仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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005 縁切りの儀式

 

 境港市の外れ、住宅街の一角にある『佐藤酒店』。

 

 それが僕、佐藤蓮の実家だ。地元の常連客が焼酎やタバコを買いに来る、どこにでもある平凡な商店。

 

 ……だったはずだ。数ヶ月前までは。

 

「……まただ」

 

 放課後、店番をしていた僕は、レジカウンターの横に置いてある「茶封筒」を見て、背筋が寒くなるのを感じた。封筒の底が、じっとりと濡れている。今朝、乾いた雑巾で拭いたばかりだ。近くに水場はない。

 

 恐る恐る指で触れ、その指先を舐めてみる。

 

 ――しょっぱい。

 

 強烈な塩分濃度。海水だ。

 

「おい蓮、ちょっと店の表を見てきてくれんか? ガラスが汚れてるって、お客さんに言われたんだが」

 

 奥から父親の声がする。僕は「うん」と短く答え、重い足取りで自動ドアの方へ向かった。

 

 夕暮れ時の西日が、店のガラス戸を照らしている。そこには、無数の「手形」がついていた。泥と、塩が混じったような、白く濁った手形。大人の手もあれば、子供のような小さな手もある。それがガラス一面に、バンバンと叩きつけられたように付着している。

 

「……うわ、ひどいな。誰の悪戯だよ」

 

 近くにいた近所のおばさんが、眉をひそめて通り過ぎていく。僕は雑巾をバケツに浸し、ガラスを拭こうとした。

 

 そして、動きを止めた。

 

 拭けない。雑巾が、手形の上を滑るだけだ。

 

 ……違う。

 

 この手形、「内側」についている。店の中には僕しかいない。父さんは奥の倉庫だ。

 

 じゃあ、誰が?誰が「店の中」から、外に出ようとしてガラスを叩いたんだ?

 

 ヒュウ、ヒュウ……。

 

 耳鳴りがした。

 

 いや、これは耳鳴りじゃない。呼吸音だ。レジの方から。あの「茶封筒」の方から、誰かが濡れた肺で息をしている音が聞こえる。

 

(……やばい。これ、本当にやばい)

 

 僕は震える手で雑巾を握りしめた。

 

 あの封筒を預けていったのは、市役所の坂口さんという常連客だった。

 

 『これ、今度の休みに取りに来るから。……もし来なかったら、中を見て処分していいよ』

 

 ひどく疲れた顔でそう言い残し、彼はその数日後、ニュースになった。崖下への転落事故。行方不明。

 

 それ以来だ。この家がおかしくなり始めたのは。最初は封筒が濡れるだけだった。次は夜中に足音が聞こえるようになった。そして今は、泥の手形が店のガラスを埋め尽くしている。

 

 昨日の夜、母さんが言っていた。

 

 「最近、布団が湿っぽくて、夢の中で溺れる夢を見るのよ」と。

 

 浸水してきている。このままだと、僕だけじゃない。何も知らない父さんも母さんも、あの「海」に連れて行かれる。

 

 

 

 翌日。

 

 僕は意を決して、あの茶封筒を鞄に入れ、学校へ向かった。家には置いておけない。家族から遠ざけなければならない。

 

 昼休み。屋上の陰。僕はクラスメイトであり、唯一の「同類」である少女に声をかけた。

 

「……小鳥遊さん、ちょっといいかな」

 

「ん? なに、改まって」

 

 小鳥遊六花は、パックのイチゴオレを飲みながら振り返った。そして、僕の顔を見た瞬間、その表情がスッと真顔になった。

 

「……蓮くん。君、なんか『海臭い』よ」

 

「わかる?」

 

「わかるも何も、全身から磯の香りと、腐ったヘドロの臭いが漂ってる。……何持ってきたの?」

 

 僕は無言で鞄から茶封筒を取り出した。封筒は、すでにグズグズに濡れていて、今にも破れそうだった。六花はそれを見て、眉をひそめながら一歩下がった。

 

「うわ、最悪。……開けないでよ。中身、地図でしょ?」

 

 言い当てられた。僕は頷く。

 

 中に入っているのは、エクセルのデータが入ったUSBメモリと、古い手書きの地図だ。一度だけ中身を確認した時、その地図の異様さに寒気がして、すぐに閉じたのだ。その事を彼女に告げる。

 

「それ、ただの地図じゃないよ」

 

 六花はストローを噛みながら、冷徹に分析した。

 

「その地図、『契約書』になってる。前の持ち主は死んだか、向こう側に連れて行かれたんだと思う。その権利が、今は君に移ってる」

 

「……どうすればいい? 捨てれば助かる?」

 

「無理。捨てても戻ってくるし、燃やそうとしたら君が燃えるよ。……このままだと、君の家ごと『黒山』の一部に書き換えられちゃうね」

 

 淡々とした宣告。僕は足元のコンクリートを見つめた。

 

 家族が、死ぬ。あの優しい両親が、泥と塩にまみれて消える。

 

 そんなの、嫌だ。

 

「……助けてくれ、小鳥遊さん。僕一人じゃどうにもできない」

「んー……」

 

 六花は少し考え込み、飲み干したパックをゴミ箱に投げ入れた。

 

「……私の手には余るかな。話を聞く限りこれは単なる『呪い』っていうより、もっと政治的で、大規模な術式の一部みたいだし。……パパに聞いてみるしかないか」

「えっ、あのご両親に?」

 

 僕は先日の「地獄のティータイム」を思い出して身震いした。

 

 あそこに行くのか。あの魔窟に。

 

「嫌ならいいけど。家族、守りたいんでしょ?」

 

 六花の言葉は鋭い刃物のようだった。僕は拳を握りしめた。背に腹は代えられない。

 

「……行く。お願いします」

 

 

 

 放課後。

 

 水木しげるロードの外れにある骨董店『界』。その暖簾をくぐるのは二度目だが、緊張感は前回の比ではない。

 

「ただいまー。パパ、ママ、相談客連れてきたよー」

 

 六花の声と共に、店内の空気が変わる。薄暗いリビング。そこには、相変わらず「世界のバグ」のような二人がいた。

 

 ソファでスマホをいじっている白髪の男、五条悟。コタツで丸くなっているピンク髪の少女、小鳥遊ホシノ。

 

「お、蓮くんじゃん。久しぶり〜」

 

 五条さんはサングラスをずらし、軽い調子で手を振った。

 

 だが、僕が鞄から「濡れた封筒」を取り出した瞬間、その蒼い瞳(六眼)がスッと細められた。

 

「……へえ。臭うねえ、それ」

 

 僕は震える手で封筒をテーブルに置いた。テーブルクロスに、じわりと塩水が染み出していく。

 

「これのせいで、家がおかしくなってるんです。……助けてください」

 

 五条さんは封筒には触れず、まるで汚いものを見るように顎をしゃくった。

 

「六花、中身出して」

 

「えー、私がやるの? ……はいはい」

 

 六花がトングのようなもので中身をつまみ出す。出てきたのは、塩で錆びついたUSBメモリと、黒ずんだ和紙の地図。地図には、黒山の一角に赤い印がつけられており、そこから血管のように黒い線が伸びている。

 

「あー、これ知ってる」

 

 五条さんは、つまらなそうに言った。

 

「5年くらい前かな。政府と自衛隊の保守派連中がやってた『黒山隔離計画』の残骸だね。……失敗したから、生贄を使って蓋をした。その時の『座標データ』だよ、それ」

 

「……生贄?」

 

「そう。人間の魂をアンカーにして、異界の穴を無理やり塞いでるの。非人道的だよねぇ」

 

 五条さんはケラケラと笑った。

 

 笑い事じゃない。僕の家族は、その「蓋」の代用品にされようとしているのか。

 

「おじさん、あの山きらーい」

 

 コタツからホシノさんが顔を出した。

 

「最近、夜中うるさいんだよねぇ。自衛隊さんが一生懸命抑えてるけど、泥が漏れてきてるし……。そろそろ限界じゃない?」

 

 二人の会話は、あまりにスケールが大きすぎた。

 

 国家レベルの陰謀。異界の侵食。

 

 そんなものに、一介の酒屋の息子が巻き込まれているなんて。

 

「五条さん。……これを、貴方の力で消せませんか?」

 

 僕は縋るように言った。彼ならできるはずだ。五条悟なら、この程度の呪い、指先一つで消し飛ばせるはずだ。

 

 しかし、彼は首を横に振った。

 

「無理」

 

 即答だった。

 

「え……」

 

「いや、消すのは簡単だよ? 『あか』とか撃てば山ごと消えるし。でもさ」

 

 彼は長い指を立て、政治家のような顔で言った。

 

「僕が手を出したら、『五条家が政府の極秘プロジェクトに武力介入した』ってことになる。……そしたら、全面戦争だよ。J-GOC(の対アノマリー特殊部隊)も、際理庁も、全部敵に回すことになる。面倒くさいでしょ?」

 

《彼は改革派だ。腐った上層部を嫌っているが、同時に「教育」によって世界を変えようとしている。

 力によるクーデターは、彼の美学(と、この世界のバランス)に反するのだ》

 

 絶望が、胸に広がった。

 

 最強の男でも、助けてくれないのか。

 

「……でもさ」

 

 五条さんは、悪戯っ子のようにニヤリと笑った。

 

「僕ら『大人』は動けないけど……『子供』なら、話は別だよね」

 

「……え?」

 

「近所の小学生が、夏休みの探検ごっこ(夏じゃないけど)で山に入って、偶然『変なもの』を見つけて壊しちゃった。……これなら、ただの事故だ。政府も文句は言えない」

 

 彼はテーブルの上の地図を指差した。

 

「蓮くん。君がこの地図を持って、直接『現地』に行きなよ。この赤い印の場所に、呪いの発生源がある。そこで契約を破棄(地図を燃やすか、杭を抜くか)してくればいい」

 

「そ、そんな危険な場所に!?」

 

「行かなきゃ、君の家族は全員死ぬよ。それに、今の君は『契約者』だ。結界をフリーパスで通れる唯一の人間でもある」

 

 逃げ道は塞がれた。行くしかない。家族を守るために。

 

「……私も行く」

 

 隣で話を聞いていた六花が、手を挙げた。

 

「六花?」

 

「君一人じゃ絶対死ぬし。それに、パパの話聞いてたらムカついてきた。……そんな胸糞悪い儀式、私がぶっ壊してやる」

 

 彼女のオッドアイが、強い意志で輝いていた。頼もしい。けれど、巻き込んでいいのか。

 

「ん、いいよ。六花の課外授業にはちょうどいいレベルだ」

 

 五条さんはあっさりと許可した。過保護なのか放任主義なのか分からない。

 

 彼は立ち上がり、棚から一つのケースを取り出して、僕に投げ渡した。

 

「餞別だ。貸してやるよ」

 

 受け取ったのは、黒いサングラスだった。彼のトレードマーク。

 

「見てはいけないものを見そうになったら、それをかけな。……少しは『正気』を保てるはずだ」

 

「あ、あとねぇ」

 

 ホシノさんが、のそりと起き上がり、一枚のメモを僕に手渡した。

 

「山の中腹に、面白い『お姉さん』が住んでるから。……困ったら、そこに行きなよ。これ(紹介状)見せれば、多分助けてくれるから」

 

 メモには、丸っこい字で『小鳥遊ホシノ 紹介状 ※お菓子持参推奨』と書かれていた。

 

「……わかりました。行きます」

 

 僕はサングラスと地図を握りしめ、覚悟を決めた。

 

 時は週末。

 場所は、地図から消された禁足地、黒山。

 目的は、呪いの解除と、家族の救出。

 

 こうして、僕と六花の、最初で最後の(になってほしい)晩秋の大冒険が幕を開けた。

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