とある雑居ビルにある榧守探偵事務所。その奥の陽の差さない一室に、ひとりの女が立っている。
年齢は判別しがたい。若い事は間違いないのだが少女とも取れる輪郭を持ちながら、その佇まいには時間という概念そのものが欠落していた。生きている人間に必ず伴うはずのわずかな焦燥や癖、呼吸に紐づく揺らぎが彼女には存在しない。
身に纏うのは、深い紺と黒を基調としたメイド服だった。
柔らかな布地ではない。光を鈍く反射するその生地は、磨き上げられた金属や石材に近い印象を与える。清掃のため、そして排除のために最適化された制服――それ以上でも、それ以下でもない。
白い前掛けと、硬質なレースのヘッドドレスだけが、かつて誰かに仕えていた名残のように残されている。装飾というよりも、それは役割を示す記号だった。
肌は異様なほど白い。血色というものが感じられず、指先に至るまで均一な滑らかさを保っている。まるで丁寧に手入れされた美術品のようで、触れれば冷たさを返してきそうだった。
瞳は澄んでいる。だが、そこに映るものに対して感情が結ばれることはない。人を見ても、物を見ても、その視線は等価だった。判断はあっても情は存在しないだろう。
短く整えられたボブカットの髪は、光のない部屋でも乱れを見せない。一本のずれも許されていないその様は、彼女自身が日常的に自分を“管理対象”として扱っていることを示していた。
腰元には、黄金の懐中時計が提げられている。それだけが、この空間で唯一、時間と関係を持つ物だった。彼女は動かない。しかし、止まっているわけでもない。そこに居るという事実そのものが、この事務所が今も機能していることの証明だった。
――
榧守探偵事務所の郵便受けは、今日も正確に七時三分を示す内部時計の直後に、微かな金属音を立てた。
音は小さく、控えめで、無遠慮な訪問者のそれではない。むしろ、この場所が許した者だけに与えられる、最低限の存在証明のような音だった。
常掃は、その音に振り向かない。彼女は今、廊下の床板を磨いている。古い木材は、光沢を帯びるほどに磨かれていながら、決して新しくはならない。その矛盾を、彼女は好んでいた。変わらないという事実は、維持される限りにおいて最も安定している。
箒の動きは一定で、迷いがない。空気の流れさえ計算されたように、塵が舞う前に回収されていく。しかし数秒後、彼女は郵便受けの前に立っていた。もし第三者が監視していても――或いは監視カメラがあったとしても、歩いた瞬間は映らない。ただ、そこに居た。
中にあったのは一枚のカード。
無地に近い厚紙に、最低限の情報だけが記されている。
座標。
時間。
そして、依頼主が勝手に付けたらしい、対象拠点の呼称。
感情は動かない。
評価もしない。
それは「読むべき情報」であって、「判断すべき事案」ではないからだ。
カードは、亡きこの「館」の主人の机の上に置かれた。
既にそこには、もう一通の封筒があった。
H.I.M――人類至上機構。
差出人は、カーティス・レイン。
常掃は封を切らない。封筒の位置、厚み、角度を確認し、机上の他の物品との相対誤差を補正する。机は主人が生前使っていた状態を、寸分違わず維持されている。
懐中時計を取り出す。
黄金の外装に、曇りはない。
蓋を開ける。
カチリ。
それは時刻確認のための動作ではない。
彼女にとってこの音は、契約が現在も有効であることの確認だ。
――清掃を開始する。
扉を開けた瞬間、外の世界は切り替わった。
雑居ビルの一室であるはずの空間は、静かに、しかし確実に「庭」――指定されていた座標へと接続される。常掃は「館」から「庭」に移動すると同時に「庭」であるそのビルの内部構造が“思い出す”事で「館」変化する。既にこのビルは依頼者が守護を依頼した大切なエリアという名の、常掃にとっての「館」だった。
侵入者は、すでに館の内部にいた。
数名。
武装あり。
動機は金か、恐怖か、あるいは愚かさ。
常掃は足を止めない。
最初の一人が、廊下の角を曲がった瞬間に姿を消した。
音はない。
血の匂いも、悲鳴もない。
ただ、壁紙の花模様が一つ、増えただけだ。
二人目は走った。扉に手をかけた瞬間、その扉は“元から存在しなかった”ことになった。彼の身体は慣性を失い、空間に縫い止められる。数秒後、天井から落ちた濃密な呪詛を纏ったシャンデリアの影が、彼を飲み込んだ。
残りは抵抗を選んだ。
発砲。
弾丸は、壁から伸びた無数の手に捕らえられ、音を立てることなく沈黙する。常掃はその間を歩き、箒を一振すると床に残った、かすかな熱と生体反応が消える。
数分後、館は再び沈黙に包まれた。
戦闘の痕跡はない。
汚れもない。
完璧だった。
常掃は廊下の中央で立ち止まり、床を一度だけ掃く。
それは必要のない動作だったが、必要でないからこそ行われる儀式だった。
その後
其処には、凄惨な戦いの跡など微塵も存在しない。一切の匂いが消え失せている。火薬の焦燥も、生命が尽きる瞬間の腐臭もない。ただ、冷徹な石材の感触と、過剰に施されたワックスの硬質な芳香だけが、鼻腔を突く。計測器が示すのは、狂気を感じさせるほどの「純潔」。 指紋、残留熱、そして生きた証。あらゆるデータが世界から抹消されている。その場所だけが歴史から切り離され、洗浄され、再び接合されたかのような不自然な「白」。
調査員の一人が、壁に掲げられた新しい肖像画に視線を止める。そこには、絶望に顔を歪めた男が、まるで生きているかのような質感で描かれている。その瞳には、未だ凍りついたままの恐怖が宿り、調査員を射抜く。 足元の絨毯は、吸い込んだ血を慈しむように微かに律動し、彼らの侵入を拒んでいるかのようだ。床に、唯一「異物」が残留していた。 敵リーダーが最期まで握りしめていた、幼い子供の写真が入ったペンダント。
調査員がそれを拾い上げようとした瞬間、音もなく背後に「彼女」が立っていた。
彼女の瞳に感情の揺らぎはない。彼女が箒の先で、その「未練」を優しくなぞる。その刹那、ペンダントは光の粒となって崩壊し、思い出もろとも消失した。 彼女にとって、個人の愛も、生きた証も、この完璧な聖域を乱すノイズに過ぎないのだ。
常掃は、生きた人間たちを風景の一部として無視し、廊下の深淵へと消えていく。残された者たちを襲うのは、自分の心臓の鼓動が暴力的に響くほどの、無機質な静寂。 彼らは自分たちの汚れた足跡が、この「完璧」を冒涜することを恐れ、逃げるようにその場を去る。
背後に残されたのは、主のいない、しかし狂おしいほどに手入れされた「理想郷」であった。
やがて「庭」から戻ったハウスキーパーは榧守事務所へと戻った。
窓の外では、裏社会が今日も騒がしく蠢いている。
彼女の視界に、それは入らない。
机に戻り、封筒を一通開ける。
カーティス・レインからの、礼儀正しい文面。
――理想は保たれた。
――管理費は振り込まれている。
――次の清掃も、期待している。
常掃は手紙を読み終えると、元の位置に戻す。
主人の椅子に、塵はない。
電子シーシャも、完璧な座標にある。
彼女はそれらを一つずつ確認し満足する。今日も、世界は清掃された。
懐中時計の蓋が閉じられる。
カチリ。
その音は、何も変わらなかったことを告げる、祝福の音だった。