お付き合いいただけたら嬉しいです。
「レースの結果に価値は見出してねえって面をしているな。あまちゃんかよ。なら、せいぜい“おままごと″を続けて理想の自分を守っていくんだな」
ウィナーズ・サークルとは対照的に静寂を取り戻しつつあった廊下。彼女は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
その夜、彼女はいつものように寝付くことができなかった。
優勝者に言われた言葉が脳裏にこびり付いて離れなかったからである。
それだけではない。
電光掲示板のⅡに、14ハナという文字が点灯した瞬間、自身の表情から急速に熱が引いていくのを理解してしまったこともある。
だが、何よりも大きかったのは、表彰が終わるや否や、首にかけられたメダルを無造作にポケットへ突っ込んでいたことである。
「そんなこと、あなたに言われるまでもないわよ!」
彼女の右手が赤くなっていき、やがて、小刻みに震え始めた。
そう……理解している、理解しているはずだった。
右手から次第に赤みが消えていき、震えが収まった指の隙間からは、行き場を失った圧が静かに抜けていった。
ランニングウォッチを相棒に、練習へ真剣に取り組めば取り組むほど伸び悩んでいく自己ベスト。
時間だけが過ぎる日々が続いた。
いつしか、相棒には傷が増えていた。
スイッチを押しても反応が返ってこない瞬間が、日に日に増えていった。
やがて、相棒はディスプレイを二度、三度と点滅させると、それ以来、彼女と伴走する日は訪れなかった。
あの日、画面越しに見た憧れの走り。
観客の大声援を背に、ゆっくりと天を仰いだ顔には一点の曇りもなかった。
理想とする選手像がそこにはあった。
だが、皮肉にも彼女の憧れる理想像が今や、レース終盤になるほど加速していく彼女の持ち味を殺していた。
「ここで駄目ならーー」
「次はない」
天井を見つめぽつりとつぶやいた言葉が、部屋に響き消えていく。
ふと、サイドデスクにおいていた封筒に目がいく。
しばらく封筒を見つめてから、
「あぁ、そういえば今日までだったわね……」
おもむろにベッドから身を起こし、おぼつかない足取りでサイドデスクまで辿りつくと
「招待状」
「--リベルマーレ殿」
と書かれた封蝋印が割れている封筒を手にとり、中から書類を取り出した。
「短期交換留学 選抜対象者へのご連絡」
彼女は早々に見出しを読み飛ばして書類の一点を見つめ、更にもう一点を見つめた。
「留学先:シャンティイ競馬場」
「辞退希望の受付期限:本日の午後23時まで」
「皮肉ね、二度と袖を通すことはないと決めた服にまた袖を通す日がくるなんて。因果応報とはこのことね」
誰に聞かせるともなく溢れた。
不意に、遠い日の記憶が脳裏に浮かぶーー
傷だらけの小さな手で掴みとったPrix des Inéditsーーデビュー戦ーーの銀色。
しかし、その銀色に視線が集まることはなかった。
やがて、少女は静かに銀色をポケットへしまいこんだ。そして、ロッカールームの一角にある
「Démissionnaire」
ーー舞台から降りた者たちの記録
とかかれたコーナーへ、自身の練習着と一緒にそっと置いた。
「神は、乗り越えられなかった試練の形を変えて再度科すと聞いたことがあるけど、露骨すぎじゃないかしら」
当時より一回り大きくなった手を見つめつつ、半ば無意識にポケットへ手を伸ばした。
ふと、壁にかけている時計に目をやる。
午前3時15分
秒針は、いつもと変わらずに時を刻んでいた。
もう寝よう。
このままでは明日の練習に支障をきたす。
彼女は再びベッドに身を預けると、入力途中だったスマホのメールに目線を落とした。
「じた」
無言でスマホの画面を見つめ続けたあと、指先を画面に近づけては、遠ざけるのを何度も繰り返していた。
やがて、彼女は数秒逡巡すると、書きかけのメールを削除して、大の字になった。
手放されたスマホからは、うっすらと湿り気が感じられた。
しばらくして、少しずつシーツが冷えていくのを感じながら、
「コチッ、コチッ、コチッ」
進む秒針をどこか羨ましげに見つつ、ゆっくりと、微睡んでいくのであった。
長編連載や、何本も創作を行っている方の頭の中を覗いてみたいです。
誤字脱字、表現の推敲はもちろん、物語の整合性も保つとか、ちょっとよく分からないです。