土曜日の早朝。曇り。境港市、黒山(くろやま)の麓。後で知ったがかつて市役所の職員・坂口さんが車を停め、そして二度と戻らなかった獣道の入り口に、僕たちは立っていた。
「……うわ。外から見てる時は分からなかったけど、一歩入ると全然空気が違うね」
隣でリュックを背負った小鳥遊六花が、鼻をつまんで言った。同感だ。湿度が異常に高い。山の中のはずなのに、磯の腐ったような臭いと、鉄錆の臭いが充満している。肌にまとわりつく空気は、まるで「ここから先は人間の領域じゃない」と警告しているようだ。
「……行くよ、六花ちゃん」
「うん。……あ、その前にアレかけて。いきなり『精神汚染』食らうかも」
六花に促され、僕はポケットから「黒いサングラス」を取り出した。五条悟さんから借りた餞別。僕は震える手でそれをかけ、目を開いた。
「──ッ!?」
世界が、一変した。ただの薄暗い藪だと思っていた風景が、鮮明な「情報の奔流」に置き換わった。木々の輪郭が青いラインで強調されている。地面から立ち上る「瘴気」が、赤い煙として視覚化されている。
そして、その赤い煙が薄い場所に、一本の「青い道筋(ルート)」が浮かび上がっていた。
「す、すげえ……」
「パパの『六眼(りくがん)』の簡易版みたいな術式が組み込んであるんだって。脳への負担すごいから、必要な時以外は外してね」
「うん、わかった。……こっちだ。安全な道が見える」
僕はナビゲーターとして先頭を歩き出した。足元の泥はぬかるんでいるが、サングラスの指示通りに足を置けば、深く沈み込むことはない。
まるで、誰かが作った攻略サイトを見ながらダンジョンを歩いている気分だ。最強の男のアイテム、恐るべし。
◇
中腹あたりまで登った時だった。
ガサガサッ!
サングラスの視界の端で、藪の色が「警告色(真っ赤)」に変わった。何かが来る。
「蓮くん、下がって」
六花が僕の前に出るのと同時だった。藪の中から、野犬ほどの大きさの塊が飛び出してきた。
「うわっ!?」
それは、泥でできたヤドカリのような化け物だった。背中には貝殻の代わりに、古びた「黄色い工事用ヘルメット」を背負っている。ヘルメットの下から、ヘドロの触手が伸び、僕たちを捕らえようと迫る。
怖い。足がすくむ。だが、六花は微動だにしなかった。
「……汚いなぁ。洗濯したばっかりなのに」
彼女は面倒くさそうに呟くと、迫りくる泥の触手に向かって、軽く右足を振り上げた。
ドォォン!!
軽い蹴り。そう見えた。だが、発生したのはダンプカーが衝突したような衝撃音だった。泥の怪異は、悲鳴を上げる暇もなく弾け飛んだ。
背負っていたヘルメットが砕け散り、泥の体は霧散して消滅する。
「……えぇ……」
僕は口をあんぐりと開けた。呪術も、超能力も使っていないように見えた。ただの「蹴り」だ。物理(フィジカル)が強すぎる。
「ママ(ホシノ)に比べたらデコピンレベルだよ。……さ、行こ。道案内お願い」
六花はズボンの埃を払い、何事もなかったかのように歩き出した。僕は改めて思い知った。この子は、あの「最強夫婦」の娘なのだと。
◇
さらに進むと、周囲の霧が晴れ始めた。腐臭が消え、代わりに凛とした清浄な空気が漂ってくる。
視界が開けた先に、それはあった。鮮やかな朱色の鳥居。掃き清められた石畳。そして、静寂に包まれた拝殿。
「……神社? こんな山奥に?」
僕は呆然とした。地図には載っていない。サングラス越しに見ると、この神社の周囲には、目が痛くなるほど高密度の「結界(白い光の壁)」が張り巡らされている。
「……ねえ、蓮くん」
「なに?」
「あの巫女服……見覚え、あるよね?」
六花が指差した先。境内の真ん中で、一人の少女が竹箒を持って立っていた。長い黒髪。頭には、巨大な赤いリボン。袖が胴体から分離している、特徴的な紅白の巫女装束。
僕と六花は顔を見合わせた。2013年。僕たちはオタク知識を持つ転生者だ。あの姿を知らないはずがない。
「「……博麗霊夢!?」」
声が重なった。東方Projectの主人公。博麗の巫女。なんで? なんで二次元キャラがここにいるの? ここは幻想郷じゃないぞ。
少女──霊夢らしき人物は、僕たちの声に反応して振り返った。その目は、あからさまに不機嫌そうだった。
「……何よ、朝っぱらから。ガキんちょの遊び場じゃないわよ、ここは」
声までイメージ通りだ。彼女は箒を構え、威圧的な視線を向けてくる。
「帰りなさい。賽銭を入れる気がないなら、塩撒くわよ」
「あ、あの! 違います!」
僕は慌ててリュックを下ろし、ホシノさんから預かったメモを取り出した。
「紹介状を持ってきました! 小鳥遊ホシノさんの紹介です!」
「は? ホシノ?」
霊夢さんは眉をひそめ、メモを受け取った。そして、その内容を見た瞬間、彼女の顔色がサッと青ざめた。
「……『最強夫婦』の紹介? げっ、あいつらの関係者!?」
彼女は僕たちの顔を交互に見た。特に、六花の方を見て「うわ、あの白髪男(五条)の面影がある……」と引きつった笑みを浮かべた。
どうやら、過去に何かあったらしい。
「そ、それで? 用件は何? まさかまた道場破り(物理)に来たんじゃないでしょうね?」
「い、いえ。……これ、つまらないものですが」
僕は追い打ちをかけるように、五条さんから託された「銀座の高級和菓子(桐箱入り)」を差し出した。
瞬間。霊夢さんの表情が、能面のような無表情から、春の日差しのような満面の笑みに変わった。
「あら〜! よく来たわね! 立ち話もなんだから、お茶淹れるわ! 上がっていって!」
……チョロい。いや、現金だ。
僕と六花は、呆気にとられながらも、この「博麗神社」の敷居をまたぐことになった。
◇
社務所の縁側。
出されたお茶(少し出がらし)を啜りながら、僕は事情を説明した。
そして、あの「呪いの地図」をテーブルに広げた。
「……なるほどね」
霊夢さんは高級最中を齧りながら、地図を一瞥した。
「これ、この神社の裏にある『コンクリートの塊(トーチカ)』の地図ね」
「知ってるんですか?」
「ええ。嫌でも目に入るもの」
彼女は湯呑みを置き、黒山の方角を指差した。
「この山の下にはね、巨大な空洞があるの。……ううん、正確には『穴』ね。この世界と、ヘドロみたいな異界を繋ぐ風穴」
「異界……」
「昔の政府だか軍だかが、それを埋めようとしたみたいだけど、失敗した。だから、コンクリートで無理やり蓋をして、結界で縫い付けた。……それが、アンタたちが探してる『場所』よ」
五条さんの言っていた通りだ。
彼女は、その「蓋」の管理者(あるいは監視者)として、ここに流れ着いたのかもしれない。
「でも、最近その蓋が緩んでるの。……アンタの持ってるその地図、ただの紙くずじゃないわよ」
霊夢さんの目が鋭くなった。
「それは、蓋を開けるための『管理者権限(キー)』であり、次の生贄を指定する『招待状』。……前の持ち主、ロクな死に方しなかったでしょ?」
「……はい」
「アンタ、それ持っててよく正気でいられるわね。……ま、そのサングラスのおかげかしら」
彼女は僕のサングラスを見て、フンと鼻を鳴らした。
「で? どうしたいの? まさか『中に入りたい』なんて言わないわよね?」
「……入りたいんです。入って、この契約を破棄しないと、家族が死ぬんです」
僕は頭を下げた。
「お願いします。そこまで案内してください」
霊夢さんは少し沈黙し、残りの最中を口に放り込んだ。
「……いいわよ。お菓子も貰ったし、最近あそこの『泥』が漏れ出して、神社の参道が汚れて迷惑してたのよ」
彼女は立ち上がり、壁にかかっていた大麻(おおぬさ)を手に取った。
「案内してあげる。……ただし、私は中には入らないわよ。私が干渉すると、術式が喧嘩して山ごと吹き飛ぶからね」
◇
霊夢さんの先導は、頼もしいを通り越して「災害」だった。
「──夢想封印!」
彼女が霊符を投げるたびに、道中の泥怪異たちが光に包まれて蒸発していく。
六花の「蹴り」も凄かったが、こっちは「本職」の浄化だ。僕と六花は、ただ彼女の後ろをついていくだけでよかった。
そして、10分ほど歩いた先。森の奥深くに、その異様な建造物はあった。
木々の中に埋もれるように存在する、巨大なコンクリートの塊。表面には無数のお札が貼られ、その全てが潮風でボロボロに風化している。周囲の地面は、真っ白な塩の結晶で覆われ、草木一本生えていない。
死の世界。
ここが、呪いの発生源だ。
「……ここよ」
霊夢さんが足を止めた。彼女は、塩の境界線の手前で立ち止まる。
「これ以上近づくと、私の霊力が蓋の術式を刺激しちゃう。……ここから先は、『契約者』の領分よ」
僕の懐で、地図が熱を持った。
ドクン、ドクンと脈打つように震えている。
ギギギ……ギギギギ……。
誰の手も触れていないのに、トーチカの重厚な鉄扉が、悲鳴のような音を立てて内側へと開き始めた。
中からは、腐った海藻のような生臭い風が吹き出してくる。
「うわ、臭っ」
六花が顔をしかめる。僕は足が震えた。
この中に入るのか? この、地獄の入り口みたいな場所に?
「……あの、霊夢さん」
「なによ」
「僕(契約者)が入るのは分かるんですけど……小鳥遊さんは? 彼女も契約者になったんですか?」
素朴な疑問だった。
「部外者が入ると暴走する」なら、六花もダメなんじゃないか?
霊夢さんは呆れたように肩をすくめた。
「あの子は例外。……っていうか、存在自体が『バグ』みたいなものだから、結界システムが人間として認識してないのよ。アンタの『装備品』か『使い魔』扱いね、きっと」
「使い魔扱いかぁ。ま、パパの血のおかげかな」
六花は気にせず笑っている。
「行こう、蓮くん。ちゃっちゃと終わらせて帰ろ。ママが夕飯にお寿司とってくれるって言ってたし」
彼女は僕の背中をポンと叩いた。その手の温かさが、唯一の救いだった。
「……はい」
僕は五条さんのサングラスの位置を直し、覚悟を決めた。地図を握りしめ、塩の境界線を踏み越える。
背後で、霊夢さんが入り口を確保するために結界を張る音が聞こえた。もう戻れない。僕たちは、暗黒の口を開けたトーチカの中へと、足を踏み入れた。