7月下旬。
鳥取県米子市から境港市にかけて広がる、白砂青松の美しい海岸線──弓ヶ浜海水浴場。
日本海とは思えないほど穏やかな波と、どこまでも続く白い砂浜。
夏真っ盛りのこの日、ビーチは極彩色のパラソルと、溢れんばかりの海水浴客で埋め尽くされていた。
その喧騒を見下ろす、一基の監視塔。そこに、真っ赤なライフセーバーパンツ一丁で仁王立ちする男がいた。
境第2小学校5年3組担任、鵺野鳴介である。
「……暑い。そして、腹が減った」
鵺野は双眼鏡を覗きながら、乾いた唇を舐めた。彼の懐事情は、この夏の猛暑と同様に過酷だった。給食のない夏休みは、独身貧乏教師にとって食費との戦いである。
さらに、妻であり同僚の高橋律子先生を「境港みなと祭り」の花火大会に誘うための軍資金も必要だった。
ゆえに、彼はこの炎天下、日当8000円の監視員のアルバイトに精を出しているのだ。
「だが……悪いことばかりでもないな」
鵺野の視線が、双眼鏡越しに波打ち際へ向けられる。そこには、色とりどりの水着に身を包んだ女性客たちの姿があった。
「おおっ、今年のトレンドはフリル付きか……! むっ、あちらの大胆なカットも捨てがたい……! いかんいかん! 俺は教師だ! 聖職者だ! ……だが、男としての本能がぁっ!」
煩悩と倫理観、そして空腹。三つの業火に焼かれながら、地獄先生は今日も海を守っていた。
その時だった。ビーチの一角が、ざわめき始めた。
「……おい、見ろよあの子」
「うわ、すっげぇ美人……」
「モデルか? それとも海外の女優?」
視線の集中砲火を浴びながら、波打ち際を歩いてくる二人組がいた。いや、周囲の目には「一人」しか映っていなかったかもしれない。
小鳥遊六花。
彼女の出で立ちは、小学5年生という枠を遥かに逸脱していた。
漆黒のホルターネックビキニ。五条家の遺伝子を継ぐ彼女の四肢は、驚くほど長く、そして陶器のように白い。引き締まったウエスト、成長期を先取りしたような発育の良いプロポーション。濡れた銀髪をアップにまとめ、白いうなじを露わにし、顔半分を大きなサングラスで隠しているその姿は、どこからどう見ても「クールなモデル系女子高生」にしか見えなかった。
「……暑い。蓮くん、カキ氷買ってきて」
「はいはい。いちごでいい?」
その隣には、佐藤蓮がいた。
量販店で買った、無地で特徴のない紺色の海パン姿。彼は六花のすぐ横を歩いているのだが、あまりにも周囲の風景──白い砂浜や背景の松林──に溶け込みすぎており、誰からも認識されていない。
まるで、六花が独り言を喋っているかのように見えていた。
「……ねえ六ちゃん。僕、また『透明人間』扱いされてるんだけど」
「便利でいいじゃん。……あ、あそこの監視塔。先生がいる」
六花はサングラスを少しずらし、蒼い瞳で塔の上の鵺野を見上げた。
その圧倒的なオーラに、監視塔の鵺野も思わず双眼鏡を落としそうになった。
「……なっ、なんだあの超絶美女は!? 外国人モデルか!? ……って、よく見たらウチのクラスの小鳥遊じゃないか──っ!?」
鵺野は絶叫した。
小学生があの水着は刺激が強すぎる。教育的指導が必要か、それとも拝むべきか。彼の脳内会議は紛糾した。
◇
六花たちは、監視塔から少し離れた場所にパラソルを広げた。蓮が海の家へ買い出しに行っている間、六花はデッキチェアに寝そべり、優雅に文庫本(内容は量子物理学)を読んでいた。
当然、そんな「極上の獲物」を、夏の獣たちが放っておくはずがない。
「ねー、お姉さん。一人?」
声をかけてきたのは、チャラついた大学生風の男三人組だった。日焼けした肌に、派手なサーフパンツ。典型的なナンパ師だ。
「……」
六花は無視してページをめくる。
「つれないなぁ。俺ら車で来てるんだよね。この後、ドライブ行かない? 米子の方に美味い店あるんだよ」
「……興味ない。邪魔(ど)いて」
六花は冷たく言い放つ。その拒絶さえも魅力的で、男たちはさらに食いついた。
「まあまあ、そう言わずにさ! ほら、喉渇いてるっしょ? これあげるよ!」
リーダー格の男が、クーラーボックスからキンキンに冷えたボトルを取り出した。
『トロピカル・ピーチ・スパークリング』
見た目は可愛らしいジュースだが、その実態はアルコール度数5%の甘いカクテルだった。
「これ、めっちゃ美味いから! 奢るって!」
「……」
六花はサングラス越しにボトルを見た。喉は渇いている。蓮はまだ戻ってこない。鼻を近づけると、人工的な桃の香りがした。
(……フルーツの匂い。ジュースか)
前世の記憶を持っていても、頭(脳)はまだまだ未熟な小学生。
そして何より、彼女には父親譲りの「致命的な弱点」があった。
「……じゃあ、一口だけ」
六花はストローを口にくわえ、その液体を吸い上げた。甘い炭酸が喉を潤す。
しかしその直後、食道を灼くような違和感が奔った。
「……ん?」
異変は、即座に現れた。
ほんの数口飲んだだけで、六花の白い肌が、みるみるうちに桜色に染まっていく。視界が揺らぐ。世界がフワフワと浮遊し、思考の輪郭が曖昧になる。
(……あれ? なんか、地球の自転、速くなってない?)
彼女は下戸だった。それも、匂いで酔うレベルではないが、コップ一杯で前後不覚になるタイプの、質の悪い下戸だ。
「お、顔赤くない? 酔っちゃった?」
「かーわいー! チャンスじゃん」
男たちがニヤリと笑い、六花の左右に座り込んだ。一人が六花の二の腕に、もう一人が腰に手を伸ばす。
「ねー、ちょっとあっち行こうよー。静かなとこでさー」
その手が、六花の肌に触れようとした、その時。
ピタリ。
男たちの指先が、肌の数センチ手前で静止した。
いや、止まったのではない。進んでいるのに、届かないのだ。
「……え?」
「は? なんだこれ」
男たちは力を込めた。しかし、そこには見えない「壁」があるかのように、指が進まない。
どれだけ近づこうとしても、その距離が無限に分割され、永遠に到達しない。
『無限』。
アキレスと亀のパラドックスが、現実空間に具現化していた。
「……んぅ?」
六花が、トロンとした瞳で男たちを見上げた。
彼女はケラケラと笑い出した。
「……あはは。君たち、遅いねぇ」
「な、なんだよこれ!?」
「止まって見えるよ。……もっと速く動いてみなよ。ほら、ほら」
酔った六花は、無意識に「無下限呪術」を展開していた。
普段は制御している自動防御が、アルコールの影響で暴走し、周囲の空間を歪め始めていたのだ。
さらに悪いことに、酔った六花から漏れ出る強大な呪力は、甘く濃厚な香りを放っていた。
それは、海の底に潜む「何か」を呼び寄せるには十分すぎた。
ゴゴゴゴゴゴ……
突如、波打ち際が隆起した。
悲鳴が上がる。海面から姿を現したのは、バスほどもある巨大な赤黒い影。無数の吸盤を持つ、太い触手。
「ギョエエエエッ!? バケモノだーッ!!」
「タ、タコ!? イカ!?」
大王イカの妖怪(クラーケン)の出現である。
男たちの邪な欲望と、六花の呪力に引き寄せられた怪物は、その長い触手を唸らせ、砂浜を襲撃した。
ビタンッ!!
触手が砂浜を叩き、水着の女性客を追いかけ回す。ヌルヌルとした足がパラソルをなぎ倒し、逃げ惑う人々の足に絡みつく。
まさに阿鼻叫喚、そして(少年誌的にギリギリの)パニック絵図。
「六ちゃん! 大変だ!」
カキ氷を持って戻ってきた蓮が、その惨状を見て叫んだ。しかし、酔っ払った六花の反応は斜め上だった。
「……あ」
六花はふらりと立ち上がり、巨大なイカを指差した。
その瞳は、キラキラと輝いている。
「……焼きイカだ。おっきい」
「えっ」
「……こっちおいでー。焼いてあげるー」
六花が右手を前に突き出す。
その指先に、蒼い光が収束していく。
「術式順転・『蒼(あお)』」
瞬間。
空間に「負の引力」が発生した。掃除機どころではない。ブラックホールのような吸引力が、一点に向かって全てを引きずり込む。
ズゴオオオオッ!!
砂、パラソル、ナンパ男たち、そして巨大イカまでもが、六花の掌に向かって猛烈な勢いで吸い寄せられた。
「わーっ! 六ちゃんバカ! 吸引力が強すぎる! ビーチごと吸い込む気!?」
蓮が必死にパラソルにしがみつく。
このままでは、怪物どころか海水浴場が消滅してしまう!
「生徒に何をするッ! 鬼の手ッ!!」
その時、赤い閃光が走った。
監視塔から飛び降りた鵺野が、空中で左手の黒手袋を噛み千切る。顕現した「鬼の手」が、巨大イカの眉間(?)めがけて炸裂した。
ドゴォォォォンッ!!
強烈な霊撃を受け、イカの妖怪は白目を剥いた。
同時に、六花の『蒼』の吸引によってバランスを崩し、沖の方へと吹き飛んでいった。
「……ふぅ。間一髪だったな」
着地した鵺野は、鬼の手を戻しながら息を吐いた。そして、吸い寄せられて転がっているナンパ男たちの元へ歩み寄る。
「……おい」
地獄の底から響くような声。鵺野の背後には、まだ鬼のオーラが揺らめいている。
「未成年の生徒に、酒を飲ませたのは貴様らか?」
「ひ、ひぃぃッ! ごめんなさいぃぃッ!」
男たちは腰を抜かし、脱兎のごとく逃げ出した。彼らが落としていった財布が、砂の上に寂しく残された。
「……くっ、この財布の中に、焼肉数回分の金が……」
鵺野は財布を拾い上げ、プルプルと震えていた。悪人から巻き上げた金だ。ネコババしてもバチは当たらないのではないか?
いや、しかし。
「……俺は教師だ! 生徒の手本にならねばならん!」
彼は血の涙を流しながら、財布を持って最寄りの交番(臨時の監視所)へと走った。
数分後。
正直に財布を届けた鵺野の姿に、浜茶屋のおばちゃんが感動していた。
「あんた、立派だねぇ! 今どき珍しいよ!」
「いえ、当然のことをしたまでです(お腹空いた……)」
「これ、持っていきな! 売れ残りの焼きそばとフランクフルト! 全部あげるよ!」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!!」
神は見ていた。
あるいは、地獄の鬼もたまには情けをかけるのかもしれない。鵺野は山盛りの食料を抱え、生徒たちの元へ戻った。
◇
夕暮れ時。
茜色に染まる弓ヶ浜の波打ち際で、三人は並んで焼きそばを食べていた。
六花は頭を押さえ、うずくまっている。
「……うぅ。頭痛い。気持ち悪い。世界が回る」
「自業自得だよ。……はい、水」
蓮がペットボトルの水を渡す。酔いは覚めたようだが、二日酔いが彼女を襲っていた。
「……二度とお酒飲まない。ジュースも疑って飲む」
「それがいい。……しかし小鳥遊」
鵺野はフランクフルトを齧りながら、困ったような顔で六花を見た。
「お前、その水着……小学生にしては刺激が強すぎるぞ。先生、目のやり場に困るんだが」
「……」
六花はジロリと鵺野を睨んだ。
「……先生。それセクハラ。パパに言いつける」
「ひええっ! それだけは勘弁してくれぇ!!」
最強の術師・五条悟に睨まれたら、妖怪退治どころではない。鵺野は砂下座(砂の上での土下座)の勢いで謝った。
「ま、大事にならなくてよかったですよ」
蓮は笑いながら、溶けかけたカキ氷を口に運んだ。
「僕の『存在感のなさ』も、通報係としては役に立ちましたしね」
「……お前、いたのか佐藤」
「ずっといましたよ!」
波音が静かに響く。
妖怪騒ぎも、ナンパ騒動も、全ては海に流されていく。
金欠教師と、最強少女と、モブ少年の夏休みは、まだ始まったばかりだった。