人になる。
壁にもたれ、
座り込む。
両腕を見下ろす。
何もない。
それでも、
しばらくのあいだ、
下ろすことができない。
まだ、
そこにいる形のまま。
⸻
夜、
一人になって、
ようやく涙が落ちた。
声は出なかった。
喉が、拒んだ。
涙だけが、
静かに流れた。
抱けなかった時間。
名付けられなかったこと。
守れなかった瞬間。
何よりも、
嫌いになれない
その事実が、
彼女を壊しかけた。
奪われたのに。
何も返ってこないのに。
もう、母でいられないのに。
それでも、
あの重さを、
あの温度を、
忘れられない。
ヴィイと呼ばれようが、
不吉の象徴だと言われようが、
帝国に死をもたらす因果だと恐れられようが。
彼女にとっては、
ただ一度、
確かに腕の中にあった命だった。
それだけで、
十分すぎるほどだった。
⸻
涙が止まったあとも、
彼女は動かなかった。
夜気が冷え、
衣服が湿る。
それでも、
立ち上がる理由は
一つしか残っていない。
確かめる。
生きているかどうかを。
それ以外の言葉は、
役に立たない。
エカテリーナは
ようやく腕を下ろし、
壁に手をついて立ち上がる。
歩ける。
まだ。
⸻
その誓いが、
やがて帝国と阻止派、
両方を敵に回す選択へと
繋がっていくことを、
彼女はまだ、知らなかった。
阻止派内部文書
内部通達/抜粋
対象:英雄血統保持者
妊娠の可能性については
最大限の注意を払うこと。
帝国側が先に処理した場合、
我々は
「帝国が未来を恐れ、
可能性を殺した」
という構図を確立できる。
もし生存が確認された場合、
それは
帝国にとっての死の象徴となる。
仮称:ヴィイ