犬飼はあの女に殴られた頬に手を置いた。そうして上から持ち出した保冷剤で冷やす。ここはボーダーの医務室。隊員は換装体で基本怪我は負わないが、何かあったときのために作られてある場所だ。そこで犬飼は一人、椅子に座ってぼうっとしていた。
殴られた頬がじんじんと火傷をしているかのように痛む。あの女、全力で殴りやがった。補佐は小柄な体格をしているため、そんなに痛くないかと思いきや、こちらを確実に痛めつける腰が入った重い打撃があった。何か頬に腫れ上がる前触れのような感触があり、顔を顰める。
あの殴られる直前、そもそも重心を指摘された時点で俺は退くべきだった。そう考えて手を、目を隠すように上に置いた。
*
犬飼と彼女は新しく開発された銃型トリガーの訓練で出会った。犬飼がC級の時、訓練場に司令官補佐が来て銃型トリガーの使い方を伝授してくれる、という機会があった。犬飼はこれ幸いと思い当時参加したのを覚えている。
幾人もいる訓練生を司令官補佐は、何を考えているのかわからないような目で見て、そうしてその目が止まったと思ったら犬飼のところに来た。
「お前どうすんだよ…!」
「司令官補佐が来た…!」
そう言った上擦った周囲の囁き声は今でも覚えている。
「的と照準がブレてる。」
司令官補佐は自分の背後に立ち、まるで後ろから抱きつくような体制で銃の位置を正した。
「こうですか?」
「うん、飲み込みがいいね。」
その姿にドキドキしなかったかと言われれば嘘になる。容姿が良いし、声も綺麗、それでいて鬼強い。そんな特別な人が自分だけのところに来てくれた。そりゃあ浮き足たつぐらい許して欲しい。
「もともと頭の回転が早いし、変な癖もついてない。このまま君が突撃銃を持っていれば間違いなく上に上がれるよ。」
「それはいいすぎでしょ。」
ちらりと盗み見た司令官補佐のまつ毛は長くて、綺麗な子だなって思った。こんなラッキーがあってよかった、とも。
それから補佐は何事もなかったのように去っていって、取り残された自分は同期達に質問攻めされた。なんでお前が話しかけられたのか、トリガーのコツを教えろ、だとか。
その中でも特に話題に登ったのが、補佐が未来を見ることができる、というものだった。あの補佐に『上に上がれる』と言われたのだからお前の昇進は間違いがないだろうと、後ほどまだB級にもなっていない自分をスカウトしようとしてくる人間もいた。それぐらい補佐の力は大きかった。
*
次に補佐に会ったのはなんの変哲もないボーダーのラウンジだった。そこで飲み物でも飲みながら休憩しようとしていたら、急に補佐が目の前に現れた。
艶がかかった綺麗な髪に、自分の手で覆えそうな小さな顔。それが真正面に来たから思わず「うわっ。」と声が出た。それにちょっと傷ついたような顔をした彼女が、急に俺の服の袖を持ってぐいっと引っ張る。不思議に思って、でもその力に逆らわずに補佐についていくと、そこにはトリガーを使って派手な喧嘩をしている訓練生達がいた。
「……ボーダー隊員同士の私闘は禁止されてるって言って。」
「なんて??」
補佐の声はめっっちゃ小さかった。それも殆ど囁き声に近い。
「ボーダー隊員同士の私闘は…!」
いやなんて??
自分で言えばいいじゃん。それこそ司令官補佐なんだしさ。その疑問がもろに顔に出てたのか彼女はさっと目線を下に下げて言った。
「わ、わたしああいうヤンキー無理だから…。」
うん、この人意外とポンコツ?
ちょっと半笑いになりかけた口を急いで手で隠した。いや無理かも、これ。
なんか変な笑いが込み上げてきた。しかし今笑ってるのがバレるのは本人の手前、絶対にまずい。目の前の人、司令官補佐官だし。未来見える人だし。ボーダーの中でもかなり上の人だし。
取り敢えず、補佐の指示に従って訓練生達の私闘は辞めさせた。辞めさせた、というより本人達は補佐の顔を見て、青ざめたというのが正しいが。逃げるように帰っていく訓練生を見て、それから隣で服の裾を掴んでいた補佐の様子を見た。
うん。さっき見た通り、綺麗な顔だ。鼻筋はすっと通ってるし、いかにも「デキる人」って感じ。しゃんとしていて、冷静さを失わない人に見える。
けれど。
先程からぷるぷると振動を伝える己の服の裾を見る。その影に隠れた補佐の指先は小さく震えていた。
「もしかしてビビってる?」
犬飼の言葉に彼女が否定を口にする。
「いやどう見てもビビってますよね。」
ぶんぶんと首が横に振られた。
犬飼はついに堪えきれなかった笑いを溢した。この人、本当に訓練場で後ろから銃の位置を直してきた人か?あの時はもっとこう、近寄りがたいというか、完成された人間みたいに見えたのに。なんというか、こう、ギャップがひどい。
「……なに。」
少しだけ不機嫌そうな声が補佐から出た。犬飼は慌てて手を振る。
「いや、別になんでもないです。」
そう言いながらもう一度、補佐の方を見る。綺麗な顔だな、とは思う。最初に会った時と同じ感想だ。だが、思っていたような人とはだいぶ違うらしかった。
*
だからランク戦で負けてもそこまでへこまなかった。補佐のことはある程度知っていたし。
未来予知ができて、鬼強いけど、性格はビビりで引っ込み思案。そのくせ人を容赦なく使うから油断ならない。自販機に小銭じゃなくて必ず札からぶちこむタイプの人間で、その後のお釣りを俺にくれるような人だった。
だから鳩原ちゃんの弱点がつかれても、ああそうか、としか言いようがなかった。補佐だったらやるだろうな、とは思ってたから。むしろその後の鳩原ちゃんへのフォローも上手くやったなって思った。補佐はああいうの基本的に苦手だし、人間関係のトラブルへの対処はたまに俺が使われたりもしてたから。
雲行きが変わったのは二宮隊がA級上位層に近づいて、近界遠征が実現しそうになってからだった。遠征選抜試験で、みんなが気を引き締めていたのもある。そしてそれが叶わなかったのも。
近界遠征を悲願にしていた鳩原ちゃんは、落ち込んでいるように見えた。そして鳩原ちゃんの狙撃に磨きがかかればかかるほど、彼女の顔色は悪くなっていった。
最初はただのスランプに陥っているだけかと思っていた。そして"次"を絶対に叶えるために技術を上げているだけだとも。
けど明らかに顔色が悪い。そしてまるで、追い詰められている人間のような目をしていた。
一応、仲がいいはずの補佐には連絡はしといたが、返ってきたのは「大丈夫。」の返信だけ。
そういうところがノンデリなんだよな。
心の中でぼそりと思った。まぁ補佐が言うなら大丈夫だろう。そう思って携帯をポケットに戻す。
*
ある日、ラウンジで補佐と鳩原ちゃんが話しているのを見かけた。ソファに隣り合って座って、学校から出された課題を解いている。二人の距離は肘がぶつかり合うほどの近さで、何か小声で会話しているようだった。
そうして、補佐が何かを囁く。すると鳩原ちゃんのテーブルに置かれていた手の横に、軽く指を置いた。
それだけだった、それなのに。
妙に距離感の近い仕草だった。
それと同時に、補佐ってこんなことするような人だっけ?とも思った。別に肩を抱いた訳でもないが。
鳩原ちゃんは一瞬驚いた顔をした後、安堵の表情をした。さっきまで強張って見えた肩の力が一気に抜ける。補佐はそれ以降、何のアクションもしなかったが、目に見えて鳩原ちゃんは落ち着きを取り戻した。
へぇ、と心の中で感心する。あんなことできるんだ。あのコミュニケーション能力を胎内に置いてきたよう人が。第一声は必ず吃る癖に。
だがその時はそれで終わりだった。
特に声をかけることもなく、ラウンジの自販機で飲み物を買って、少し離れた席に座った。缶を開ける音が、やけに大きく響く。
二人はまだ何か話している。けれど補佐の声は相変わらず小さいし、鳩原ちゃんも声を落としているから内容までは聞こえない。ただ、時々鳩原ちゃんが頷いて、補佐が短く何か言う。そんなやり取りが何度か続いていた。
まぁいっか。そう思って、視線を外した。
補佐は未来を見る。鳩原ちゃんは遠征を目指している。それなら相談の一つや二つあるのもおかしくない。そう思っていた。
けれど、その日の帰り際、ふと見た光景が少しだけ引っかかった。鳩原ちゃんが席を立つ。補佐もそれに続いて立ち上がる。そしてラウンジの出口に向かって歩き出す直前。
補佐が鳩原ちゃんの袖を、ほんの一瞬だけ掴んだ。引き止めるほど強い力じゃない。ただ触れたくらいの弱さだった。それでも鳩原ちゃんは足を止めて振り返る。補佐は何か言った。
やっぱり声は小さくて自分のところまでは届かない。ただ鳩原ちゃんはその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。それから小さく頷いた。
その顔はさっきまで見せていた安堵とも、落ち込みとも違う。どこか覚悟を決めたような顔だった。
疑問に思い眉を顰める。
補佐は基本的に人を引き止めない。面倒くさいことは嫌いだし、誰かの選択に口を出すタイプでもない。だからこそ、あの仕草は少し珍しかった。
けれど次の瞬間には、もう二人は何事もなかったようにラウンジを出て行ってしまう。少しだけ考えたが、答えが出ず肩をすくめた。
補佐は未来を見る。
未来が見えるなら、ああいう行動を取る理由もあるんだろう。そういう人だ。だから。その時は、深く考えなかった。
*
「……ほんと、タチ悪いよ。」
ぽつりと呟いた声は、鉛のように重く、そしてナイフのように鋭かった。
あの時、違和感があって、それは当たってて、ボーダーのもう一人の予知能力者に呼ばれて、それで。補佐が鳩原ちゃん側に立つと知って。
迅さんにまずそれは止められないのか、と尋ねた。止めた結果も変わらない、いつか必ず鳩原ちゃんは密航するという事実を突きつけられた。
そして補佐は鳩原ちゃんに上手く立ち回らせて自分の目的を果たすつもりだと聞いた。自分の目的って何?目的があってあんた普段を過ごしてたの?俺と師弟関係を築いたのだって目的?鳩原ちゃんに近づくため?
補佐は未来予知ができる。迅さんと同様。あぁ。だからなのかな。補佐が笑っていることが少なかったの。この為にボーダーで頑張ってたんだもんね。その過程なんてとうでもいいよね。俺だって補佐の立場だったらそうだよ。
怒鳴りたい気分だった。だけどそれはできない。暗闇の中を非常灯の灯りだけを頼りにして歩く。向かうのはトリガー保管庫。二人が今、密航を画策している現場。
バカかよ。あんだけあんたが走り回って築いたものを一瞬で壊すの?それともあんたにとっては俺たちのこともボーダーのこともただひたすら無価値だったってこと?
脳みそがぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。まるで箸を直接ぶっさされたみたいな感覚。それと、どうしようもないほどに溢れた、まだ信じたいという気持ち。
「ねぇ、俺、数日前は誕生日だったんだよ。」
声は震えてなかっただろうか。
「その日さぁ、あんたに会って、おめでとうって言われて、ボーダーの人達にも沢山声かけてもらって、それで夜に二宮さんに連れられて、みんなで焼肉行ってさ、……ほんとうにこれで終わりなわけ?」
頼むから、頼むから嘘だと言ってくれ。
「二宮さんがあんたのことを嫌ってるのは知ってた。辻ちゃんだって怖がってる。氷見さんは、苦手そうだった。…けど俺と、鳩原ちゃんだけはあんたのことが好きだった。何時間も本部にいて、隊員のために走り回ってるの知ってたし、上層部から訓練生までの、沢山の人の話を聞いてた。」
俺も後ろを歩いてたからわかるよ。
「隊のみんなであんたのこと話す時にさ、二宮さんは補佐のこと、紛れもない天才だって言ってたよ。二宮さんはあんたにボコボコにされたからか、加古さんのこと話す時みたいに嫌がってたけど。俺たちがA級一位になるために越えるべき壁だってさ。それに真剣に頷いてた俺らが、馬鹿みたいじゃん。」
こんなことを選んだ二人に対して。こんなことを選ばせてしまった俺達が滑稽で。
「鳩原ちゃんはさ、俺らとA級一位になって上層部に認められて、近界に行くんじゃなくて、得体の知れない奴らとの、安全かどうかもわからない密航を選んでさ。あんたはその手助け?何?そんなにあんたが鳩原ちゃんのこと好きそうに見えなかったけど。」
嘘。嘘?もう何があんたの嘘か、あんたの本当なのか、わからない。
「あんたの考え、俺結構わかってたつもりだったよ。太刀川さんにダル絡みされてる時は、あんたは割と楽しそうで、二宮さんに話しかけられた時は自分の爪見てる姉ちゃんとおんなじぐらい興味なさげ。よく行く鬼怒田さんのところは優しいおじさんだと思っていて、同時にチョロいとも思ってる。クソみたいな女だよね、あんた。」
違う、本当はこんなことが言いたかったわけじゃない。
「ほら、お迎えが来たよ。」
補佐の背後に迅さんがいる。待って、連れてかないで。
「死ね、クソ女。」
俺が、銃を撃つつもりがなかったって言ったら、補佐は信じてくれた?