ヴィイは目を閉じている   作:5734589

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ヴィイという言葉が歩き出す(前編)

第三章 ヴィイという言葉が歩き出す(前編)

 

 

 

子を失った日から、

エカテリーナは二度、世界を見失った。

 

一度目は、

腕の中が空になった瞬間。

 

抱き上げ直そうとした動作だけが残り、

そこに戻ってくるはずの重さが、

いつまで待っても帰らなかったとき。

 

指は、確かに閉じた。

布を掴む形も作った。

けれど何も触れない。

 

触れないという事実だけが、

遅れて理解に追いついた。

 

二度目は、

その空白に、名前が与えられたときだった。

 

⸻

 

「ヴィイだ」

 

阻止派の男が、

確信に満ちた声で言った。

 

迷いの入る余地がない、

磨かれた響きだった。

 

机の上には地図が広げられ、

いくつもの印が置かれている。

赤、黒、灰。

 

どれも、

誰かの未来を決めるための色だった。

 

「帝国に死をもたらす存在。

 英雄の血の、その先に生まれる呪いだ」

 

説明は短い。

覚えやすい。

 

すでに何度も、

別の場所で使われてきた言葉なのだろう。

 

周囲が頷く。

 

確認。

共有。

完了。

 

エカテリーナだけが、

その動きの外にいた。

 

⸻

 

彼女は、

その言葉を、理解しなかった。

 

理解したくなかった。

 

理解するとは、

受け取ったものを

自分の内側に置くということだ。

 

置き場を作れば、

そこに残る。

 

消えなくなる。

 

「……それは、人の名前?」

 

問いは、

かろうじて形になった息だった。

 

指先が机の縁を掴んでいる。

白くなる。

離れない。

 

男は答えない。

答える必要がない。

 

代わりに、

周囲がゆっくり頷く。

 

もう決まっている、

という合図。

 

ヴィイ。

ヴィイ。

ヴィイ。

 

音が繰り返される。

 

転がされ、

馴染まされ、

意味が固められていく。

 

⸻

 

彼女は思い出す。

 

暗がりの中で聞いた、

あの小さな泣き声。

 

喉の奥で擦れる、

途切れそうな空気。

 

指に触れた、

頼りない力。

 

握り返すというより、

そこにあることを確かめる動き。

 

爪も、

骨も、

まだ弱い。

 

それらと、

この言葉は、

どこにも接続しなかった。

 

橋がかからない。

 

どう試しても。

 

「違う」

 

そう言ったつもりだった。

 

けれど、

声は薄く、

会議の形を崩すほどの重さを持たなかった。

 

拾われない。

 

拾う理由が、

もうないから。

 

物語は、

先に完成している。

 

⸻

 

阻止派にとって、

ヴィイは便利だった。

 

帝国は、ヴィイを恐れている。

だから排除しようとした。

それは、帝国が再び滅びる兆しだ。

 

言葉が並ぶ。

流れができる。

 

机の上の空白が、

意味で埋まっていく。

 

そこには、

乳の匂いも、

体温も、

入り込む隙がない。

 

物語は整えられ、

言葉は磨かれ、

真実よりも、

扱いやすさが選ばれる。

 

⸻

 

エカテリーナは、

ただ座っていた。

 

席を立つ合図もない。

発言を求められることもない。

 

必要なのは、

彼女の記憶ではなく、

彼女の血だから。

 

会議は進む。

 

彼女だけが、

取り残される。

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