個性『ネガティブ・エンジン』   作:rurya

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その個性の名は

 薄暗い拠点。

 

 巨大スクリーンには、かつて「特別自治区」と呼ばれた街の航空写真が映し出されている。中心部には、まるで世界そのものがそこを拒絶したかのような、真円の消失。

 

「調律師」と呼ばれた支配者も、彼が築いた「平和という名の型」も、塵ひとつ残らず消し飛ばされていた。

 

「……統治者“調律師”以下、自警団すべて、バイタル消失。解析不能です」

 

 震える部下の声を、若き日のオール・フォー・ワンは、心地よい音楽でも聴くかのように聞き流していた。

 

 カメラが彼の横顔を捉える。若く、滑らかな肌。生命維持装置という枷も、敗北の傷跡もない、全盛期の魔王。彼は怒っていない。むしろ、その瞳は未知の真理に触れた学者のような、純粋な愉悦に濡れていた。

 

「……やはり、放っておいて正解だった」

 

 低く、響く声。彼は机の上に広げられたデータを指でなぞり、解析を始める。それは、彼がこれまで見てきた、あるいは奪ってきた数多の「個性」の枠組みを、根底から嘲笑うかのような異常なシステムだった。

 

「ドクター、見ているかい。これが君の言っていた『強力な個性』の正体だ。……いや、強力などという言葉では足りない。これは、この世の因果を無視した『インチキ』だよ」

 

 AFOは画面に表示された、律がエネルギーを放つ直前の数値を指し示す。

 

「まず、この出力。彼女は自らエネルギーを生成していない。周囲に漂う『不快』『恐怖』『不安』……この地獄のような時代において、空気に溶け出している負の概念。それを彼女は『呼吸』しているんだ」

 

 ドクターが、通信越しに息を呑む音が聞こえる。

 

『概念を……吸い上げている、と?略奪(ドレイン)ですかな?』

 

「違う。そこがこの個性の最も救いようのない点だ。彼女は負の感情を『奪って消している』わけじゃない。負の感情という概念を、変換効率一〇〇パーセントの触媒として使い、無限のエネルギーへと変換し続けているんだ」

 

AFOは、自らの掌の孔を見つめ、自嘲気味に口角を上げた。

 

「僕が個性を奪うのは、そこに『物』があるからだ。だが、彼女は違う。負の感情がある限り、そこからエネルギーという名の暴力を無尽蔵に抽出する。燃料を消費しても、触媒である『負の感情』は減らない。無限に負があれば、無限に出力し続ける永久機関。……加えて、これは『常時発動型』だ」

 

スクリーンには、律がただ街を歩いているだけの映像が流れる。

彼女が意識せずとも、周囲の微細なストレスが、見えない渦となって彼女の背後に吸い込まれていく。

 

「彼女は眠っている間でさえ、世界から毒を啜り、エネルギーをストックしている。そしてひとたび彼女が『不快』を感じ、出力を上げれば、その場の負を急速に吸い上げ、火力が指数関数的に跳ね上がる。現場の恐怖が濃ければ濃いほど、彼女の砲身は太くなる」

 

「……だが、ドクター。この『永久機関』にも、まだ見えていない空洞がある」

 

 AFOはモニターを切り替え、律の生体エネルギー波形と、消失した空間の質量を照らし合わせた複雑なグラフを表示させた。彼の瞳の奥に、獲物の急所を探り当てるような鋭い光が宿る。

 

「第一に、ストック量の限界値だ。常時吸い上げ続けている以上、彼女の肉体という名のタンクには必ず最大容量が存在するはずだ。それが溢れたとき、彼女は自壊するのか、あるいは無意識に周囲へエネルギーを垂れ流し始めるのか……。今のところ、彼女は自身のキャパシティすら把握していなさそうだが」

 

 彼は画面上のノイズを指先で弾き飛ばし、次の項目を列挙した。

 

「第二に、負の感情の許容量。負を燃料にするということは、彼女の精神がその毒素に曝され続けているということだ。ドクター、君ならわかるだろう? 正常な人間なら一秒と保たずに発狂するほどの絶望を、彼女は常に内包している。今は恐らくではあるが、『無関心』という防壁で凌いでいるようだが、そのフィルターが摩耗したとき、彼女が吸い上げ続けてきた数十年分の負の澱みが、彼女自身を内側から食い破る可能性がある」

 

『なるほど……劇薬を常に飲み干しているようなものですな。では、変換の速さは?』

 

「それこそが第三の懸念だ。エネルギー変換の速度。現場の負が爆発的に高まった際、彼女のエンジンがその供給速度に追いつけず、バックファイアを起こすことはないのか? または、変換が速すぎるがゆえに、出力の微調整ができず、ただ一度の『不快』で大陸ごと消滅させるような制御不能に陥るのか……」

 

 AFOは一度言葉を切り、自らの胸元に手を当てた。

 

「そして、最も興味深いのがこれだ。自身の負の感情は影響するのか。周囲の負を吸うのが外部依存のエンジンだとしたら、彼女自身が『真の絶望』を味わったとき、そのエンジンは自家発電を始め、閉じた円環の中で無限に増幅を開始するのか? もしそうなら、彼女こそが文字通りの終末を告げる獣となる」

 

 AFOは愉悦を隠しきれない様子で、低く笑った。

 

「ストックが弾けるのが先か、精神が摩耗するのが先か、あるいは出力に肉体が耐えきれなくなるのが先か……。この個性、そうだなぁ、名前はそう、『ネガティブ・エンジン』と呼ぼうじゃないか」

 

 彼はスクリーンの律の瞳を見つめ、最後の一言を付け加えた。

 

「……ただ、最も想定すべき最悪な事態がある」

 

 AFOはモニターの表示をすべて消した。そこにある計算式や予測グラフが、ひどく滑稽な、子供の落書きのように思えたからだ。

 

「ドクター。僕は今、ストックの限界値や許容量について話した。……だが、もし。あくまで僕の『予想』だが、彼女にそんなものは最初から存在しないとしたら?」

 

 ドクターが息を呑む音が、静寂に響く。

 

『……ないと? 器である肉体がある以上、許容量がないなどということが……』

 

「いいや、ドクター。彼女を『器』と考えるのが間違いなのかもしれない。彼女は負を貯めるタンクではなく、無限に負を飲み込み、そのまま別の何かへ変換して吐き出し続ける『核』そのものだとしたらどうだ?」

 

 AFOは暗闇の中で、自らの掌を見つめた。

 

「もし僕のこの予想が正しいのなら、彼女には自壊という概念が存在しない。どれほど膨大な絶望を注ぎ込もうが、彼女という個体はそれを一滴も残さず、瞬時に『エネルギー』へと変え、虚空へ放逐し続ける。……どれほど吸っても溢れず、どれほど撃っても摩耗しない。世界中の負を一度に飲み込んでも、彼女はただ『少し不快だった』と呟くだけで、平然と立っている。」

 

 AFOの声に、隠しきれない狂気的な笑みが混じる。

 

「これは最悪だ。もし許容量がなければ、僕がこの先どれほどの『絶望』を用意して彼女を屈服させようとしても、彼女はそれをただの燃料として消費し、僕を、僕の支配する世界を、あくびをしながら蒸発させることができる。……僕が積み上げるすべてが、彼女という無限のシュレッダーにかけられるだけの無意味な供物になる」

 

『なんと……』

 

「逆もそうだ、もし彼女が、限界のない『底なしの穴』であると同時に、吸い上げたものを際限なく蓄積できる『ブラックホール』だとしたら? 僕が彼女を御するために用意する『偽りの平和』……それ自体が、彼女という爆弾の安全装置にはなり得ない。街ゆく誰かの些細な苛立ち、列に並ぶ者のわずかな焦燥。僕がどれほど世界を漂白しようと、人の世がある限りゼロにはできない微細な『負』を、彼女は数十年かけて一滴漏らさず貯め込み続けることになる」

 

「僕が彼女を無力化しようと平穏を強いるほど、彼女はただ静かに、誰にも気づかれぬまま神の如き火力をチャージし続ける。そして数十年後、彼女がふとした拍子に指を鳴らせば、そこにあるのは一都市の消失程度ではすまないだろう」

 

「ははは! 最悪だ、本当に最悪のインチキだよ、これは」

 

 AFOは肩を震わせ、その「最悪の予想」がもたらす極上のスリルに酔い痴れるように笑い声を上げた。その口角は、獲物を前にした捕食者のそれであり、同時に運命そのものを弄ぼうとする者の傲岸不遜さに満ちている。

 

「ドクター、計画を変更する。彼女をただ眠らせておくのは得策じゃない。……ちょくちょく、彼女の『道』に嫌がらせを仕掛けるんだ」

 

「彼女が無限の蓄積を可能にするブラックホールだというのなら、溜め込ませる前に吐き出させる必要がある。感情のない、空っぽの『核』であってほしいんだよ。溜まりきる前に適度に怒らせ、その膨大なエネルギーを無意味な場所で浪費させる。……僕が丹精込めて漂白した世界を、彼女自身の意志で、安っぽい苛立ちと共に浪費し続ける。これほど愉快な嘲りが他にあるかい?」

 

「それにどうせ、まだ彼女の情報は足りていない。ストックの底、変換の壁、精神の摩耗……。一歩ずつ、彼女が自分自身の『無限』に気づく前に、外側からゆっくりと、確実に、彼女の存在を削り潰してあげようじゃないか」

 

 AFOは画面を消し、静寂の中に狂気的な笑みを残した。

 

 

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