【非公式】よくわかる「境港市」ガイド(改訂版)(筆者不明)
ネットの海に漂っていたその怪文書を見つけたのは、僕がこの世界に生まれ変わってすぐのことだった。
『もし貴方が「向こう側(現実世界)」の記憶を持っているなら、この街の地図を見た瞬間に強烈な目眩を覚えるはずだ。ここは鳥取県境港市。私の知っているそれとは、似て非なる「継ぎ接ぎだらけの港町」である』
書いたのが誰かは知らない。もう死んでいるのか、あるいはどこかの海に沈められたのか。だが、その内容は正しかった。
1. 地理:ありえない「起伏」
『本来、弓ヶ浜半島は「砂州」である。しかし、この世界の境港市には「山」がある。半島の南西部、中海に面した一角が、まるで腫れ物のように隆起している。通称「黒山(くろやま)」』
2. 経済:異常な「潤い」
『この街は、異常なほどに金持ちだ。理由は明白。黒山の向こう側に鎮座する「エネルギー関連施設(および原発)」からもたらされる巨額の交付金だ。このアンバランスな「豊かさ」こそが、この街が何かの実験場であることを無言に語っている』
4. 交通:閉ざされた「陸の孤島」
『北の島根県へ抜ける江島大橋は、現実よりもさらに勾配がきつく、もはや「壁」にしか見えない。もう一つのルート、境水道大橋。「近代的な都市(米子・松江)」へ逃げたい者が、わざわざ「神と怪異の領域(美保関)」へ足を踏み入れるべきではない。地元民は知っている。「ベタ踏み坂は風で止まるが、水道大橋は"出る"から通りたくない」と』
総評
『魚は美味い。カニの水揚げも日本一。インフラも完備。けれど、もし貴方がこの街に転生したのなら、悪いことは言わない。「黒山」の方角と、「曇りの日の海」だけは見てはいけない』
全くもって、その通りだ。僕はバスの揺れに身を任せながら、心の中で名もなき先輩転生者に同意する。僕の名前は佐藤蓮(さとう れん)。中身は三十路の元日本人だが、今は小学四年生のランドナップ(ランドセルとリュックサックの中間のようなもの)を背負った子供だ。この「砂糖菓子でできた檻」のような街で、僕は決めていることがある。絶対に、何事にも、巻き込まれないこと。ただのモブAとして、このホラーともバトル物ともつかない歪な世界を生き延びることだ。
なのに。どうして今の僕は、こんなフィクションだったら「死亡フラグの塊」みたいな場所にいるんだろうか。
「わぁー……! やっぱり高いねぇ、蓮君!」
隣の席で、窓にへばりついて歓声を上げている少女がいる。小鳥遊(たかなし)六花。雪のような白髪に、毛先だけ桜色が混じった奇妙な髪色のクラスメイト。彼女は、これから向かう目的地が見えてきたことでテンションが上がっているようだ。
「夢みなとタワーだよ! 今日はお天気悪いから、海が暗くて雰囲気あるねぇ」
「……小鳥遊さんは、あのタワー好きなの?」
「うん、大好き! だって浮いてるみたいでしょ? なんか落ち着くんだよねー」
六花は屈託のない笑顔で言う。彼女の感性は、やっぱりどこかズレている。バスの車窓から見えるその塔──『夢みなとタワー』。ガラス張りの円柱形をしたそのランドマークは、僕にとって恐怖の対象でしかない。
高さ四十三メートル。「全日本タワー協議会」加盟タワーの中で最も低いという愛嬌のある肩書き。だが、その構造は異様だ。テンセグリティ構造。多数のフレーム(圧縮材)とワイヤー(引張材)だけで支え合う、張力構造の建築物。中心となる太い柱がなく、互いが互いを引っ張り合う絶妙なバランスだけで空中に固定されている。まるで、この境港市そのものだ。表向きの平和と、裏側の怪異。そのギリギリの均衡だけで成立している、危ういガラスの城。糸が一本切れれば、すべてが崩壊する。そんな場所に、呑気な社会科見学だなんて正気の沙汰じゃない。
「はい、みんな降りてー。走らないこと!」
先生の号令で、僕たちはバスを降りた。日本海から吹き付ける湿った風が、肌にまとわりつく。見上げれば、鉛色の空の下、ガラスの塔が寒々しく聳え立っていた。
展望室は、三百六十度の大パノラマだった。北には島根半島の山並み。南には霊峰・大山。そして眼下には、荒れ狂う日本海が広がっている。
「すっげー! 船ちっちゃ!」
「あそこのお家、俺んちじゃね?」
クラスメイトたちは大はしゃぎで窓際を走り回っている。六花もまた、「うへぇ、高い高い」と言いながらも、楽しそうにガラスに顔を近づけていた。僕はといえば、なるべく窓から離れた場所で、早く時間が過ぎるのを祈っていた。ここから見える景色は、見晴らしが良すぎるのだ。あのガイド文にあった警告──『曇りの日の海だけは見てはいけない』。その言葉が、ずっと頭の隅で警鐘を鳴らしている。だが、人間の心理とは厄介なものだ。見るなと言われれば、視線は無意識にそちらへ吸い寄せられる。
ふと、視界の端に何かが映った。沖合数キロ。灰色の波と、白い泡が混じり合う境界線。そこに、「白すぎる点」があった。
(……なんだ、あれ)
テトラポッドじゃない。船でもない。距離があるはずなのに、まるで望遠レンズで覗いたように、その姿が脳裏に焼き付く。人型、だった。真っ白な、のっぺりとした人影。それが、荒波の上に立っていた。いや、立っているんじゃない。くねくねと、踊っている。関節という概念がないかのように、軟体動物のように体をくねらせ、奇妙なリズムで揺れている。
──ッ!?
全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出した。前世の記憶。ネット掲示板の怪談。洒落怖。『くねくね』。あるいはそれに類する、海から来るナニカ。見てはいけない。理解してはいけない。理解した瞬間に、精神を持っていかれる。視線を逸らさなければならない。なのに、目が離せない。眼球が固定されたように動かない。
ギチチ……ミシミシ……
耳元で、嫌な音がした。風の音じゃない。タワーの鉄骨が軋む音だ。テンセグリティのワイヤーが、見えない重圧(プレッシャー)に悲鳴を上げている。周りの生徒たちは誰も気づいていない。先生も、笑いながら景色を見ている。僕だけだ。僕だけが、あれに「気づいて」しまった。
(やばい、くる)
あの白い影が、物理的な距離を無視して、「認識の距離」を一気に詰めてくる感覚。鼓膜の奥で、粘着質な笑い声が聞こえる。意識が遠のく。海へ。冷たくて暗い、海の底へ──
「……ん?」
その時。間の抜けた声が、僕の意識を現実に引き戻した。隣にいた六花だ。彼女は、僕が見ているのと同じ方向──あの「白い影」の方を見て、小首を傾げていた。
「ねえ、蓮君」
彼女が、ガラスをコンコンと指先で叩く。逃げろ、と僕は叫ぼうとした。巻き込まれるな。あれを見たら、お前も。けれど、六花の横顔を見て、僕は言葉を失った。恐怖? 混乱? そんなものは微塵もなかった。彼女は、まるで「キッチンの隅で見つけたゴキブリ」を見るような、あるいは「道端の吐瀉物」を見るような、底冷えするほど冷徹な目で、それを睨んでいた。さっきまでの、ふわふわとした眠そうな雰囲気は消え失せていた。その瞳。ガラスに反射した彼女の右目が、一瞬だけ、凍てつくような「蒼」に輝いた気がした。
六花の唇が動く。ドスの効いた、地を這うような低い声。
「……失せろ」
たった一言。けれどそれは、言葉というよりは、世界そのものへの「命令(コマンド)」だった。
パキン。
乾いた音が響いた。ガラスが割れたのではない。空間そのものが、不可視の圧力で弾かれたような音。次の瞬間、海上の「白い影」は消えていた。逃げたのではない。最初からそこに存在しなかったかのように、霧散していた。同時に、タワーの軋む音がピタリと止む。張り詰めていた空気が緩み、雲の切れ間から薄日が差し込んできた。
「は……あ……?」
僕は腰が抜けて、その場にへたり込んだ。膝の震えが止まらない。今、何が起きた? あの洒落怖レベルの怪異が、一瞬で?
「お、お前……今、何した……?」
絞り出すような声で訊ねる。六花がゆっくりと振り返る。そこにはもう、「絶対強者」の顔はなかった。いつもの、少し眠そうで、人を食ったような陽キャの笑顔。
「え? 何って……目のゴミ取っただけだよ?」
彼女は右目をこすりながら、あぁーあと大きく伸びをした。
「なんかコンタクトずれたかと思ったー。……あ、私コンタクトしてないや。帰ったらパパに目薬もらおーっと」
「……め、目薬……」
「蓮君も疲れ目? 顔色悪いよー。保健室行く?」
六花は屈託なく笑い、僕に手を差し伸べる。僕は、その白魚のような手を見つめながら、戦慄していた。
沖合のアレも怖かった。けれど。特級クラスの怪異を「目のゴミ」扱いして、瞬き一つで消し飛ばしたこの少女の方が、よほどホラーだ。彼女の背後に、一瞬だけ見えた気がしたのだ。六角形の、雪の結晶の形をした、歪な天使の輪(ヘイロー)の残滓が。
僕は確信した。この街のガイド文には、もう一行付け加えるべきだ。
『黒山』と『海』を見てはいけない。そして──『小鳥遊六花』を、怒らせてはいけない、と。
(タワーでの社会科見学の前日)
それは、明日の社会科見学のしおりを眺めていた時のことだった。行き先は『夢みなとタワー』。
暇つぶしにタブレットを開いた私は、『Yahoo! きっず』の検索窓に何気なく「境港 秘密」と打ち込んだ。子供特有の好奇心。ただの都市伝説探し。
けれど、検索結果の海を漂っているうちに、私は奇妙な個人サイトに辿り着いてしまった。
『【非公式】よくわかる「境港市」ガイド(改訂版)』
画面に表示されたそのテキストを読んだ瞬間、私の頭の中でパズルが組み合わさるような音がした。
前世の記憶──私がまだ「私」じゃなかった頃、鳥取県西部に住んでいた大人の記憶が、奔流となって蘇る。
(……あ、れ?)
私は震える指で、その警告文をスクロールした。
『もし貴方が「向こう側(現実世界)」の記憶を持っているなら、この街の地図を見た瞬間に強烈な目眩を覚えるはずだ。ここは鳥取県境港市。私の知っているそれとは、似て非なる「継ぎ接ぎだらけの港町」である』
『1. 地理:ありえない「起伏」
本来、弓ヶ浜半島は「砂州」である。米子から境港の先端まで、平坦な松林と砂地が続く、のっぺりとした地形のはずだ。
しかし、この世界の境港市には「山」がある。半島の南西部、中海に面した一角が、まるで腫れ物のように隆起している。通称「黒山(くろやま)」。植生が濃すぎて中の様子が伺えないこの丘陵地帯は、地図上では「市街化調整区域」や「保安林」となっているが、地元民は誰も近づかない。
平坦なはずの砂州に突き刺さったこの異物が、街の景観に奇妙な圧迫感を与えている』
『2. 経済:異常な「潤い」
この街は、異常なほどに金持ちだ。
人口は約6万人弱(現実世界では3万人強)だが、財政指数は都市規模に見合わない数値を叩き出している。理由は明白。岬の先端、そして黒山の向こう側に鎮座する「エネルギー関連施設(および原発)」からもたらされる巨額の交付金だ。
おかげで、市内を走る県道は無駄に高規格で広く、市民会館や図書館などの「ハコモノ」は都内の私立大学並みに豪華絢爛だ。優美ささえある大型船と錆びついた小型漁船。ピカピカの公共施設。シャッター商店街になりかけた路地と、真新しい舗装道路。
このアンバランスな「豊かさ」こそが、この街が何かの実験場であることを無言に語っている』
『3. 観光:熱狂する「ロード」
JR境港駅から続く「水木しげるロード」。
向こう側でも人気の観光地だが、こっちの世界では熱気が違う。年間観光客数は300万人オーバー。週末になれば、狭いアーケードは原宿の竹下通りかと見紛うほどの過密状態になる。
妖怪ブロンズ像の前で記念撮影をする観光客たちの笑顔は、どこか熱に浮かされたように明るい。彼らは知らないのだ。自分たちが踏みしめているその道が、ただの観光資源ではなく、何かを封じるための……いや、これ以上の推測は野暮というものだろう』
『4. 交通:閉ざされた「陸の孤島」
三方を海(日本海・中海・境水道)に囲まれたこの街からの脱出ルートは限られている。
国道431号線
南の米子市へ抜ける国道431号線は、常に渋滞で麻痺している。
江島大橋(通称:ベタ踏み坂)
北の島根県へ抜ける江島大橋は、現実よりもさらに勾配がきつく、もはや「壁」にしか見えない。しかも、冬場は強風で頻繁に通行止めになる。
境水道大橋
境水道を跨ぎ、島根半島の美保関(みほのせき)へと続く、巨大なアーチ橋だ。高さ40メートル。下を行き交う大型船のために極端に高く作られたこの橋は、江島大橋よりも歴史が古く、そして「暗い」。錆の浮いた鉄骨、低い欄干、常に橋の下から吹き上げてくる冷たい海風。
何より、この橋が繋がっている先は、古い神話の力が色濃く残る「美保関(聖域)」だ。
「近代的な都市(米子・松江)」へ逃げたい者が、わざわざ「神と怪異の領域」へ足を踏み入れるべきではない。
地元民は知っている。「ベタ踏み坂は風で止まるが、水道大橋は"出る"から通りたくない」と。
入るのは簡単だが、出るのは難しい。一度住めば、鉛色の空と潮風に絡め取られ、一生をこの「砂糖菓子でできた檻」の中で過ごすことになる』
『総評
魚は美味い。カニの水揚げも日本一。インフラも完備。けれど、もし貴方がこの街に転生したのなら、悪いことは言わない。「黒山」の方角と、「曇りの日の海」だけは見てはいけない。
そこにあるのは、貴方の知っている鳥取県ではないのだから』
「…………」
読み終えた瞬間、私の口から乾いた笑いが漏れた。
「ほんまや……前世と全然違うやんけ」
思わず、エセ関西弁が出る。
そうだ、私は知っている。本物(前世)の境港はもっとのどかで、山なんてなくて、こんな息苦しい「檻」みたいな場所じゃなかったはずだ。
そして、違和感の正体に気づいた瞬間、ドミノ倒しのように全ての事象が繋がり始めた。
この街の異常性。そして、私の家の異常性。
「……ていうか、ちょっと待って」
私は椅子から転げ落ちそうになりながら、一階の気配を探った。今、店番をしているはずの両親。白髪で、目隠しをしていて、甘党で、最強に性格が悪いパパ。ピンク髪で、オッドアイで、いつも眠そうで、でも最強に硬いママ。
「……五条悟と、小鳥遊ホシノじゃん……!」
嘘でしょ。前世で読んでた漫画とゲームのキャラじゃん。しかも、なんでその二人が鳥取の片田舎で夫婦やってんの? どんなクロスオーバー? ハーメルンの二次創作でももうちょっと自重するよ?
私は頭を抱えた。ここが「創作物のツギハギ世界」だと理解した途端、今まで「ちょっと変わってるなー」で済ませていた日常が、急に恐ろしいものに見えてくる。
「確認……しなきゃ」
私は震える手でタブレットのタブを切り替えた。
Yahoo! きっずからGoogleへ。そして、この世界の『Wikipedia』へ。
検索窓に【境港市】と打ち込む。
Enterキーを押した瞬間、表示されたページは、表向きはごく普通の自治体情報のようだった。けれど、私のような「知識持ち」が見れば、その不自然さは隠しようがなかった。
境港市(さかいみなとし)
概要:鳥取県西部に位置する市。
日本海側の重要港湾都市であり、「エネルギー・海洋科学研究都市」として国の特別指定を受けている。
人口:約58,000人。
(現実の倍近い。備考には「関連企業および研究機関の集積による」とあるが、それだけでこんなに増えるか?)
主な施設:
境港原子力発電所:市北西部の岬に位置する。
陸上自衛隊 境港駐屯地(兼 航空自衛隊 境港補給処):
B地区とC地区の境界に位置する。(この区分も前世にはなかったな)
(記述があっさりしすぎている。「補給処」にしては敷地面積が広大すぎるし、以前見かけた車両は通常のOD色じゃなくて「黒塗り」だった)
国立 先端海洋資源研究所:
日本海独自の海流および生物資源を研究する機関。
(これも怪しい。「資源」の研究なのに、なぜか「バイオセーフティレベル4」相当の設備があるって噂がある)
地理・黒山地区:市内南西部の丘陵地帯は「自然環境保全地域」および「土砂災害特別警戒区域」に指定されており、一般の立ち入りは制限されている。
(出た。「保全地域」。一番便利な隠れ蓑だ。誰も入れない森の中で、何を「保全」しているのやら)
「……真っ黒じゃん」
一見すると、エネルギー産業と学術研究で潤っている地方都市。
けれど、行間から滲み出る「国家ぐるみの隠蔽臭」がすごい。
「特別指定」「保全地域」「制限」。
これらは全部、一般人を遠ざけるための都合のいい看板だ。
おそらく、自衛隊の駐屯地は対アノマリー部隊の拠点だし、研究所は海から来る「何か」を解剖している場所だろう。そして、そんな街に、あの「最強の二人」が住んでいる。
隠居? 左遷?
いや、もしかしたらこの街自体が、パパやママのような「規格外」を閉じ込めておくための、巨大な鳥籠なのかもしれない。
「……はぁ」
私は深く溜息をついた。窓の外を見る。鉛色の空の下、遠くの海が黒く沈んでいる。明日は学校の社会科見学で、『夢みなとタワー』に行くことになっている。
「……フラグじゃん」
前世の知識が警鐘を鳴らしている。海が見えるタワー。曇天。そして、条例で立ち入りが制限されている冬の海。何かが起きないわけがない。
でも、と私は思う。今の私には、パパ譲りの「目」と、ママ譲りの「盾」がある(ような気がする)。
「ま、いっか。なるようになるでしょ」
私は思考を放棄して、ベッドにダイブした。とりあえず、明日はコンタクト(伊達)を忘れないようにしよう。見えすぎちゃうのも、考えものだからね。