仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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007 螺旋階段とモブの矜持

 

 ズゥゥゥン……。

 

 重厚な鉄扉が、僕たちの背後で閉じた。完全に、光が遮断された。そこは、自分の手のひらさえ見えないほどの絶対的な闇だった。唯一、六花が持つペンライトだけが当たりを薄く照らしている。

 

 生暖かい風が、下から吹き上げてくる。湿度は100%に近い。まるで生き物の内臓の中にいるような、不快な粘り気を含んだ空気だ。

 

「……六花ちゃん、大丈夫?」

「ん、平気。……蓮くん、スイッチ入れて」

 

 闇の中で、小鳥遊六花の声だけが頼りだ。僕は震える指で、五条さんから借りたサングラスのサイドフレームをタップした。

 

 ピ・ウン。

 

 電子音が鳴り、視界が緑色に染まった。暗視モード(ナイトビジョン)。光増幅機能によって、闇の中に沈んでいた空間の輪郭が、ボウっと浮かび上がる。

 

「……うわ」

 

 僕は息を飲んだ。そこは、僕が想像していたような「洞窟」や「神社の地下」ではなかった。

 

 コンクリート打ちっぱなしの壁。錆びついた鉄の手すり。そして、果てしなく下へと続く、無機質な「螺旋階段」。

 

 壁には、剥がれかけたペンキで『B1F』『B2F』という階層表示があり、その上から乱暴に『封印』『立入禁止』『危険』と書かれたお札が、何百枚もベタベタと貼られている。

 

 近代的な設備と、土着的な呪術。その二つが混ざり合い、腐敗している。ここは、ただの遺跡じゃない。誰かが「管理」しようとして、放棄した場所だ。

 

「……降りよう。気をつけて、足元滑るよ」

 

 六花が先に立って歩き出した。僕も慌てて続く。カツ、カツ、という足音が、緑色の螺旋階段に反響し、どこまでも落ちていく。

 

 

 何階分降りただろうか。B8Fを過ぎたあたりから、空気の味が変わった。鉄錆の臭いが消え、代わりに強烈な「磯の腐臭」が鼻をつく。

 

 そして、聞こえてきた。

 

 ……ピチャッ、ピチャッ……

 

 水音。誰かが、濡れた足で階段を登ってくるような音。いや、違う。音は下からだけじゃない。壁から、天井から、染み出してくる。

 

『……蓮』

 

 心臓が跳ねた。耳元で、懐かしい声がした。

 

『蓮……痛いよ、苦しいよ……』

 

 母さんの声だ。いつも店番をしながら、「おかえり」と言ってくれる、あの優しい声。それが、溺れているように湿って、掠れている。

 

『どうして……どうして助けてくれないの……?』

『お父さんはもうダメだ……蓮、お前だけでも逃げろ……』

 

 今度は父さんの声だ。苦悶に満ちた声。

 

「と、父さん!? 母さん!?」

 

 僕は足を止めた。手すりから身を乗り出し、暗闇の底を覗き込む。緑色の視界の奥、階段の底に、二人の姿が見えた気がした。泥まみれになって、僕に向かって手を伸ばしている。

 

「待ってて! 今行くから!」

 

 僕は駆け出した。助けなきゃ。契約なんてどうでもいい。今すぐ下へ行って、二人を引き上げないと。

 

 バシッ!!

 

 背中に、強烈な衝撃が走った。誰かに叩かれたのだ。

 

「……え?」

 

 振り返ると、六花が冷ややかな目――いや、「青く光る右目」で僕を見下ろしていた。

 

「正気になって。それ、幻聴だよ」

 

「で、でも! 今、父さんと母さんの声が……!」

 

「違う。この空間に充満してる『泥』が、君の記憶を読み取って再生してるだけ」

 

 六花は僕の胸ぐらを掴み、耳元で強く囁いた。

 

「君の両親は、まだ店にいる。……これは、君を『こっち側』に引きずり込むための罠だ。騙されないで」

 

 彼女の言葉が、脳に染み渡る。

 ハッとした。

 サングラス越しに見えていた「泥まみれの両親」の姿が、揺らめいて消える。そこにあったのは、ただの壁の染みだけだった。

 

「……ごめん。ありがとう、小鳥遊さん」

 

「いいよ。……パパのサングラスかけててもこれか。相当、濃度が高いね」

 

 彼女は僕の手を引き、強く握った。その手は細かったけれど、震えてはいなかった。

 

 

 螺旋階段が終わり、広い通路に出た。

 そこはかつて、「制御室(コントロールルーム)」だった場所のようだ。

 

 壁一面に埋め込まれた計器類。並んだデスク。破壊されたコンピューターの残骸。床には書類が散乱し、椅子が転がっている。まるで、全員がパニックになって逃げ出した直後のような惨状だ。

 

 僕は足元に落ちていた、分厚いファイルの一冊を拾い上げた。表紙には、『極秘』の印と共に、こう書かれていた。

 

『黒山アノマリー・エネルギー転用計画 進捗報告書』

『作成:内閣府・対アノマリー対策室(分室)& J-GOC技術開発局』

 

「……エネルギー転用?」

 

 ページをめくる。そこに書かれていたのは、狂気じみた実験の記録だった。

 

 『黒山の地下空洞から湧き出る「泥(高密度霊体)」を熱源として利用する』

 『タービンによる発電、および生体兵器への応用実験』

 『制御失敗。汚染拡大。……職員の半数が「泥」に同化』

 『最終手段として、人為的な「生贄」による物理封鎖(蓋)を実行する』

 

「……最低だ」

 

 僕は吐き気を堪えた。ここは、怪異を封印するための神聖な場所なんかじゃない。人間が、欲のために「禁忌」に手を出し、失敗して、その尻拭いを無関係な人間に押し付けた……ただの「ゴミ捨て場」だ。

 

 坂口さんも、この計画の隠蔽のために殺されたんだ。そして今、僕の家族も、その「蓋」の材料にされようとしている。

 

「パパが嫌うわけだね」

 

 六花が、壊れたモニターを蹴り飛ばしながら言った。

 

「『上層部』の連中、自分たちの失敗を隠すために、また新しい生贄を探してるんだ。……腐ってる」

 

 彼女のオッドアイが、怒りで揺らいでいる。僕も同じ気持ちだった。恐怖は、怒りに変わった。

 

「行こう、小鳥遊さん。……こんなふざけた契約、絶対に破棄してやる」

 

 制御室の奥。分厚い防爆扉の向こうに、元凶がある。僕たちは、最後の扉を開けた。

 

 

 防爆扉の先は、巨大なドーム状の地下空洞だった。

 

 広い。野球場がすっぽり入るほどの広さだ。そして、その底には「海」があった。

 

 真っ黒な、粘度のある液体。それが、ドロリ、ドロリと波打ちながら、空洞の底を満たしている。

 

《前日譚で坂口が見た「穴」の正体》

 

 サングラスの暗視モード越しに見ると、その泥の海からは、無数の「赤い手」が空に向かって伸びているように見えた。

 

 そして、その泥の海の中心。一本の細い通路(キャットウォーク)が伸びており、その突端に、「白い柱」が立っていた。

 

「……あれが、今の『蓋』か」

 

 僕たちは通路を進んだ。両側は泥の海だ。落ちたら終わりだ。

 

 柱に近づくにつれ、その異様さが明らかになった。それは、大理石やコンクリートの柱ではなかった。

 

 塩だ。大量の岩塩と、コンクリートと、お札でガチガチに固められた円柱。

 そして、その中心には……。

 

「……うッ」

 

 僕は口元を押さえた。

 柱の表面から、「人の服の一部」や「骨のようなもの」が覗いている。一人分じゃない。何人もの人間が、コンクリートと一緒に練り込まれ、圧縮され、この「栓(プラグ)」にされている。

 

 これが、この国の一部の人たちが守ろうとしている「平和」の裏側か。

 

 僕が柱の前に立つと、懐の「地図」が燃えるように熱くなった。

 

 ドクン! ドクン!!

 

 心臓の鼓動と共鳴する。地図が、目の前の「古い柱(限界を迎えた契約)」を否定し、新しい契約――つまり「僕」を求めて振動しているのだ。

 

 ゴゴゴゴゴ……!

 

 泥の海が波打ち始めた。柱に向かって、黒い波が這い上がってくる。

 

「……蓮、聞こえるか?」

 

「お前が、新しい『蓋』か?」

 

「楽になれるぞ。混ざれば、楽になれるぞ」

 

 今度は幻聴じゃない。物理的な振動として、泥の中から無数の声が響いてくる。研究員たちの怨念か。生贄たちの嘆きか。

 

「来るよ、蓮くん! その柱、もう限界だ!」

 

 六花が叫んだ。

 

 バキバキバキッ!!

 

 目の前の塩の柱に、亀裂が走った。中から、黒い液体が噴水のように吹き出す。塩が崩れ落ち、コンクリートが砕け散る。

 そして、その瓦礫と泥を巻き込みながら、巨大な影が立ち上がった。

 

 泥の巨人。

 

 大きさは5メートル以上あるだろうか。不定形の体に、無数の「人間の顔」が浮かんでは消えている。頭部には、目も鼻もない。ただ、ぽっかりと開いた空洞があるだけだ。

 

「■■■■■■――ッ!!」

 

 巨人が咆哮した。その衝撃波だけで、僕たちは吹き飛ばされそうになる。

 

「うわああああっ!?」

 

「チッ、物理判定ありかよ!」

 

 六花が舌打ちし、僕の前に立った。彼女はジャケットを翻し、低い姿勢で構える。武器はない。その身一つだ。

 

「私が時間を稼ぐ! 蓮くんは『契約』を破棄して!」

 

「は、破棄ってどうやって!?」

 

「その地図! それが『鍵』であり『バックアップ』だ! それを燃やすか破壊すれば、術式がリセットされるはず!」

 

 巨人の腕が、丸太のような太さで振り下ろされた。六花はそれを避けない。

 

「――フンッ!!」

 

 彼女は正面から、その泥の腕を受け止めた。巨人と比べるとあまりにも矮小な少女が、巨大な質量を押し留める。地面の金網が悲鳴を上げ、火花が散る。

 

「は、早くしろ! 私でも、長くは持たない!」

 

 六花の声が震えている。相手は「山」そのものだ。いくら彼女でも分が悪い。

 

 僕は震える手で、ポケットから百円ライターを取り出した。地図を燃やす。これで、全てが終わる。

 

 カチッ。火がつかない。湿気だ。この空間の湿度が、火を許さない。

 

「くそっ、つけ! ついてくれよ!」

 

 カチッ、カチッ、カチッ!

 火花が散らない、炎にならない。

 その間にも、泥の巨人は六花を押し潰そうと圧力を強めていく。

 

「グゥ……ッ! パパ譲りの『無限』バリアも、この濃度じゃキツい……!」

 

 六花の足元の金網が歪み、彼女のブーツが沈み込む。

 絶体絶命。

 出口は背後の通路一本のみ。逃げれば助かるかもしれない。でも、逃げれば家族は死ぬ。六花も危ない。

 

 やるしかない。

 僕はライターを投げ捨て、別の方法を考えた。燃やせないなら、どうする?破る? いや、この和紙は鉄のように硬くて破れない。

 

 その時、視界の端に、崩れ落ちた柱の残骸の中に、一本の「杭」のようなものが見えた。

 

(あれだ……!)

 

 五条さんの言葉を思い出す。『契約を破棄(地図を燃やすか、杭を抜くか)してくればいい』

 

 僕は地図を強く握りしめ、六花が支えている巨人の脇をすり抜けて、崩壊する柱へと走った。

 

「蓮くん!?」

 

「信じて待ってろ、小鳥遊さん! 僕がケリをつける!」

 

 泥の海が、僕の足首を掴む。それでも僕は止まらない。ただの一般人(モブ)の意地を、今、見せてやる。

 

 

 

 

 足が重い。一歩踏み出すたびに、黒い粘液が靴底に絡みつき、引きずり込もうとする。

 

 背後では、巨大な泥の巨人と、小鳥遊六花の死闘が続いていた。衝撃波が背中を叩く。六花がどれだけ強くても、相手は「山」そのものだ。時間はもう残されていない。

 

 僕は、崩れかけた塩の柱の残骸へと飛び込んだ。コンクリート片と岩塩の山。その中心に、それはあった。

 

 一本の、古びた木の杭。測量用の標柱のようだが、表面にはびっしりと、血と泥で名前が刻まれている。『安田』『坂口』……そして、読み取れないほど古い名前たち。歴代の生贄(契約者)たちの墓標だ。

 

「……これか!」

 

 僕が杭に手を伸ばした、その瞬間だった。懐に入れていた「地図」が、勝手に飛び出した。まるで磁石に引かれるように、地図は杭に張り付き、赤黒く発光し始めた。

 

 ジュワッ……!

 

 地図の表面に、文字が浮かび上がる。

 『次期管理者:佐藤蓮』

 『契約更新:承認』

 

 ドクン!

 心臓が跳ねた。杭から、どす黒い意志が流れ込んでくる。

 

『……蓮。いい子だ』

 

『お前がここに入れば、全て終わる』

 

『家族も助かる。街も救われる。お前は英雄になれるんだ』

 

 甘い声。

 脳髄を溶かすような、母の声に似た囁き。泥の海が歓喜するように波打ち、僕の足首から膝へと這い上がってくる。

 

(そうだ……僕が犠牲になれば、みんな助かるんだ……)

 

(転生したのに、何も成せなかった僕が、最後に「誰かのため」に死ねるなら……)

 

(それは、まるで「主人公」みたいじゃないか……)

 

 意識が遠のく。泥の温かさが、心地よく感じる。

 このまま沈んでしまえば、楽になれる――。

 

「……蓮くんッ!!」

 

 六花の悲鳴のような声が聞こえた。

 ハッとした。

 振り返ると、彼女は泥の巨人の拳を受け止めながら、血を吐くように叫んでいた。

 

「死ぬな! 君は、まだ何も始めてないだろッ!!」

 

 その言葉が、僕の目を覚まさせた。

 そうだ。僕はまだ、何もしていない。ただ流されて、巻き込まれて、ここまで来ただけだ。ここで死んだら、僕は「悲劇のヒーロー」ですらない。「可哀想な犠牲者A」で終わるだけだ。

 

 ふざけるな。誰がそんな役、引き受けるか。

 

「……断る」

 

 僕は震える膝に力を込めた。泥が驚いたように動きを止める。

 

『……なぜだ? 英雄になれるのだぞ? 物語の主役になれるのだぞ?』

 

「……僕は、主人公じゃない」

 

 僕は笑った。

 恐怖で顔を引きつらせながら、それでも精一杯の虚勢を張って、泥の神様に言い返した。

 

「僕は、ただの『モブ』だ。……酒屋の息子で、成績も普通で、運動も苦手な、どこにでもいるモブだ!」

 

「モブはな、物語の都合で勝手に死んだりしない。しぶとく、地味に、日常へ帰るんだよッ!!」

 

 僕はポケットから、五条悟さんから借りた「サングラス」を取り出した。本来は、かけることで「過剰な情報」を遮断し、脳を守るためのアイテム。

 

 なら、これを「相手」にかけたらどうなる?契約の核である「杭」に、情報を遮断する蓋をしたら?

 

「五条さんの『六眼』の力……喰らえッ!!」

 

 僕はサングラスを自分の目ではなく、目の前の「杭」に強引に被せた(押し付けた)。

 

 ブォンッ……!!

 

 空間が歪んだ。杭に張り付いていた地図が、激しく明滅する。

 

 サングラスの効果は劇的だった。

 このサングラスは、五条悟という規格外の情報を制御するためのもの。それを被せられた杭は、霊的な視覚(契約者の認識)を強制的に遮断されたのだ。

 

『……見えない? どこだ? 管理者はどこだ!?』

 

 泥の声が焦りだす。目の前に僕がいるのに、契約システムは僕を認識できない。「管理者不在」のエラー。

 そして、行き場を失った契約のエネルギーが、暴走を始める。

 

 ジジジジジ……ボッ!!

 

 杭が赤熱し、その熱量に耐えきれず、地図が発火した。

 今度こそ、青白い霊的な炎となって燃え上がる。

 

「燃えろ……! 全部燃えてなくなれッ!!」

 

 僕は熱さを堪えて、サングラスごと杭を押さえつけた。

 地図が灰になっていく。坂口さんの無念も、歴代の生贄たちの呪縛も、全てが炎の中に溶けていく。

 

 そして、契約の供給が断たれたことで、背後の巨人の動きが止まった。

 

「……ナイス、蓮くん!」

 

 六花がニヤリと笑った。彼女の右目が、青く澄んだ光を放つ。

 

「これで、終わりッ!!」

 

 六花が全霊力を込めた拳を、巨人の胴体に叩き込む。

 

 ズドンッ!!

 

 巨人の体が内側から破裂した。悲鳴のような音と共に、泥の巨人は崩れ落ち、ただの汚い水となって飛散した。

 

 

 契約は破棄された。

 それは同時に、この地下空間を維持していた「蓋」が消滅したことを意味していた。

 

 ゴゴゴゴゴゴ……!

 

 地響きが鳴り響く。天井に亀裂が走り、パラパラと瓦礫が落ちてくる。

 

「……やばい、崩れる!」

 

 僕は六花のもとへ駆け寄った。出口である螺旋階段は、すでに瓦礫で埋まっている。

 退路がない。泥の海の水位が上がり、海水が激流となって流れ込んでくる。

 

「蓮くん、上!」

 

 六花が指差した天井。

 そこから、何か巨大なものが降ってきた。瓦礫ではない。白と黒の、球体。

 

 巨大な陰陽玉。

 

 それは僕たちの頭上で急停止すると、半透明のバリアを展開し、落下してくる岩盤を弾き飛ばした。

 

『まったく、派手にやったわね! ウチの神社の床が抜けそうじゃない!』

 

 陰陽玉から、通信機越しのような霊夢さんの怒鳴り声が聞こえた。

 式神(リモート操作)だ!

 

『ほら、とっとと捕まりなさい! 上まで直通の「エレベーター」を用意したわよ!』

 

『ただし、運賃(追加料金)は高くつくからね!』

 

「……あの守銭奴巫女、最高だ!」

 

 僕と六花は顔を見合わせ、泥だらけの手を取り合った。

 そして、上昇する水流に乗って、陰陽玉の結界へと飛び込んだ。

 

 視界が白く染まる。重力から解放され、僕たちは光の中へと吸い込まれていった。

 

 

 ザパァーン!!

 

 水柱と共に、僕たちは地上へと吐き出された。場所は、博麗神社の裏手にある古井戸。

 そこから勢いよく飛び出し、神社の境内に転がった。

 

「……げほっ、げほっ!」

 

「……うへぇ、泥の味がする」

 

 僕たちは泥まみれになって、石畳の上に大の字になった。

 空には、美しい朝焼けが広がっていた。あの湿った、腐ったような空気は消え、清々しい朝の風が吹いている。

 

「あーあ、最悪。境内が泥だらけじゃない」

 

 竹箒を持った霊夢さんが、呆れた顔で見下ろしていた。

 その足元では、古井戸の入り口に、新しい「注連縄(しめなわ)」と「お札」が厳重に巻かれている。

 彼女が再封印したのだ。

 

「……あの、霊夢さん」

 

「なによ」

 

「地下があんなに崩れたのに……山が沈んでないのは、どうしてですか?」

 

 僕は起き上がりながら、周囲を見渡した。

 地下には東京ドーム程の空洞があったはずだ。それが崩壊したなら、この黒山全体が陥没していてもおかしくない。

 なのに、地面は微動だにせず、木々は何事もなかったように風に揺れている。

 

 霊夢さんは、ふっと遠くを見た。

 

「……勘違いしてるわよ、アンタたち」

 

「え?」

 

「あの地下施設はね、人間が勝手にこの山の『毛穴』の一つに寄生して作った、ただのニキビみたいなものよ」

 

 彼女は、朝霧に煙る黒山の山頂を見上げた。

 

「この山は……『黒山』はね、もっと昔から、それこそ人間が歴史を刻む前からここに『在る』の」

 

「地下が崩れようが、中身が腐ろうが、この山自体はビクともしない。……むしろ、異物を吐き出してスッキリしたんじゃない?」

 

 彼女の言葉に、僕は寒気を覚えた。

 政府の陰謀すら、この山にとっては「些細な出来事」だったということか。

 黒山。

 その名前の由来は、僕たちが触れた怪異とはまた別の、もっと深淵にある何かなのかもしれない。

 

 

 週明け。月曜日。

 僕は重い足取りで学校へ向かっていた。

 

 家に帰った時、両親は「あら蓮、朝帰り? 若いねぇ」と笑っていた。

 店のガラスの手形は綺麗に消え、あの湿った封筒も消滅していた。

 日常は戻った。

 坂口さんのことは「悲しい事故」として処理されたままだが、少なくとも「呪い」の連鎖は断ち切られた。

 

 昼休み。屋上。

 いつもの場所で、小鳥遊六花がイチゴオレを飲んでいた。彼女は僕を見つけると、少し照れくさそうに、でもハッキリと笑いかけた。

 

「……お疲れ、相棒(パートナー)」

「……勘弁してよ」

 

 僕はため息をつきつつ、彼女の隣に座った。

 ポケットの中には、泥を拭き取って綺麗にしたサングラスが入っている。これは後で、骨董店に返しに行かなきゃいけない。

 

「また何かあったら、誘ってあげる」

 

「もう懲り懲りだよ。僕は平和に生きたいんだ」

 

 そう言いながらも、僕の口元は少し緩んでいた。

 

 僕は主人公じゃない。特別な力もない、ただのモブだ。

 でも、世界の理不尽に抗って、日常を勝ち取ったモブだ。

 

 青い空を見上げる。

 遠くに見える黒山は、今日も静かにそこに在る。いつかまた、あの山が牙を剥く日が来るかもしれない。

 

 その時は、また逃げずに戦おう。

 最強の相棒と、少しの勇気を持って。

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