実在の場所が出てきますが、我々の世界のそれとは関係ありません。
朝食会場である本館の大広間。
僕は食欲のないまま、冷めた味噌汁を啜っていた。周りの生徒たちは昨夜の猛吹雪のことなど忘れ、今日のスキー実習の話題で盛り上がっている。
「……蓮くん」
背後から声をかけられた。小鳥遊六花だ。彼女は僕の顔を見るなり、眉をひそめた。
「顔色、死人みたいだよ。……昨日の夜、大丈夫だった?」
「大丈夫なわけないだろ。……メッセージ送ったのに、なんで既読スルーしたんだよ」
僕は少し恨めしげに言った。電波が悪かったとはいえ、六花なら物理で壁を壊してでも助けに来てくれると思っていたのに。
「……行けなかったんだよ」
六花は真顔で答えた。
「メッセージを送った直後、男子棟(旧館)へ続く渡り廊下が『消えた』の」
「は? 消えた?」
「うん。壁になってた。物理的に。……先生たちに言っても『最初から壁だった』って言うし。……朝になったら、また廊下が戻ってた」
背筋が寒くなった。
昨夜、僕は空間ごと隔離されていたのか。
そこに、担任の先生が通りかかった。
「おーい佐藤、ちゃんと食ってるかー?」
「あ、先生。……あの、僕の部屋、404号室のことなんですけど……」
「ん? お前の部屋は『204号室』だろ? 何寝ぼけてるんだ」
先生は不思議そうに首を傾げた。
「旧館なんてボロいとこ、今は倉庫になってて使ってないぞ。……お前、昨日はずっと本館の部屋で寝てただろ?」
僕は言葉を失った。
記憶が書き換えられている?いや、僕のポケットには、まだあの「ルール表(の切れ端)」が入っている。
あれは夢じゃない。
「……蓮くん。足出して」
六花が急に言った。僕はズボンの裾を捲り上げた。
そこには、昨夜「誰かの手」に掴まれた感触があった足首に、どす黒い「泥の手形」がくっきりと痣になって残っていた。
「……憑いてるね。それも、かなり悪質なのが」
六花は忌々しげに言った。
「スキーなんかしてる場合じゃないよ。……この近くに、日本最大級の権現造りの社殿を持つ『大神山神社(おおがみやまじんじゃ)』がある。そこへ行こう」
◇
僕と六花は「腹痛」を理由にスキー実習を欠席し、宿を抜け出して神社へ向かった。
大山の麓にある大神山神社・奥宮。
そこへ至る道は、日本一長いと言われる「石畳の参道」だ。
雪に覆われた杉並木。静寂に包まれた自然石の道。
本来なら厳かな雰囲気の場所だが、今の僕には「異界への入り口」にしか見えない。
「……ねえ、六花ちゃん」
「なに?」
「さっきから、歩いても歩いても……門が見えないくんだけど」
僕たちはもう30分以上歩いているはずだ。
なのに、景色が変わらない。同じ形の杉の木。同じ形の灯籠。
まるで、ループしているみたいだ。
「……妨害工作か」
六花が足を止めた。
彼女は雪の上に手をかざし、何かを探るように目を閉じる。
「昨日の『アレ』が、蓮くんを逃がしたくないみたい。……空間を歪めて、社殿に辿り着かせない気だ」
ザッ、ザッ、ザッ……。
背後から、足音が聞こえた。雪を踏む音。
振り返ると、誰もいない。ただ、真っ白な雪道に、「裸足の足跡」だけが、僕たちに向かって増えている。
「来てる!」
「走るよ、蓮くん!」
六花が僕の手を引いて駆け出した。
石畳が歪む。杉の木が、生き物のように枝を伸ばして道を塞ごうとする。
「邪魔だッ!!」
六花が跳躍し、迫りくる枝を回し蹴りでへし折った。物理除霊(物理)。
彼女のおかげで道が開く。
「見えた! 鳥居だ!」
霧の向こうに、巨大な明神鳥居と、その奥に鎮座する荘厳な社殿が見えた。
結界の境界線だ。
……ニガサナイ。
……モブノクセニ。
耳元で声がした。
足首の痣が焼けるように熱い。
泥のような何かが、地面から湧き出して僕の足を掴む。
「うわっ!?」
「蓮くん!」
僕は転倒した。
泥が体を這い上がってくる。昨日の夜と同じ、あの湿った感触。
引きずり込まれる。参道の石畳の下へ。
「離せぇぇぇッ!!」
僕は必死に抵抗した。
モブだからって舐めるな。僕はここでお祓いを受けて、温かいココアを飲んで帰るんだ!
六花が僕の腕を掴み、強引に引き上げた。
そして、泥に向かってポケットから取り出した「塩(昨日の朝食のゆで卵用)」を全力で叩きつけた。
ジュワァァァッ!!
泥が悲鳴を上げて縮んだ。
その隙に、僕たちは鳥居を潜り抜けた。
◇
鳥居を潜った瞬間、空気が一変した。
凛とした神気が満ち、背後の気配が嘘のように消え失せた。
「……はぁ、はぁ、助かった……」
「危なかったね。……さ、社務所に行こう」
僕たちは社務所に駆け込み、お祓いを頼んだ。
出てきたのは、白髪の厳めしい神主さんだった。
彼は僕の顔を見るなり、眉間に深い皺を刻んだ。
「……小僧。お前、どこで『それ』を拾ってきた」
「えっ」
「死人の泥だ。……それも、百年以上前の、深い地層に眠る怨念だ」
神主さんは僕の足首の痣を見て、忌々しげに吐き捨てた。
やはり、あの旧館はただのボロ宿じゃなかったんだ。
「お祓いはできますか?」
「……完全に落とせるかは分からんが、引き剥がすことはできる。……こっちへ来い」
僕たちは本殿に通され、正式な御祈祷(厄除け)を受けることになった。
太鼓の音。祝詞の声。大麻(おおぬさ)が振られる音。
背中が重い。
何かがしがみついている。「帰りたくない」「寒い」「暗い」という声が、頭の中で反響する。
カッ!!
神主さんが大声を上げ、僕の背中をバシッと叩いた。
瞬間、体が軽くなった。足首の熱さも消えた。
「……ふぅ。なんとか離れたか」
神主さんは額の汗を拭い、息をついた。
「だがな、小僧。……これは『仮』の処置だ」
「え?」
「お前は一度、あちら側に招かれた。……その『招待状』は、魂に刻まれている。また似たような場所に行けば、すぐに奴らは寄ってくるぞ」
神主さんは僕に、特別なお守り(木札)を渡してくれた。
「肌身離さず持っておけ。……それと、二度と興味本位で『閉ざされた場所』に近づくな。お前みたいな『隙間のある人間(※転生者特有の違和感)』は、格好の餌食なんだからな」
◇
お祓いを終え、僕たちは参道を下った。
帰りは、驚くほどスムーズだった。ものの10分で入り口に到着し、迎えに来てくれた先生の車に乗って宿に戻った。
その夜は、何事もなく本館で眠ることができた。泥の手形も消えていた。
翌日。
林間学校を終え、帰りのバスの中。僕は窓の外を流れる雪景色を眺めていた。
「……とりあえず、一安心かな」
隣の席の六花ちゃんが、あくびをしながら言った。
「そうだね。……怖かったけど、なんとかなったよ」
僕はポケットの中の、神主さんから貰ったお守りを握りしめた。
そして、もう一つ。処分し忘れていた、あの「ルール表の切れ端」に触れた。
捨てよう。
帰ったらすぐに、燃えるゴミに出そう。
ふと、バスがトンネルに入った。
窓ガラスが暗くなり、僕の顔が映る。その肩越しに。
ニヤリと笑う、市松人形の顔が一瞬だけ見えた気がした。
「……え?」
振り返る。
誰もいない。ただの後部座席だ。トンネルを抜け、再び光が戻る。
「どうしたの? 蓮くん」
「……いや、なんでもない」
僕は深く座り直した。神主さんは言っていた。「お前は招かれた」と。
もしかしたら。
僕の日常(モブライフ)は、もうとっくに「あちら側」と繋がってしまっているのかもしれない。
バスは境港市へと走る。
日常への帰還。
しかし、その日常は、以前よりも少しだけ「影」が濃くなっているような気がした。