第三章 ヴィイという言葉が歩き出す(前編)
子を失った日から、
エカテリーナは二度、世界を見失った。
一度目は、
腕の中が空になった瞬間。
抱き上げ直そうとした動作だけが残り、
そこに戻ってくるはずの重さが、
いつまで待っても帰らなかったとき。
指は、確かに閉じた。
布を掴む形も作った。
けれど何も触れない。
触れないという事実だけが、
遅れて理解に追いついた。
二度目は、
その空白に、名前が与えられたときだった。
⸻
「ヴィイだ」
阻止派の男が、
確信に満ちた声で言った。
迷いの入る余地がない、
磨かれた響きだった。
机の上には地図が広げられ、
いくつもの印が置かれている。
赤、黒、灰。
どれも、
誰かの未来を決めるための色だった。
「帝国に死をもたらす存在。
英雄の血の、その先に生まれる呪いだ」
説明は短い。
覚えやすい。
すでに何度も、
別の場所で使われてきた言葉なのだろう。
周囲が頷く。
確認。
共有。
完了。
エカテリーナだけが、
その動きの外にいた。
⸻
彼女は、
その言葉を、理解しなかった。
理解したくなかった。
理解するとは、
受け取ったものを
自分の内側に置くということだ。
置き場を作れば、
そこに残る。
消えなくなる。
「……それは、人の名前?」
問いは、
かろうじて形になった息だった。
指先が机の縁を掴んでいる。
白くなる。
離れない。
男は答えない。
答える必要がない。
代わりに、
周囲がゆっくり頷く。
もう決まっている、
という合図。
ヴィイ。
ヴィイ。
ヴィイ。
音が繰り返される。
転がされ、
馴染まされ、
意味が固められていく。
⸻
彼女は思い出す。
暗がりの中で聞いた、
あの小さな泣き声。
喉の奥で擦れる、
途切れそうな空気。
指に触れた、
頼りない力。
握り返すというより、
そこにあることを確かめる動き。
爪も、
骨も、
まだ弱い。
それらと、
この言葉は、
どこにも接続しなかった。
橋がかからない。
どう試しても。
「違う」
そう言ったつもりだった。
けれど、
声は薄く、
会議の形を崩すほどの重さを持たなかった。
拾われない。
拾う理由が、
もうないから。
物語は、
先に完成している。
⸻
阻止派にとって、
ヴィイは便利だった。
帝国は、ヴィイを恐れている。
だから排除しようとした。
それは、帝国が再び滅びる兆しだ。
言葉が並ぶ。
流れができる。
机の上の空白が、
意味で埋まっていく。
そこには、
乳の匂いも、
体温も、
入り込む隙がない。
物語は整えられ、
言葉は磨かれ、
真実よりも、
扱いやすさが選ばれる。
⸻
エカテリーナは、
ただ座っていた。
席を立つ合図もない。
発言を求められることもない。
必要なのは、
彼女の記憶ではなく、
彼女の血だから。
会議は進む。
彼女だけが、
取り残される。