おにまい曇らせ(仮) 作:Unus negotiator
ひとしきり泣いて、ようやく二人が落ち着いたところで、場所をダイニングに移し、改めて話をすることにした。
「お茶を用意するから、少し待っていてね」
二人をまひろに会わせようと提案したまつりは、話の輪には加わらず、キッチンへ向かった。
途中、床に置かれたままだった紙袋を拾い上げる。
「せっかくだから、これも一緒にいただきましょうね」
「あっ、そうだ、すみません。落としちゃって」
もみじが慌てて手を伸ばすと、まつりは微笑んで首を振った。
「大丈夫よ。ありがとう」
まひろとみはりが並び、その向かいにもみじとかえでが腰を下ろす。
もみじの目元には、まだ少し赤みが残っていた。
まひろと目が合うと、少し照れたように笑みを浮かべる。
まひろもつられて口元を緩めたところで、かえでが口を開いた。
「ねえ、みはり」
呼ばれて、みはりが顔を上げる。
「今のまひろちゃんに会わせてくれたってことは……何があったのか、ちゃんと話してもらえるってことでいいんだよね?」
声は穏やかだった。
かえではそれ以上言葉を重ねず、みはりが口を開くのを待った。
「……それは……」
みはりは一度、隣のまひろへ目を向けた。
かえでに視線を戻しても、すぐには言葉が続かなかった。
「えっと……」
隣から声が上がり、みはりはまひろへ顔を向けた。
まひろは一度みはりを見てから、ためらいがちにかえでへ目を向けた。
「かえでちゃん。そのことなんだけど……オレから話してもいいかな」
「まひろちゃんから?」
「うん。その……自分のことだし。どこから話せばいいのか、ちょっと分かんないけど……」
言いながら、落ち着かない様子で指先をこすり合わせる。
かえでは少し間を置いて、頷いた。
「うん、わかった。聞かせてほしい」
まひろは椅子を引き、おずおずと立ち上がった。
「じゃあ、まず……改めて、今まで黙ってて、本当にごめんなさい」
そう言って、二人に向かって深く頭を下げる。
「……うん。謝ってくれてありがとう。でも、そんなにかしこまらなくていいよ。ちゃんと聞くから」
かえでにそう言われ、まひろは顔を上げて小さく頷いた。
椅子に座り直し、膝の上で両手を重ねる。
一度二人を見てから、言葉を探すように視線を落とす。
「オレ、女の子になる前から、ずっと家に引きこもってたんだ。みはりは、そんなオレを何とかしようとしてくれて……」
そこから、まひろはぽつぽつと話し始めた。
大学受験に失敗したのがきっかけで、家に閉じこもるようになったこと。
外へ出ることも、人と会うこともできず、身の回りのことまでみはりに頼りきりで過ごしていたこと。
みはりの作った薬で女の子になり、それまでとはまるで違う生活が始まったこと。
戸惑うことばかりだったけれど、かえでやもみじに出会い、学校へ通うようになって、いつの間にか毎日が楽しくなっていた。
けれど、女の子でなくなったら、また一人になってしまうのではないか。
そんな不安を誰にも言えずにいるうちに、文化祭でのあの失敗をきっかけに、また部屋から出られなくなってしまったこと。
もみじがこうした事情を聞くのは、もちろん初めてだった。
一緒に過ごしていた頃も、まひろがそんな不安を抱えていたとは、思いもしなかった。
もみじはかえでとともに黙って耳を傾け、その言葉を一つひとつ受け止めていた。
まひろの話は、やがて事故のことへと移った。
頭を打って記憶を失い、家で療養しているうちに身体まで今のような小さな男の子の姿に変わってしまった。
身体の変化については、みはりが言葉を補った。
男の子の姿には戻っているものの、本来なら、まだ薬の効果が切れる時期ではないのだという。
TS薬による変化後の姿は、本人がもっとも充足していたと感じる時期の年齢に引っ張られる傾向がある。
今回は、薬の作用が残っているところに事故による記憶の退行が重なり、身体まで幼い頃の姿へ引っ張られたのではないかと、みはりは考えているらしい。
ただ、臨床例はまだ少なく、はっきりしたことは分からない。
今は、記憶の回復とともに身体にも変化があるか、経過を見ているところなのだそうだ。
「記憶の方は……少しずつ戻ってきて、二、三日前に、ようやくはっきり思い出せたんだ。みんなと一緒にいたことも、ちゃんと覚えてるよ」
「……じゃあ、病院で会ったときは」
もみじの声に、まひろは顔を上げた。
「あのときは、本当に分かんなくて……ごめんね。せっかく来てくれたのに」
「ううん」
もみじは小さく首を振った。
「今、思い出してくれたなら、それでいいんだよ」
そう答えながらも、胸の奥がきゅっと締めつけられた。あのとき、どれだけ悲しかったか。自分のことを忘れられていたと知った瞬間の寂しさは、今でも消えていない。
それでも、こうしてまた思い出してもらえたことが嬉しかった。失ったと思っていたものを、もう一度取り戻せたことへの安堵で、また涙がこぼれそうになる。
まひろは目を伏せ、小さく頷いてから、話を続けた。
自分がどれほど何もできずにいたか。
みはりが、どれほど心配してくれていたか。
みはりが隣から「お兄ちゃん……」「それは……」と、何か言いかけることもあった。
けれど、そのたびにまひろは曖昧な笑みを返し、そのまま話を続けてしまう。
「……だいたい、そんな感じ、かな」
ようやく顔を上げたまひろに、かえではすぐには答えなかった。
やがて、背もたれに少し身体を預ける。
「そっかぁ……」
息と一緒に、言葉がこぼれた。
「まさか、まひろちゃんがみはりのお兄さんだったなんてねぇ。お兄さんがいるってことは知ってたけど、名前すら知らなかったのに……もう、とっくに会ってたんだね」
「そういえば……」
もみじが、ふとまひろを見る。
「まひろちゃんの、本当のお名前って?」
「いや、名前は同じなんだけど……」
「そうなの?」
「うん。漢字で真実の『真』に尋ねるっていう字の『尋』で……真尋」
もみじは、指先でテーブルの上にその字をなぞった。
「……真尋」
一度、小さく口にしてみる。
「なんだか、漢字にするとちょっとイメージが変わるね」
「ま、まぁ、オレにしてみれば、ずっとこの名前なんだけどな……」
「ふふ。でも、同じでよかった」
「えっ?」
「これからも、まひろちゃんって呼べるから」
まひろは一瞬きょとんとして、それから少しだけ照れたように頷いた。
「……うん。オレも、もうその呼ばれ方にすっかり馴染んじゃったしな」
もみじは嬉しそうに笑った。
けれど、しばらくすると、何か考えるように視線を落とした。
「……私たち、知らないうちに困らせてたことも、あったのかな」
「え?」
「ずっと、女の子同士だと思ってたから……」
もみじは、これまで一緒に過ごしてきた時間を思い返した。
自分たちには何でもないことでも、まひろには、そうではなかったのかもしれない。
「……今思うと、まひろちゃん、着替えのときとかも気を遣ってくれてたんだね」
「着替え?」
「うん。みんなの方を見ないようにしてたでしょう。お泊まりしたときも、私たちと一緒にはお風呂に入らなかったし」
「ああ……うん、まあ」
まひろの目が、落ち着きなく泳ぐ。
「いや、その……みんな、知らないわけだし。さすがに、それは……」
そこで、かえでが首を傾げた。
「……あれ?」
まひろの肩がぴくりと動く。
「でも、温泉に行ったときは、私とも普通に一緒に入ってたよね?」
「…………」
「私、がっつり見られてたかも」
まひろは何も答えず、そろそろと俯いた。
耳まで真っ赤だった。
「……まひろちゃん?」
もみじまで、こちらを向く。
元々小さいのに、まひろはますます小さくなっていった。
「いや、あのときは、その……」
「はいはい。今さら、そこを責めたりしないって」
かえでは苦笑して、軽く手を振った。
まひろが露骨にほっとしたので、もみじもつい吹き出してしまう。
その小さな笑いにつられるように、みはりの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
かえではそれを見てから、改めてみはりに向き直った。
「あのさ。なんでもかんでも全部教えてほしかった、なんて言うつもりはないんだよ。こんなの急に聞かされても、たぶん私も困っただろうし」
「……うん」
「でも今回、学校に来られなくなって……その上、事故で記憶までなくなって。私も、もみじも、あさひやみよちゃんだって……みんな、ずっと心配してたんだよ」
みはりは膝の上で手を重ね、頭を下げた。
「そうだね……それは本当に、ごめんなさい」
「うん。もう少しだけでも、様子を教えてほしかった」
「……ごめん。それは、オレも」
まひろまで頭を下げかけると、かえでは困ったように笑った。
「二人して、そんなに小さくならないでよ。今日はちゃんと会えたんだし、話してくれて、ありがとう」
もみじも、隣で頷いていた。
そこへ、トレイを持ったまつりが戻ってきた。
「お待たせ。お菓子も、お皿に出させてもらったわ」
カップが、一人ずつの前に置かれていく。
真ん中に菓子の皿を置くと、まつりはトレイを脇へ寄せた。
そのまま席にはつかず、二人を見る。
「……私からも、謝らせてね」
かえでともみじが顔を上げる。
「二人のことで、ずっと心配をかけてしまって、本当にごめんなさい」
まつりは一度、まひろとみはりへ目を向けた。
「かえでちゃんには、あの日もみはりちゃんのそばにいてもらって……もみじちゃんも、つらい思いをしたのに、ずっとまひろくんを待っていてくれたのね」
「そんな、私たちは……」
「親として情けないけれど、私が気づけなかったところで、あなたたちや他のお友達も、まひろくんを支えてくれていたのね。本当に、ありがとう」
かえでは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「本当は、あさひちゃんやみよちゃんにも、きちんと会ってお礼を言いたいのだけれど……まだ、これからのことも決まっていなくて」
まつりは、二人へ視線を戻した。
「まひろくんに、こんなに気にかけてくれるお友達がいてくれて……本当に、ありがたいと思っているの。これからも、二人の友達でいてもらえたら、うれしいです。どうか、よろしくお願いします」
まつりは丁寧に頭を下げた。
かえでともみじは、慌てて顔を見合わせる。
「あ、あの、頭を上げてください。こちらこそ、ですから」
「私も……これからもずっと、まひろちゃんと一緒にいたいです」
もみじがそう答えると、まつりは顔を上げ、目元を和らげた。
「……ありがとう」
まひろは両手でカップを包み、湯気の向こうで、また少し目を赤くしていた。
しばらくは、誰も何も言わずにお茶を飲んだ。
「……もみじ」
「ん?」
かえでに呼ばれ、もみじが顔を上げる。
「ちょっと、まひろちゃんと二階に行っててくれる?」
「え?」
「オレも?」
「うん。ちょっと、みはりと話したいことがあるんだ」
まひろの視線が、隣へ動いた。
みはりは一度だけまひろを見て、小さく頷く。
「……大丈夫だよ。お兄ちゃんは、もみじちゃんとお話してきて」
「でも……」
「久しぶりなんだし、二人で話したいこともあるでしょう?」
かえでにそう言われ、まひろは少し迷ってから椅子を引いた。
もみじも立ち上がり、まひろの隣へ回る。
「じゃあ……行こうか、まひろちゃん」
二人が階段を上がっていく。
その足音が遠ざかると、まつりはトレイを手に取った。
「私は片付けを済ませたら、少し席を外すわね」
みはりが顔を上げる。
まつりはその顔を見てから、かえでへ目を向けた。
「お茶のおかわりが欲しくなったら、呼んでね」
「ありがとうございます」
まつりが食器を下げて部屋を出るまで、かえでは口を開かなかった。
二人になったテーブルには、さっきまでとは違う静けさがあった。
◇◆◇◆◇◆◇
階段を上がり切ったところで、まひろは少し心配そうに階下を振り返った。
ダイニングからは、まだ声が聞こえない。
「……かえでちゃん、みはりに何の話だろ」
「う~ん、なんだろうね。でも、おねえちゃんとみはりさんだし、きっと大丈夫だよ」
もみじはそう答えたが、まひろは曖昧に頷くだけだった。
自分があんな話をしたあとだ。
かえでがみはりに確かめたいことは、ひとつやふたつではないだろう。
部屋の前に着くと、まひろはドアノブに手をかけた。
「散らかってるけど、入って」
「うん。お邪魔します」
まひろはクッションを置き、もうひとつを自分の方へ引き寄せた。
もみじは座る前に、部屋の中をゆっくり見回す。
「この部屋、前はよく来てたのにね」
「うん」
「なんだか、すごく久しぶり」
「……そうだな」
机も本棚も、並んだゲームや漫画も、前とほとんど変わっていない。
もみじはしばらく部屋を眺めてから、まひろの正面に座った。
何か話そうとしたが、すぐには言葉が見つからなかった。
ふと、モニターの横に置かれたゲームのケースに目が留まる。
「ねえ。これ、前に一緒にやったやつだよね?」
「ああ。途中のデータ、まだ残ってると思うぞ」
「そっか。また一緒にできるね」
「……うん」
会話がそこで、いちど途切れた。
以前なら、何を話そうかなんて考えなくても、次から次へと他愛のない話が続いていた。
けれど今日は、二人とも次の言葉がなかなか出てこない。
もみじがふと本棚の方を振り返り、まひろもつられてそちらを見た。
「あっ、そういえば」
もみじが顔を向ける。
「前にここを片付けたとき、その……えっちな本、あったでしょう?」
「ぶっ……!げほっ、げほっ!」
まひろは何も飲んでいないのに、むせた。
「ちょっ、な、何で今その話になるんだよ」
「ごめん。ここに来たら、急に思い出しちゃって」
もみじは少し頬を赤くして、言いにくそうに続けた。
「あのとき、まひろちゃん、お兄さんの本だって言ってたよね」
「……言った、かな」
「言ってたよ」
まひろは本棚から目を逸らした。
「でも、本当はまひろちゃんのだったんだね」
もみじは少し間を置いて、何気ない調子で続けた。
けれど、その目は心なしか、ジトっと半眼になっているように見えた。
「……あれは、その……」
言い訳を探すうちに、頭の中であの日の光景が蘇ってきた。
もみじが片付けを手伝ってくれて、泣く泣く戦友たちに別れを告げた悲しい記憶。
まさか今になって、このタイミングで蒸し返されるとは思ってもみなかった。
「ち、違うんだ。いや、オレのなのは違わないけど、あれは男の性と言うか、なんと言うか……」
もみじは少し頬を赤くしながらも、俯いて小さくなっているまひろを見て、つい口元を緩めた。
「……そのかわいい見た目で、男の性とか言われても」
「いっ、いま見た目は関係ないだろ!」
「うん。そうなんだけど……ふふっ。 私、びっくりしたんだよ。表紙の女の子が、その……縄で縛られてて……」
「お願いだから、もうその話は広げないでぇ……!オレが悪かったからぁ……!」
まひろは両手で顔を覆った。
頭の中がぐるぐるして、もう何をどう弁解すればいいのか分からない。
もみじはきょとんとしていたが、やがて堪えきれずに吹き出した。
「ご、ごめんね。そんなに困らせるつもりじゃ……ふふっ」
「もう勘弁して……」
まひろは顔から手を下ろし、恨めしそうにもみじを見た。
もみじは口元を押さえたが、目が合うと、また笑ってしまう。
そのうち、まひろまでおかしくなってきた。
「……もう。何でよりによって、そんなのを思い出すかなぁ。ほかにも色々あっただろ。漫画貸したとか、みんなでゲームしたとか」
「うん……いろいろあったよね」
もみじが笑いながら頷いた。
いつの間にか、さっきまでのぎこちなさは消えていた。
もみじが笑って、つられて自分も笑う。
この部屋で何度も過ごした、あの頃に戻った気がした。
ひとしきり笑ったあと、もみじは目元を指で拭った。
まだ笑みを残したまま、もみじは膝の上へ手を戻した。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
今度の沈黙は、それほど居心地が悪くなかった。
「……ねえ、まひろちゃん」
「ん?」
「また、こんな風に遊びに来てもいい?」
「もちろん」
すぐに答えると、もみじはほっとしたように笑った。
けれど、何か言いかけて、一度口を閉じる。
「……どうした?」
「ううん。その……まひろちゃんは、これからも、ここにいるのかなって」
まひろは、すぐには答えなかった。
もみじが慌てて言葉を足す。
「あ、まだ決まってないって言ってたよね。ごめん」
「いや……うん。まだ、ちゃんとは決めてないんだけど」
まひろは膝を抱え、言葉を探すように視線を落とした。
母と二人で別の家に移る話が出たときには、みはりのことばかり気になっていた。
自分がいなくなったら、みはりはどうなるのだろう。
そう思う一方で、では自分はどうしたいのかと聞かれると、うまく答えられなかった。
けれど今日、もみじたちに会ってから、何度も考えていることがあった。
「……オレさ。ずっと、自分のことばっかりだったんだなって」
もみじは黙って、まひろを見た。
「何もできないとか、誰にも必要とされてないとか、そんなことばっか考えて……自分で決めつけてたんだ」
「……うん」
「それで勝手に離れて、一人になって。やっぱりオレには誰もいないんだって思ってた」
口にしてみると、情けなくて少し笑ってしまった。
もみじは笑わなかった。
「女の子になってからも、そうだったんだと思う。みんなが仲良くしてくれるのは、この姿だからなんだって。元に戻ったら、もう終わりだって」
まひろは顔を上げた。
「でも、もみじは来てくれたし、男に戻ったオレを見ても、こうやって変わらずにいてくれた。かえでちゃんも、あんなに心配してくれてた。それにきっと、あさひやみよちゃんたちも……」
もみじの唇が、何か言おうとして動いた。
まひろはその顔を見て、ゆっくりと言葉を続ける。
「……前のオレにも、いたのかもしれないな」
「前?」
「女の子になる前。自分がダメな奴で、何もできないって思ってた頃にも……ちゃんと話してたら、オレを見てくれる人は、いたのかもしれない」
そんなことを考えたのは、久しぶりだった。
思い返すことさえ嫌だった時期にも、声をかけてくれた人はいた。
自分が返事をしなくなって、それきりになった相手も。
「もっと普通にしてればよかったのかな。駄目なところがあっても、オレはオレなんだって、格好つけずに、そのままの自分でいればよかった」
まひろは少しだけ口元を緩めた。
「みんなにどう見られるかばかり気にして……そのくせ、その人が何を思ってるかなんて、全然考えてもいなかった」
膝を抱いていた腕をほどく。
「オレの方から、何かしてあげられないかな、とかさ。そういうことも、余裕が無くて考えられなかった」
「でも、まひろちゃん。私たちには、いろいろしてくれたよ」
「……うん」
今度は、そんなことはないと言わずに頷けた。
「みんなと一緒にいるうちに、少しはできるようになったのかも。でも、怖くなると、また自分のことしか見えなくなって……心配してくれてることも、分かんなくなった」
まひろの声は穏やかだった。
さっきまで本の話で慌てていた顔も、今は落ち着いている。
「自分のことばっか考えて、みんなの気持ちまで勝手に決めつけて……それで怖くなって逃げるのも、もうやめたい」
「……うん」
「みはりにも、母さんにも、ずっと甘えてきたし。そこは、ちゃんとけじめをつけなくちゃって思ってる」
もみじの指が止まった。
まひろは、少し遠くへ視線を向けていた。
ふいに大人びたその表情に、もみじは言葉を失った。
すぐ目の前にいるのに、自分の知らないところへ、一人で行ってしまいそうな気がした。
「まひろちゃん!」
もみじは身を乗り出し、まひろの手を握っていた。
「……どこか、遠くに行ったりしないよね?」
「え……」
まひろが戸惑うように視線を落とす。
「あのね。まひろちゃんが自分で考えて決めたことなら、私、反対しないよ。ちゃんと応援したいと思ってる」
言いながら、少しだけ声を落とす。
「でも……また何も言わないで、いなくなっちゃうのだけは、やめてね」
「もみじ……」
「学校に来なくなって、連絡しても返事がなくて。何があったのかも分からなくて……」
病院で会ったときのことが、頭をよぎった。
こちらを見ているのに、自分のことを知らないまひろの顔。
もみじは一度、唇を結んだ。
目に滲んできた涙をこらえるように、瞬きをする。
「……やっと、またこうして会えたんだから」
まひろは、何も言えなくなった。
「だから、約束して。何か決めたなら、必ず私にも教えて」
「……うん。分かった」
「絶対だよ?」
もみじは潤んだ目で、じっとまひろを見つめた。
その目が少しずつ据わっていく。
「また黙っていなくなったら、今度は許さないからね」
「お、おう……」
「どこに行っても絶対に見つけるから。まひろちゃんに会えるまで、探すのやめないよ?」
まひろは、わずかに身を引いた。
手はまだ、しっかりと掴まれている。
「だ、大丈夫。ちゃんと言うから。約束する」
もみじはしばらくまひろを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
ようやく指がほどけた。
まひろは解放された小さな手を見て、そっと息を吐く。
もみじは膝の上に手を戻し、改めてまひろを見た。
さっきの大人びた表情は、もう消えている。
少し困ったように眉を下げて、こちらの様子を窺う顔。
「……ごめんね。ちょっと、むきになっちゃった」
「ううん……それだけ心配かけたってことだよな」
まひろは一度視線を落としてから、もみじを見た。
「ちゃんと話すよ。まだ、うまく言えないこともあるけど」
「うん。待ってるね」
もみじが柔らかく微笑むと、まひろもようやく口元を緩めた。
それからは、他愛のない話が自然と続いた。
話したいことは、まだいくつもあって、次の言葉を探して困ることは、もうなかった。