鳥取県、大山(だいせん)。
西日本最大級のスキー場を擁するこの山は、冬になると一面の銀世界となる。
僕たち境港市の小学生にとって、冬の「スキー林間学校」は恒例行事だ。
しかし、今年の林間学校は最初からケチがついていた。記録的な大寒波による猛吹雪。バスは遅れに遅れ、宿に到着したのは日が暮れてからだった。さらに悪いことに、宿の手違い(ダブルブッキング)で部屋が足りないという。
「えー、佐藤。……すまんが、お前は旧館の方に行ってくれ」
先生が申し訳なさそうに言った。くじ引きの結果、僕を含む数名の男子が、本館から渡り廊下で繋がった「旧館(離れ)」に回されることになったのだ。
旧館は、明治時代に建てられたような木造建築だった。歩くたびに床がギシギシと鳴り、カビと防虫剤の混ざった古臭い匂いがする。
そして、僕に割り当てられたのは、一番奥の角部屋。『404号室』だった。
「……ベタすぎるだろ」
僕はため息をつきながら、重い引き戸を開けた。中は六畳の和室。薄暗い裸電球。色あせた畳。そして、床の間にはなぜか、等身大に近い古びた市松人形が飾られている。
不気味極まりないが、僕は「モブ」だ。文句を言ってトラブルを起こすより、大人しく寝て過ごす方が性に合っている。
◇
荷物を解き、キッズスマホ(防犯ブザー付き)を充電しようとした時だった。
部屋の中央にある座卓の上に、一枚の紙が置かれているのに気づいた。
それは、ホテルの案内のような立派なものではなく、手書きの文字をラミネート加工した、古ぼけたパウチだった。端が焦げたように茶色く変色し、所々に赤黒いシミがついている。
『当館・旧館にお泊まりのお客様へ 〜快適にお過ごしいただくために〜』
「……ルール?」
最初は、消灯時間や食事の場所が書いてあるだけだと思った。
しかし、読み進めるうちに、背筋が凍りつくのを感じた。
【絶対に守ってください】
午後4時以降、障子および窓を絶対に開けないでください。
外からどのような声が聞こえても、です。ここは2階ですが、彼らに高さは関係ありません。
床の間にある人形(キクちゃん)と目を合わせないでください。
もし目が合ってしまった場合は、すぐに備え付けの白い布を被せ、「見ませんでした、ごめんなさい」と三回謝ってください。彼女は恥ずかしがり屋です。
部屋の四隅を確認してください。
もし、天井の隅に「赤いシミ」があった場合、その部屋は現在使用できません。すぐにフロントへ……いえ、動かずに目を閉じて、朝が来るのを待ってください。
深夜、廊下を「重いものを引きずる音」がしても、決してドアを開けないでください。
それはスキー客ではありません。清掃員でもありません。ただ通り過ぎるのを待ってください。
もし、窓ガラスを「コン、コン」と優しく叩く音がしたら、
無視してください。それは風の音です。
もし、窓ガラスを「ドンドン!」と激しく叩く音がしたら、
即座に電気を消し、布団を頭まで被って、朝まで息を殺してください。絶対に中に入れてはいけません。
彼らは招待されるのを待っています。
洗面所の蛇口から「黒い水」または「髪の毛」が出た場合、
騒がないでください。しばらく出しっぱなしにすれば、また透明に戻ります。
備え付けの黒電話が鳴った場合、受話器を取らないでください。
この部屋の電話線は、数年前に切断されています。繋がっているのは「下」だけです。
もし、夜中に布団の中で「誰かの手」に触れた場合、
握り返さないでください。それはあなたの手ではありません。
このルール表を裏返さないでください。
「……なんだこれ」
悪質な悪戯書きか?それとも、ホラー好きな宿主のジョークか?
しかし、文章から漂う「必死さ」と、紙に染み付いた異様な気配が、僕の本能に警鐘を鳴らしていた。
ゴーン……ゴーン……
遠くで、お寺の鐘のような音が響いた。
午後4時だ。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
湿度が上がり、カビの臭いが濃くなる。
そして、閉め切った障子の向こう――窓の外から、「視線」を感じ始めた。
ここは2階だ。ベランダはない。なのに、障子に「人の形をした影」が映っている。
「……嘘だろ」
僕は動けなかった。影はゆらゆらと揺れながら、何かを探すように障子を撫でている。
ズズッ……ズズッ……
摩擦音。濡れた手が、ガラスを擦る音。
僕は慌ててルール表を見た。
『1. 午後4時以降、障子および窓を絶対に開けないでください』
僕は息を殺し、座卓の下に隠れた。
モブの生存戦略その1。「気づかないフリをする」。主人公ならここで「誰ですか?」と声をかけるだろう。でも僕は違う。僕はただの背景だ。石ころだ。だから、あの影は僕に気づかないはずだ。
◇
30分ほど経過しただろうか。
影は諦めたのか、いつの間にか消えていた。僕は震える手でキッズスマホを取り出した。誰かと話したい。六花ちゃんでも、先生でもいい。
アンテナは……圏外。
山奥の、しかも吹雪の中だ。電波が入るわけがない。
その時、視界の端で何かが動いた。
床の間だ。市松人形の首が、さっきと違う方向を向いている。
こっちを見ている。
「ヒッ……!」
目が合った。
黒いガラス玉のような瞳が、じっと僕を見つめている。口元が、微かに歪んで笑っているように見えた。
『2. もし目が合ってしまった場合は、すぐに備え付けの白い布を被せ……』
僕は飛び起きた。床の間の脇に、確かに白い布が畳んで置いてあった。それを掴み、震える手で人形に被せる。
「見ませんでした、ごめんなさい」
「見ませんでした、ごめんなさい」
「見ませんでした、ごめんなさい……!」
三回唱える。
心臓が早鐘を打つ。布の下の人形が、微かに「クスクス」と笑ったような気がした。
逃げ出したい。でも、廊下に出るのも怖い。本館に戻るには、あの長く暗い渡り廊下を通らなければならない。
僕は布団を敷き、頭から被って震えることにした。夕食なんてどうでもいい。とにかく朝が来るのを待つんだ。
その時。
枕元にあった、コードの切れた黒電話が、突然鳴り響いた。
ジリリリリリリリリリリリ!!
鼓膜を劈くようなベルの音。
昭和の音が、静寂を切り裂く。
取ってはいけない。絶対に。
僕は耳を塞いだ。しかし、音は止まない。
そして、電話のベルの音に混じって、受話器から「声」が漏れ聞こえてくる。
『……あ……けて……』
『……さむ……い……』
『……うしろ……』
後ろ?
僕は反射的に振り返りそうになり――思い止まった。
『10. このルール表を裏返さないでください』
机の上のパウチ。もし裏返したら、そこに何が書いてある?
いや、考えるな。僕はモブだ。好奇心なんて持っちゃいけない。
◇
深夜2時。
外の吹雪は激しさを増し、旧館は唸るような風の音に包まれていた。僕は布団の中で、キッズスマホの画面の明かりだけを頼りに震えていた。
ピロン♪
奇跡的に電波が入った。
六花ちゃんからのメッセージだ。
六花:『ねえ蓮くん、生きてる?』
六花:『先生たちが騒いでる。「旧館の404号室なんて、部屋番号自体が存在しないはずだ」って』
六花:『そこ、どこなの?』
メッセージを読んだ瞬間、全身の血が引いた。
存在しない部屋?
じゃあ、僕は今どこにいるんだ?狐につままれたのか、それとも最初から「あちら側」に入り込んでしまったのか。
その時。
廊下の奥から、音が聞こえてきた。
ズズッ……ズズッ……
ズズッ……ズズッ……
重いものを、濡れた床で引きずるような音。
ルール4だ。
『ソリを引きずる音』。いや、あれはソリじゃない。人間だ。
人間の死体を引きずっているのか、あるいは下半身のない人間が這っているのか。
音は、僕の部屋の前で止まった。
……コン、コン。
窓ガラスが叩かれた。
優しく、遠慮がちな音。
ルール5。「無視してください」。
僕は息を止める。
無視だ。風の音だ。木の枝が当たっただけだ。
……コン、コン、コン。
……佐藤くん、起きてる?
声がした。
クラスメイトの女子、高橋さんの声だ。
……入れてよぉ。寒いの。先生が呼んでるの。
……ねえ、開けて。
心が揺らぐ。
もし本当に高橋さんが遭難して、助けを求めていたら?
外はマイナス10度の吹雪だ。数分で凍死する。
開けるべきか? 助けるべきか?
いや、待て。ここは2階だ。窓の外に足場はない。どうやって立っている?
それに、声がおかしい。抑揚がない。まるで、録音された音声を切り貼りしたような、機械的な喋り方だ。
……アケテ。サトウクン。アケテ。
声が変わった。
野太い男の声と、子供の甲高い声が混ざった、ノイズのような音声。
ドンドン!!
ドンドン!! ドンドン!!
激しい叩き音。
窓ガラスが割れそうなほどの衝撃。
ルール6だ。『即座に電気を消し、布団を被って朝まで息を殺してください』
僕は素早く豆電球の紐を引き、部屋を完全な闇にした。そして布団を頭から被り、ダンゴムシのように丸まった。
ドンドンドンドンドンドンドン!!
「アケロ! アケロ! イルンダロ!?」
「モブ! モブ! モブ!」
なぜ僕がモブだと知っている?こいつは、僕の心の声を聞いているのか?
布団の隙間から、冷たい空気が入ってくる。誰かの手が、布団の端を掴んでいる気がする。
『9. もし、夜中に布団の中で「誰かの手」に触れた場合、握り返さないでください』
足元に、冷たくて濡れた「手」の感触がある。僕の足首を掴もうとしている。悲鳴を上げたい。暴れたい。
でも、僕は動かない。僕は石だ。ただの背景だ。物語に干渉しない、無機物だ。
「…………」
僕は必死に、昨日の夕飯のメニュー(カレー)のことだけを考え続けた。
恐怖を思考から追い出す。認識しなければ、怪異は存在しない。
それが、僕なりの「対抗策」だった。
◇
永遠に続くかと思われた夜。
しかし、終わりは唐突に来た。
チュン、チュン……。
小鳥のさえずり。
叩く音が止んだ。引きずる音も消えた。障子が白く明るくなっている。
僕は恐る恐る布団から顔を出した。部屋の中は、静まり返っていた。
机の上のルール表は、昨日のままそこにある。床の間の人形は、白い布を被ったままだ。ただ、その布だけが、「泥水に浸したように」ぐっしょりと濡れて、床に黒いシミを作っていた。
ガラッ。
不意にドアが開いた。
「おーい、佐藤! 朝飯だぞー!」
先生だ。
生身の、人間の先生だ。
僕は緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだ。
「……先生」
「なんだお前、顔色が悪いぞ。よく眠れなかったか?」
「……はい、まあ。風の音がうるさくて」
僕は嘘をついた。
本当のことを言っても信じてもらえない。それに、「ルール」については誰にも話してはいけない気がした。
「そうか。まあ、今日は晴れたからスキー日和だぞ! 準備しろよ」
先生は能天気に笑って出て行った。部屋番号がないとか、そんな話はどうなったんだ?
まあいい。生きて帰れるなら。
僕は荷物をまとめ、逃げるように部屋を出た。
最後に一度だけ、振り返る。
朝日で明るくなった窓ガラス。その外側に、びっしりと付着しているものが見えた。
無数の、泥の手形。
人間のものとは思えないほど指が長く、そして爪が鋭い手形が、ガラス一面を埋め尽くしていた。
もし、あの時開けていたら。
もし、布団から出ていたら。
僕は身震いし、ドアを閉めた。
机の上のルール表。最後に見えたその裏面には、赤い文字で一言だけ、こう透けて見えた気がした。
『みつけられなくて、ざんねん』
僕は二度と振り返らず、本館へと走った。
大山の冬は、美しいけれど、二度と一人では来たくない。