世界が変わっても、夏は日が長いっていうのは変わらない。部屋に差し込む光も、まだまだ鮮やかだし。
ただなあ、ルシオ卿の纏う雰囲気は曇り気味なんだよね。孤児院で聞いた話に、ショックを感じたのかな。
書類を読んで現状を知っていたとしても、それはあくまでも文字から読み取れることでしかない──当事者の口から話を聞いた時に、改めてショックを受けてしまうのは、当たり前のこと。
わたしも似たような体験をしたことがある。今世ではなく、前世でだけど……第二次世界大戦末期から戦後を生き抜いた、ひいお婆ちゃんの子供の頃の話。大震災で生き残ることができた人の話。
現実として体験してきた人の話は、それがどんなに穏やかな語り口だとしても、ずっしりとした重みがある。
孤児院にいる戦争孤児の言葉も、わたしにとって軽く扱えるものじゃあない。だからといって、大きく肩入れをしたりもしない──できないけれど。
政は、誰かのためにあるわけじゃない。国家維持のため、大多数の民を守るためのもの。王族教育ではそう教えられたし、わたしとしても異論はない。
だから、可哀想という感情で動くことはできないし、それをやってしまったら、良き領主ではなく、甘い領主になってしまう気がするんだよね。
今やれることはやったし、現場の確認もできた。孤児院の現状は、想定の範囲内だから、炊き出しや臨時予算会議の予定を変更する必要はない。
それに、孤児院よりも深刻な問題に気づいてしまったし。いや、孤児院の件も軽い問題ではないんだけど。
貧民街──だよね、あれ。大通りからチラッと見えた、細い路地の入口に立っていた子供。わたしの目では表情まで読み取ることはできなかったけど、あの体の細さは、孤児たちの比ではない。
孤児院は、文字通り親のいない子供を養育する施設だから、親がいる場合は入れなかったはず。
貧民街については、わたしの元へあまり報告書が上がってこない。まだ十五歳の少女に見せたいものじゃないから、っていうよりは、単純に触れにくい場所になっているのかな。
だから詳しい調査が入らないし、前領主から引き継いだ書類にも、貧民街についての情報や施策がほとんどなかったんだと思う。
どうしようかなあ、執務官さんたちは裕福層の家庭で育った人がほとんどだから、貧民街について知っているわけもない。そもそも、アンナルデクス王国民だし。
でも、マレディウムの民であるルシオ卿も知っている可能性は低そう。孤児院についても、書面上の内容しか知らなかったみたいだからさ。
治安維持兵を向かわせる? いや、それで貧民街にいる人たちから「領主がここから自分たちを追い出そうとしている」みたいに思われて、敵意を持たれたら元も子もない。
たとえ現状把握のためだとしても、治安維持兵が足を踏み入れたら、絶対に警戒されるよね。そうなると、別口で情報を得るしかないか。
神殿長は、昨日の視察の時に貧民街に住んでいる人々について、何も言わなかった。何かを言おうとしている雰囲気もなかったから、祈りに来る人が少ないのかもしれない。
神に祈って腹が膨れるわけでもなし、その時間をその日を凌ぐための食料集めに使っているのかも。
でも、炊き出しを行う間は、貧民街の人たちもやって来るかもしれない。調理された温かな料理を食べられるなら、って。
その時、神官さんや治安維持兵さんに、それとなく貧しそうな身なりをした人の様子を探って貰おう。
ただ、炊き出しは継続して行うものじゃあなくて、あくまでも臨時予算可決までの一時凌ぎ。孤児院の食料事情はそれである程度は解決するだろうけど、貧民街はそうはいかない。
アンナルデクス王国では、所得の差はあれど貧民街のようなものは小さな規模のものしかなかったんだよね。
福祉がきちんと機能しているというのもあるし、識字率が高いから、家を継げない子も別の働き口を他国に比べれば見つけやすい方だって聞いたし。
それに対してマレディウムはどうかというと、はっきり言って識字率は低いし、王都よりも貧民街の規模が大きい可能性がある。
識字率に関しては、後々向上を目指すとしても、それだけで何もかもが解決できるとは思っていない。
貧困から抜け出す一番の支援方法は、最低限の生活を保障しつつ、働き口を見つけるための助力をすること。
前世で言えば、生活保護と職業訓練に当たるのかな? それを行えれば良いんだけど、そうは問屋が卸さない──マレディウムには、その福祉支援を行える土台がないんだよね。
仮にそういった法案を可決して施行したとしても、教員となれる人材の不足、貧民街の人たち以外からの不満や反発、職業訓練修了後の受け入れ先の不足、そしてそもそも予算がないから、すぐに破綻するのは目に見えている。
特に貧民街の人たち以外には、「自分たちも生活が苦しいのに、助けてくれないのか」っていう怒りが生まれるかもしれない。
それに……あくまで予想でしかないけど、多分、貧民街を根城とする犯罪組織も生まれている可能性がある。
今まで領都を守ってきた前の衛兵さんも、貧民街には立ち入らなかったというからね。後暗いことをやろうとする者たちにとって、行政の目が届かない場所は根城として丁度良いはず。
貧民街の人たちは、マレディウム領民籍──前世の日本では戸籍が一番近いのかな。そういった公的な書類に、名前さえも載っていないことが多いみたい。
ルシオ卿と執務官さんたちにも確認したけど、皆貧民街生まれの人たちの籍は記録していないと言っていたし。
つまり──貧民街で、事件事故が起こっても、人攫いがあっても、私営娼館が営まれていても、このままでは対策はおろか認知すらできないってことになる。
それは、あまりにも拙い。犯罪組織が領土内にあるっていうことは勿論、その組織が他国と──リオングランデ王国と繋がっているかもしれないという可能性もあるんだよね。
それに気づいたとしても、すぐに手を打つことはできない。
犯罪組織っていうのは、行政の動きに敏感だろうってことくらい、わたしでも分かる。海に囲まれている島だけど、島外に出ようと思えば船で出ることができるから、逃げられてしまう危険があるしさ。
ままならないなあ……物語の主人公みたいに、自分から貧民街に乗り込んで、一気に解決! なんてことは不可能だし。
あー、貧民街についての施策も考えて、予算案を再編成しないと。まだ草案段階だから、修正も効く。根回しも第一段階、くらいのところらしいしね。
アンナルデクス王国から着いてきてくれた執務官さんたちは、貧民街の縮小と生活および職業訓練支援について、一定の理解を示してくれるはず。
既にアンナルデクス王国では施行されているし──わたしが発案だったから、ついでにって感じで草案作りまで叩き込まれるとは思わなかったけど!
マレディウムの民は、どうだろう。アンナルデクス王国とリオングランデ王国は国境を接していても、国家運営のやり方は全く違うし。
リオングランデ王国の本土と海で隔たっているマレディウムでは、土着の慣例の方が元本国の施策よりも強いっていうのは、あるみたい。
その中に貧民街についての事柄はなかったから、本当に手探りでやっていくしかない。
犯罪組織が誕生していないか、していても日が浅ければ良いんだけど……これもわたしの立つ場所からでは、探るのが難しいんだよね。
今やれることは、治安維持兵さんに貧民街に近いところに住んでいる人から話を聞き出して貰うこと、神殿で行う炊き出しに貧民街の人が来たらそれとなく話をしてみて貰うことかな。
今年度の収益計算と来年度の予算案作成で、ただでさえ忙しい中、更に貧民街についてまで手を伸ばしている余裕はない。
情報収集に留めるしかないっていう歯痒さはあるけれど、焦って失策をするよりもずっと良いはず。
それに、困窮している者を一人二人救ったところで、貧民街そのものを根本からどうにかしない限り、対症療法をし続けることになる。
穀倉地帯でもなく、目立った特産品もないマレディウム大公領は、税収の確保についても考えなきゃいけないのに、都度対症療法をやっていたんじゃあ、予算に組み込むのも難しいし。
よし、決まり。貧民街については、情報収集を最優先にして、住民から通報がない限り無闇矢鱈と治安維持兵さんがその場に踏み込まないように通達を出しておこう。
あとは──お兄様から下賜いただいた『影』を動かすことにしようかな。諜報特化の隊員がいるから、彼らの能力チェックを兼ねて、貧民街に潜り込んで直接情報を集めさせる。
神殿と住民経由で外側からの情報を、『影』の諜報員経由で内側からの情報を得て、精査してから、実現可能な社会福祉を検討っていうのが、今考えられる最前手。
ああ、有力者たちが貧民街についてどう思っているのかも、探っておいた方が良いかな。
ルシオ卿は、今まで見てきた限りだと腹芸は得意そうじゃないから、ケイルム様に指揮を任せよう。あの人、そういうのめちゃくちゃ得意だし。
はあ、色々考えていたら頭が痛くなってきた。糖分不足かな?
今日の読書のお供は、ミルクティーじゃなくてホットミルクに蜂蜜を溶かしたものにしよう。体の力も抜けるし、糖分の補給にもなるし、一石二鳥!
神殿と孤児院への訪問、子供たちを変に刺激しないように色々気を遣っていたから、肩も凝っちゃった。
ルシオ卿へのフォローはある程度したし、自分の中で今日の出来事を咀嚼しようとしている様子だったから、今はそっとしておく方が良いはず。
上司の励ましって、過ぎるとプレッシャーになるからね。ストレスを与えたいわけじゃないし、自分で感情の昇華をできるのなら、それが一番良いもん。
久しぶりに、子供の時読んでいた本を読もうかな。文字数多めの絵本みたいなやつ。
気分をリセットして、また明日も続く仕事をこなすための英気を養わなきゃ。
明日行う会議では、見込み税収についてがメインの議題だけど、来年度の予算案についても少し触れるから──あ、ちょっと胃が痛くなってきた。
やめやめ、もう寝る前の自由時間なんだから、明日の胃痛は明日のわたしに任せる!
この時間をゆっくり過ごしたら、ぐっすり寝ないとね。睡眠不足はお肌の大敵だから。