パーフェクトディズ   作:P-PEN

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Day by day

 

 

 

 黄金の懐中時計が、冷徹な機序で「刻」を打つ。

 

 カチリ、という微かな金属音。それは、不浄を排した事務所に「異物」が接触したことを告げる警鐘であった。

 

 榧守探偵事務所の重厚な扉の前に、一人の男が立っていた。皺ひとつないビジネススーツ、不自然なほど左右対称な営業スマイル。男は、まるで物理的な浸食のように、常掃が展開する静寂の結界をすり抜けて一歩を踏み出した。

 

 「失礼いたします。榧守探偵事務所、常掃様でいらっしゃいますね? 突然の訪問、誠に恐縮でございます。私、民間祭具企業の営業を担当しております、鈴木佐藤(すずきさとう)と申します」

 

 常掃は、音もなくモダンデスクの前へ移動した。彼女の瞳には、感情の揺らぎはない。だが、目の前の男からは生の気配が一切しなかった。それは界異の禍々しさとも、魔神の悍ましさとも違う。ただ、人間という名の器の中に、「営業効率」という名の冷たいプログラムだけが詰まっているような、虚無の気配。

 

 常掃は、手に持った箒をわずかに傾ける。瞬間、男の足元の床面が鏡のような光沢を湛えた。触れた先から物質を分解する、無慈悲な拒絶の劇性の溶穢コーティング。

 

 「おっと、手厚い歓迎、痛み入ります! ですがご安心ください。本日は戦闘ではなく、常掃様の『より効率的なお掃除』をサポートする、画期的なソリューションのご提案に参りました」

 

 鈴木佐藤は、溶解し始める靴底など気にする様子もなく、懐から一枚のパンフレットを取り出した。常掃の邪視がその紙面を射抜く。本来ならば、そのパンフレットは瞬時に発火し、灰となるはずだった。

 

 だが、パンフレットは燃えない。男が持つ鞄から、微かな機械音が漏れる。《人体拡張式祭具:リスクアセスメント》。使用者が「死」に近づくほど、周囲の理を書き換える出力が跳ね上がる呪具が常掃の凶悪な邪視を弾いたのだ。しかしそれと引き換えに鈴木の心臓はすでに限界に近い負荷を負っているはずだが、その笑顔に汗ひとつ浮かばない。

 

 「弊社、新製品の《高密度魔力吸引式・自動塵取》でございます。常掃様のような、空間そのものを館として扱うプロフェッショナルの方にこそ、是非お試しいただきたい逸品で……」

 

 常掃は、一切の言葉を発しない。彼女にとって、この男は倒すべき敵ですらない。ただ、主人の事務所の美観を損なう、極めて「排除しにくい汚れ」だ。

 

 彼女が指先で壁を叩くと、潜ませていた壁の呪詛罠が発動。無数の白い手が鈴木の四肢を捕らえようと這い出した。

 

 「ああ、そちらの『捕獲性能』の実証データも素晴らしい。ですが、本日は少し“予算オーバー”のようです。次回の商談に影響が出ますので、本日はこれにて……」

 

 鈴木佐藤は、白い手がその首筋に触れる直前、何ら不自然な予備動作もなく、その場から「消えた」。物理的な移動でも、呪術的な転移でもない。まるで、最初からそこにいなかったかのように、あるいは「会議の時間になったから、そこにはいられない」という因果律が働いたかのように。

 

 常掃の懐中時計が、一際高く時を刻む。事務所には再び静寂が戻っていた。だが、主人の机の上には、一通のカタログと、男の靴底が溶けた際のものと思われる、不快なゴムの匂いだけが残されていた。

 

 常掃は、無機質な瞳でそのカタログを眺める。やがて、彼女はそれを事務的にシュレッダーへと差し込んだ。シュルシュルという裁断音。彼女は再び箒を手に取り、男の立ち去った場所を丹念に掃き清める。この聖域にあのような空虚な残り香は必要ない。

 

 一筋の埃も、彼女の「館」には存在してはならないのだから。

 

 

 

 

 黄金の懐中時計が、冷徹な機序で「刻」を打つ。

 

 カチリ、という微かな金属音。それは、呪術的汚染により物理法則が崩壊し、巨大な蛇の臓物めいた異界へと変貌した横浜駅を、常掃が管理する「館」の廊下として再定義する合図であった。

 

 駅の構内は、蛇神を奉るテロ組織《ラミア》の手によって、湿った鱗と粘液に覆われていた。壁面からは無数の蛇が這い出し、空気を震わせる不気味な声が響く。

 

 「……不完全な母を拒む地上の者よ。この地は間もなく、大いなる蛇の胎内となる」

 

 最奥に立つ儀式管理官、セラ・オルファンが金と赤の瞳を細め、呪詛を孕んだ声を放つ。彼女の背後では、新種族への進化を望む信徒たちが、もはや人間とは呼べぬ歪な身のこなしで常掃を包囲していた。

 

 常掃は、一切の言葉を発しない。彼女にとって、ここは主人の事務所へ続く「庭」の延長に過ぎない。 彼女が箒を一振りした瞬間、粘液に塗れた駅のタイルは、鏡面のように磨き抜かれた白磁の床へと上書きされた。強力な溶解液でコーティングされたかのようなその表面は、這い寄る蛇たちの腹を焼き、汚れとして床の隙間へ吸い込んでいく。

 

 「何……横浜駅を、掃除しているというの?」

 

 セラが驚愕に声を震わせる。常掃の視線が天井の配管を射抜いた。邪視により汚染した場所に即座に罠を具現化。突如実体化したシャンデリアが、蛇の巣を叩き潰しながら垂直に落下。さらに、天井の隙間からは豪雨のように長針が降り注ぎ、信徒たちの神経を事務的に固定していく。

 

 戦場に死と苦悶の声が満ちていく。その、生と死が交錯する極限の静寂の中に、あろうことか場違いな足音が響いた。

 

 「失礼いたします、常掃様! お忙しいところ失礼とは存じますが、あまりに素晴らしい実演中でしたので、ついお声がけしてしまいました!」

 

 鱗と血に塗れた戦場を、新品の革靴で軽やかに踏みしめ、鈴木佐藤が姿を現した。彼は深く刻まれた営業スマイルを崩さず、セラ・オルファンの呪詛も、常掃が放つ重力圧も、まるで「悪天候」程度にしか感じていない様子で近づいてくる。

 

 「前回のサンプル、《高密度魔力吸引式・自動塵取》の使い心地はいかがでしたか? 本日は、こちらの蛇人の方々のような『粘着質の汚れ』に特化した新製品、《携行量産呪具キット:パワーポイント》のデモに参りました」

 

 常掃は、一切の言葉を発しない。だが、その瞳には「また現れたか」という無機質な拒絶が宿る。彼女は掃除を続行すべく、背後から襲いかかる信徒たちへ冷徹な視線を向けた。その刹那、物理的な衝撃を伴わない「絶対的な重圧」が頭上から叩きつけられた。それは巨大な鉄槌が落ちるような圧殺ではない。天井そのものが消失し、代わりに無限の重力そのものが標的を床へと縫い付ける、不可避の質量攻撃であった。

 

 信徒たちの骨が悲鳴を上げ、彼らの肉体は塵になるまで床に圧縮されていく。常掃は、その阿鼻叫喚に目もくれず、鈴木佐藤を徹底的に「風景の一部」として無視しながら、優雅に箒を振るった。

 

 「あ、常掃様、そちらの『剥製の肖像』による壁面収納も素晴らしいですが、弊社のUSBを……スッ(信徒の首筋に刺す音)。このように、スライドをめくる感覚で呪詛耐性を削れば、よりスムーズな『廃棄』が可能でございます」

 

 鈴木は笑顔のまま、常掃が仕留め損ねた信徒にUSB型呪具を突き刺し、データの処理でもするかのように無力化していく。

 

 「貴様……誰だ!? 私の『血誓の環』を無視するとは……!」

 

 セラが逆上し、蛇視の魅惑を鈴木に放つ。だが、鈴木はカタログを捲りながら、事務的に答えた。

 

 「あ、申し訳ございません。私は現在、こちらの常掃様との『商談中』でして。他社様への割り込みは、弊社のコンプライアンスに抵触いたしますので、どうかご遠慮いただけますでしょうか」

 

 鈴木の胸元で《祓力骨格スーツ:OVERWORK-01》が激しく脈動し、セラの魅惑を業務外の雑音として完全に遮断する。

 

 常掃は、このままでは清掃が「営業妨害」によって遅延すると判断した。彼女の背で、魔神の刻印が冷たく脈動し、事務所の美学を冒涜するすべての「ノイズ」を消去するための計算が完了する。

 

 彼女は、手に持った箒を大きく一閃させた。それは物理的な打撃を目的とした動作ではない。その穂先が描いた軌跡に沿って、世界の色彩が剥離し、音さえも吸い込まれる虚空の領域が展開された。対象は、もはや這いずる蛇人たちも、不敵に笑う営業マンも区別しない。

 

 その一撃に触れることは、単なる死を意味しない。存在したという記憶、刻んできた歴史、その全てを世界から掃き出す。彼女が歩んだ後には、床も壁も空気すら存在しない完全な空白だけが残される。彼女は、ただ一振りの「クリーナー」となって、目の前の不愉快な光景を、座標ごと修正しようとしていた。

 

 「おっと、本日はこれにて失礼させていただきます! 常掃様、こちらの試供品、後ほど事務所へお届けしておきますね。やはり“ギリギリ”の現場こそ営業の醍醐味です……では、失礼!」

 

 鈴木佐藤は、常掃の一撃が放たれるコンマ数秒前、因果律の隙間へ滑り込むように消失した。後に残されたのは、常掃によって完全に掃き清められ、白磁の静寂を取り戻した横浜駅の廃墟。そして、恐怖に顔を歪めたまま壁の肖像画となった呪詛テロリストたちの姿。

 

 常掃は、黄金の懐中時計をカチリと閉じた。彼女は乱れた襟元を整え、あの男が落としていった「新製品のチラシ」を無表情に踏み抜くと、影の中へと消えていった。

 

 

 

 黄金の懐中時計が、冷徹な機序で「刻」を打つ。

 

 カチリ、という微かな金属音。それは、蛇神の粘液に塗れた横浜駅という名の「汚れ」をすべて掃き出し、事務所の絶対的な静寂へと帰還した合図であった。

 

 常掃は、主人の机に一礼し、いつものように室内を点検する。すると、そこには本来あるはずのない「ノイズ」が紛れ込んでいた。

 

 主人の机の端。そこには一枚の複写式の紙と、丁寧に梱包された小さな箱が置かれている。紙の最上部には「ご不在連絡票」という、これまた場違いな事務的文言。備考欄には、あの歪なほど整った筆跡でこう記されていた。

 

 『先日は商談のお時間をいただき、誠に光栄でございました。横浜駅のような“湿度の高い現場”でのアフターケアに最適な、弊社最新の試供品を同梱いたします。 もちろん、デモ用ですので請求は発生いたしません。ご安心ください。 ――鈴木佐藤』

 

 常掃の瞳に、わずかな温度の低下が宿る。彼女はこの男を「廃棄すべきゴミ」と認識しているが、男が残していく痕跡は、彼女の防衛網を巧妙な「営業の道理」で潜り抜けてくる。

 

 彼女は無機質な動作で箱を開封した。中から現れたのは、淡いブルーの繊維で編まれた、一点の曇りもない清潔なクロス。ちょうどその時、彼女のメイド服の袖口には、先ほどの戦いで浴びた蛇の界異たちの粘液――通常の洗剤では決して落ちず、因果律にまでこびりつく呪いの汚濁が、一滴だけシミとなって残っていた。

 

 常掃は一瞬、逡巡するように懐中時計に指をかけた。常掃は無言のまま、その魔法のクロスとやらを手に取り、袖口のシミを軽く撫でた。

 

 ――劇的であった。触れた瞬間、ドロリとした蛇の執念が、まるで最初から存在しなかったかのように吸い上げられ、跡形もなく消え去った。因果を焼き切る強力な「乾燥加護」が、繊維から放たれている。

 

 常掃は、動きを止めた。数秒、沈黙。彼女はもう一度、今度は机の上にわずかに残っていた古いインクの跡を、そのクロスでなぞってみた。

 

 ……消える。魔法のように、完璧に。

 

 常掃は、一切の表情を変えない。だが、彼女はそのクロスを手に持ったまま、事務所のあらゆる場所を「点検」し始めた。窓枠の隅、本棚の隙間、主人の椅子の脚。彼女が動くたび、目に見えないほどの微細な汚れまでもが、その布一枚によって吸い尽くされていく。

 

 数分後。事務所は、これまでの彼女の「清掃」をさらに一段階上回る、異常なまでの輝きを放っていた。

 

 常掃は満足げに(といっても、眉一つ動かさぬまま)、そのクロスを丁寧に折り畳んだ。そして、自分用の机の横、一番奥にある整理整頓用ボックスへと、それを事務的に収納した。

 

 「…………」

 

 彼女は再び、黄金の懐中時計を確認する。男のことは依然として「ゴミ」だと思っている。だが、ゴミが持ってきた道具には罪がない。彼女は主人の遺影に向かって、今日一番の深い一礼をした。その背後で、鏡のように磨き上げられた事務所が、月明かりを反射して静かに、あまりに静かに輝いていた。

 

 

 

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