五人の音が戻って一週間で、燈ちゃんはまた「二人で」と言った。
夏休みの入り口、公園のベンチ。蝉がうるさくて、言いにくいことほど少し声を張らないと届かない。
燈ちゃんはノートを抱えたまま、まっすぐこちらを見ていた。
「聞きたいことがある」
「うん」
「MyGO、入る?」
遠回しじゃなかった。
私は少しだけ息を止めて、それからゆっくり吐いた。考える時間はもういらなかった。答えは、五人が揃った夜にはほとんど決まっていた。
「ありがとう」
先にそう言う。
「誘ってくれて、うれしい」
燈ちゃんの目が少しだけ揺れる。
「でも、入らない」
断る声は、思ったより静かだった。
「MyGOは燈ちゃんたちの場所だよ。あの五人で戻った意味がある」
燈ちゃんはすぐには頷かなかった。拒否されたというより、受け取ろうとしている顔だった。
「私は、Echoliaを続けたい」
「…… Echolia」
「うん。燈ちゃんが返したい言葉に、私も返したい。あの形は、私の足で持っていたい」
そこでやっと、燈ちゃんが小さく頷いた。
「わかった」
少し間があってから、続ける。
「でも、Echoliaもやる」
「それは知ってる」
「MyGOも、Echoliaも」
「欲張りだね」
「……約束したから」
その言い方がおかしくて、私は少し笑った。
燈ちゃんは笑わない。こういうところだけ妙に本気だ。
「じゃあ、私も本気でやる」
「うん」
ここで終わるつもりだったのに、まだ胸の奥に残っているものがあった。
言うのは少し恥ずかしい。
でも、今なら逃げずに言える気がした。
口を開きかけて、一度だけ閉じた。蟬の声がちょうど大きくなって、自分の声がかき消されそうになる。少し声を張った。
「私、観客から返ってくる声のある場所に立ちたい」
言いながら、やっと形がはっきりする。
四歳の色紙にあったのは、ただのキラキラじゃなかった。光の前に立ちたいというより、呼んだら返ってくる場所へ立ちたかったのだと思う。コールでも、手拍子でも、たった一行を一緒に口にしてもらうだけでもいい。
「アイドル、やりたいんだと思う」
燈ちゃんが目を丸くした。
「アイドル」
「うん。夢、なんだと思う」
少しだけ間があった。
私は冗談っぽく笑って逃がす準備までしていた。いまさら何を言ってるんだろうとか、柄じゃないよねとか、そういう保険を口に出す寸前だった。
「私も、やる……」
肯定が早い。
「ほんとに?」
「初華ちゃんが……返ってくる場所に立ちたいなら」
それはもう、ほとんど祝福だった。
「びっくりしないんだ」
「びっくりした」
「どっち」
「びっくりしたけど……いいと思った」
その言い方がおかしくて、今度はちゃんと笑ってしまった。
「燈ちゃん、アイドル詳しくないでしょ」
「詳しくない」
「じゃあ、たぶん大変だよ。衣装とか、振りとか、客席の煽り方とか」
「うん」
「それでも?」
「初華ちゃんがやりたいなら、一生やりたい」
その返しは、ずるい。
見たいと言われると、やっぱりやりたくなる。
ポケットの中の石に触る。あの日もらってから、ずっと持ち歩いている小さな重さ。
「燈ちゃん」
「うん」
「石、まだ持ってるよ」
見せると、燈ちゃんが少しだけ笑った。
「よかった」
それだけで十分だった。
燈ちゃんは石から私の顔へ視線を戻して、それからもう一度だけ小さく頷いた。引き止めるためじゃなく、持っていてくれてよかったと自分にも言い聞かせるみたいな頷き方だった。
ベンチから立ち上がる時、燈ちゃんは一度だけこちらを見上げた。何か言い足したそうな顔をして、でも言わない。その代わり、ノートを抱え直す手つきが少しだけ軽かった。
*
燈ちゃんと別れたあと、ベンチに座ったまま母へ電話をかけた。
呼び出し音が二回。いつもより少し早く出る。
「もしもし」
「お母さん」
「うん」
「夏休み、一回帰る」
間があった。
「……うん」
前みたいな、ただの距離の音じゃなかった。何かを測って、まだ踏み込みすぎないようにしている返事だった。
「もう少し、東京にいる。詩船さんのところで」
「知ってる」
その一言に、少しだけ笑いそうになる。
「だよね」
「ごはん、ちゃんと食べてる?」
母から質問が返ってきたのが、思ったより効いた。
「食べてる」
「そう」
会話としてはそれだけだ。
でも十分だった。沈黙のかたちが、前よりやわらかい。
「今度、昔のベースの話、聞かせて」
母は少し黙ってから言った。
「覚えてたらね」
それは断り文句で、少しだけ了承でもある声だった。
「忘れててもいいよ。聞きたいだけだから」
電話の向こうで、ほんの少し息が変わった。笑ったのかもしれないし、困ったのかもしれない。どちらでもよかった。
「夏休み、帰ったらまた話す」
「……うん」
今度のうんは、前より少しだけ近かった。
電話を切る。通話画面が暗くなったあともしばらく、手の中の熱だけが残っていた。夕方の風が、公園の砂を少しだけ動かす。ベンチの背もたれに体重を預けた。風が首筋を通って、早起きの鳥が水場の端でちょこちょこ足踏みをしていた。ここにいる、と思った。電話を切ったあとのこの静けさが、前より少しだけ身近に感じられた。
*
帰り道、背中のアコギが軽く揺れる。
初華という名前のことを考えた。
初音は舞台の上でその名前を使い続けるだろう。私は私で、この身体ごとその名前を持って歩いていく。同じ音でも、指しているものはひとつじゃない。
名前は置いていくものじゃなかった。
持ち方を、自分で決め直すものだった。
問題は山積み、トップアイドルと同じ顔で同じ名前。
オーディションは絶望的に通らない。
それでも不思議なほど心が軽かった。
「いっそ、仮面でも被っちゃおうかな?」
冗談めかして呟きながら詩船さんの家の引き戸を開ける。
「ただいま」
奥から「おかえり」と返る。土間には楽奈の靴が転がっている。夕飯の匂いもする。靴を脱ぐ音。廊下の板が軽く軋む音。
台所で皿の当たる音がして、その向こうで楽奈ちゃんが何か食べながら笑っていた。そういう生活の音の中に自分の帰った声が混ざるのが、まだ少し不思議だった。でも、不思議のままでもいいと思った。
詩船さんが「手、洗っておいで」と台所から言う。楽奈ちゃんはたぶん返事の代わりに何かを咥えたまま笑っている。その雑さごと家の音になっていて、私はやっと靴を揃えるためにしゃがんだ。
部屋に戻ったら、弦を拭こうと思う。明日もまた、音を返すために。
これは、誰かの名前を取り戻す話じゃなかった。
呼ばれた時に、自分の声で返せるようになるまでの話だった。