自分を岸辺露伴だと思っている『パチモノ(そっくりさん)』
僕は「リアリティ」こそが作品に命を吹き込むと信じている。漫画を描く上で最も重要なのは、想像力ではない。取材だ。実際に見て、聞いて、肌で感じた「事実」だけが、読者の心を震わせるのだ。
だが、この湿気はどうだ。
「……暑い。不快だ」
2014年8月某日。
鳥取県、境港市。妖怪漫画の大家・水木しげる先生の出身地として知られるこの港町は、日本海から吹き付ける湿った風と、真夏の太陽によって蒸し風呂のような状態になっていた。
僕、岸部魯般(きしべ・ろはん)は、額に滲む汗をハンカチで拭いながら、担当編集者との会話を思い出していた。
――『先生、鳥取に行ってみませんか? 面白い噂があるんです』
編集者の和泉くんは、カフェでアイスコーヒーを飲みながら言った。
――『境港の海岸、弓ヶ浜半島って言うんですけど。そこの海岸には、満月の夜にだけ「黒い砂」が混じるそうなんです』
――『黒い砂? なんだいそれは。弓ヶ浜といえば日本有数の砂鉄の産地の下流だろ? ただの砂鉄じゃあないのか?』
僕はクロッキー帳を閉じずに聞いた。ありふれた自然現象なら取材の価値はない。
――『いえ、そういったものではなくてですね。もっとこう、粘り気があって、まるで生き物みたいな砂らしいんです。地元のお年寄りは「影の砂」って呼んでるらしくて……それを持ち帰ると、「失くした記憶」が戻るらしいんですよ』
失くした記憶。
その言葉が、僕の琴線に触れた。僕は「転生者」だ。前世の記憶はおぼろげに持っているが、この世界で「岸部魯般」として生まれ変わる瞬間の記憶や、前世の詳細な人生の記録は曖昧だ。
いや、自分自身の記憶はどうでもいい。
「記憶を取り戻した人間が、どういう顔をするのか」。
その瞬間の「リアリティ」が見たい。
「……フン。来てやったぞ、境港。ここにあるのはリアリティか、それともただの観光地の法螺話(ホラ)か」
僕はスケッチブックを小脇に抱え、妖怪ブロンズ像が立ち並ぶ「水木しげるロード」へと足を踏み入れた。
水木しげるロードは、観光客でごった返していた。
道の両脇には、大小様々な妖怪のブロンズ像が鎮座している。
「鬼太郎」、「ねずみ男」、「一反木綿」……。
どれも精巧な作りだ。職人の魂を感じる。
「……ほう。この『あかなめ』の質感、悪くない。舌のぬめり感が金属で見事に表現されている」
僕は歩きながら、気になった像を片っ端からスケッチしていった。
ペンを走らせる音だけが、僕の世界の全てになる。周囲の喧騒など耳に入らない。
だが、ある一体の像の前で、僕はペンを止めた。
それは通りの外れ、少し影になった場所に置かれた、名もなき妖怪の像だった。解説プレートもない。何かのっぺりとした、不定形の怪物を模した像だ。
「……妙だな」
僕は像に顔を近づけた。
他の像は、炎天下で乾いている。
だが、この像だけが、濡れていた。
「結露か? いや、気温は35度を超えている。結露するはずがない」
僕は指先で、その濡れた表面を拭った。
ネチャリ。
糸を引くような粘度。そして、鼻を突く微かな獣臭。これは水ではない。脂汗(あぶらあせ)だ。金属の塊が、脂ぎった汗を流している。
「……グレートだ。実に興味深い」
生理的な嫌悪感よりも、好奇心が勝った。
なぜブロンズ像が汗をかく? 内部に何かが入っているのか? それとも、この像自体が「生きている」のか?
確かめずにはいられない。
僕は周囲に人がいないことを確認し、右手を掲げた。
僕の持つギフト、「ヘブンズ・ドアー(天国の扉)」本来なら、知性を持つ人間にしか通じない能力だ。だが、僕の直感が告げている。
この像には、本にできるだけの「物語(リアリティ)」が詰まっていると。
「ヘブンズ・ドアー!」
僕が空中で指を振るうと、ブロンズ像の「顔」にあたる部分が、パカリと音を立ててめくれ上がった。
成功だ。やはり、ただの金属塊ではなかった。
僕は本になった像の顔を覗き込んだ。
そこには、びっしりと細かい明朝体で、文字が書き込まれていた。
『私は、この町の鋳物職人である。名は無い』
『私は、究極のリアリティを求めた。妖怪とは何か。それは人の恐怖の具現化だ』
『恐怖を形にするには、恐怖を知る者の形を使うのが一番だ』
『だから私は、自分自身を鋳型(いがた)にすることにした』
読み進めるうちに、僕の背筋に冷たいものが走った。
『熱い。溶けた銅が流し込まれる。皮膚が焼ける。肉が溶ける』
『だが、動いてはならない。完璧なポーズを維持しなければならない』
『私は妖怪になるのだ。永遠に残る芸術になるのだ』
『完成した。私はブロンズの中で生きている。永遠に』
『暑い。ここは暑い。誰か、冷やしてくれ。誰か、出してくれ』
「……狂気だな」
僕は呟いた。
この像は、職人が自らの体を犠牲にして作った、いわば「即身仏」のようなものだったのだ。汗をかいていたのは、中に閉じ込められた魂が、この猛暑に耐えかねて悲鳴を上げているからだ。
その時。
ページの中に、新しい文字がインクのように滲み出してきた。
『見ているな?』
『お前、私を見ているな?』
「……ッ!」
ガシッ!
本になっていない像の「腕」が動き、僕の手首を強く掴んだ。万力のような力だ。ギリギリと骨が軋む。
『代われ。お前が代われ。その体、涼しそうだ』
『私を出せ。お前が入るんだ』
像の口が裂け、うめき声のような音が漏れる。
普通の人間なら、ここでパニックになり、腰を抜かすだろう。
だが、僕は岸部魯般だ。この程度の怪異、漫画のネタとしては「中の下」だ。
「……おいおい。取材中だぞ。手を離せ」
僕は冷静に、左手のペンを走らせた。捕まっている右手ではなく、本になっている「顔」のページへ。
余白に、命令を書き込む。
『この像は、芸術家・岸部魯般のデッサンモデルとして、完璧に静止し続ける』
『決して、岸部魯般の取材を妨害しない』
書き込んだ瞬間。像の腕から力が抜け、カタリと元の位置に戻った。汗は相変わらずダラダラと流れているが、もうピクリとも動かない。
「……ふん。いい『素材』だったが、汗かきなのが玉に瑕だな」
僕は手首の脂をハンカチで拭い取ると、動かなくなった像を様々な角度からスケッチし、満足してその場を去った。
職人の執念には敬意を表するが、僕の体を提供する義理はない。
日が暮れると、境港の湿気は少しだけ和らいだ。
僕は本命の取材対象である「弓ヶ浜」へと向かった。
美しい孤を描く海岸線。空には満月が浮かび、海面を怪しく照らしている。波の音だけが響く静寂の世界だ。
「……さて。噂の『黒い砂』とやらはどこにある?」
僕はスマホのライトを頼りに、波打ち際を歩いた。足元の砂は白い。時折、砂鉄が混じって灰色に見える場所もあるが、「黒い砂」と呼べるほどの異物感はない。
しばらく歩いていると、遠くの方で小さな光が見えた。
花火だ。
二人の子供が、手持ち花火をして遊んでいる。
「……こんな時間に子供だけで花火か。親は何をしている」
僕は目を凝らした。
一人は、サングラスをかけた奇妙な少女。夜だというのにサングラスをしている。その全身からは、月光とは違う「青白い燐光」のようなものが立ち昇っているように見えた。
もう一人は、少年のようだが……妙に影が薄い。目を離すと、そこにいることすら忘れてしまいそうなほど、存在感がない。
「……フン。最近の子供はファッショナブルだな」
僕は興味を失い、視線を足元に戻した。彼らは彼ら、僕は僕だ。取材の邪魔さえしなければどうでもいい。
――だが、僕は気づいていなかった。
あの二人が、ある特定の場所を「あえて避けて」遊んでいたことに。
まるで、そこに「触れてはいけないもの」があることを知っているかのように。
「……ん? あそこだけ、色が違うな」
僕の足が止まった。
波打ち際から少し離れた場所に、墨汁を流したような、ドス黒い闇色の砂溜まりがあった。直径にして1メートルほど。周囲の砂とは明らかに質感が違う。湿っているのに、サラサラと流動している。
「見つけたぞ……。これが『黒い砂』か」
僕は息を呑んだ。直感が告げている。これは鉱物ではない。有機物だ。まるで無数の微小な虫が集まっているような、生理的な不快感と、抗いがたい魅力。
「失くした記憶が戻る……か」
僕は躊躇なく、その黒い砂に手を伸ばした。リアリティのためなら、恐怖など二の次だ。
僕の指先が、黒い粒子に触れた。
その瞬間。
ドクンッ!
心臓が早鐘を打ち、視界がブラックアウトした。
いや、暗転ではない。猛烈な勢いで、脳内に「映像」が流れ込んできたのだ。
――満員電車。湿ったスーツの匂い。
――上司の怒声。理不尽な納期。
――コンビニの廃棄弁当の味。
――深夜のアニメ鑑賞だけが唯一の救いである、独身男性の狭いアパート。
「……なんだ、これは」
僕はその映像に見覚えがあった。
いや、見覚えがあるどころではない。これは、かつて僕が体験した「人生」そのものだ。
この世界で「岸部魯般」として目覚める前の、前世の記憶。
名もなきサラリーマンとして生き、何者にもなれずに死んだ、凡庸な男の記録。
『……思い出せ』
『お前は、天才などではない。ただの凡人だ』
『漫画など描かなくていい。苦しまなくていい。ただ消費して、眠ればいい』
黒い砂が、指先から血管へと侵入し、囁いてくる。
これは「記憶を取り戻す」のではない。現在の「岸部魯般」という人格を、かつての「凡人」の記憶で塗りつぶし、才能を枯渇させる呪いだったのだ。
「……フン。なるほどな」
僕は意識の中で、その「凡庸な人生」を俯瞰(ふかん)していた。普通なら発狂するか、あるいは懐かしさに浸って取り込まれるところだろう。
だが、僕は違った。
「面白いじゃないか」
僕はニヤリと笑った。
確かに、華やかさのかけらもない人生だ。だが、その「どうしようもない閉塞感」! 「将来への漠然とした不安」! そして「些細な娯楽にすがる哀れさ」!これこそが、現代社会に生きる人間の「リアリティ」だ!
「素晴らしい素材だ! この『満員電車で足を踏まれた時の、殺意と諦めが入り混じった感情』……創作では描けない味がある!」
僕は感動に打ち震えた。この記憶は使える。次の作品の主人公は、この冴えない男をモデルにしよう。
『……え?』
黒い砂の意志が、一瞬たじろいだ気がした。
「だが――」
僕は侵食されかけた右手を高く掲げた。月光の下、僕の腕は肘まで真っ黒に染まり、皮膚が砂のように崩れ落ちていた。
「僕が『そっち』に戻るのは御免だね」
僕は、他人の人生(たとえ前世の自分だろうと)を観察するのは好きだが、自分がその舞台に立たされるのは我慢ならない。
僕は「描く側」だ。「描かれる側」にはならない。
『戻れ……戻れ……お前は凡人だ……』
砂の侵食が加速する。思考が鈍り、ペンを持つ指の感覚が消えていく。物理的な攻撃ではない。概念的な「上書き」だ。
このままでは、僕はここで「岸部魯般」であることを忘れ、ただの抜け殻になってしまうだろう。
「……いいだろう。力比べといこうか」
僕は残った左手でペンを抜き、侵食されている自分の右腕に切っ先を突き立てた。
「ヘブンズ・ドアー!」
ズブリ。
自分の皮膚を裂く感触と共に、右腕が本になってめくれた。ページの中は、凄惨なことになっていた。元々書かれていた『岸部魯般』という文字が、黒いインクのようなシミに塗り潰され、その上に汚い字で『ただの男』『才能なし』と上書きされていたのだ。
「……汚い字だ。読みにくい」
僕は顔をしかめた。この黒い記述は、修正液でも消えないだろう。砂そのものがページに食い込んでいる。
「なら、こうするしかあるまい」
僕は左手で、汚されたページを掴んだ。躊躇(ためら)いはない。
ビリィッ!!
激痛が走った。僕は自分の腕のページを、物理的に引きちぎった。肉が裂け、鮮血が舞い散る。
だが、それと共に、侵食していた「黒い記述」も体から切り離された。
『ギャアアアアアッ!?』
砂が悲鳴を上げた。自分の体を破壊してまで拒絶するとは、想定外だったのだろう。
「ハァ……ハァ……痛いな。だが、スッキリした」
僕は血に濡れたページに、震える左手で新たな命令を書き込んだ。失った皮膚の代わりに、魂を刻むように。
『岸部魯般は、あらゆる体験を漫画のネタにする』
『たとえ前世の記憶だろうと、それは「作品の素材」に過ぎない』
『岸部魯般は、何者にも塗り潰されない』
書き終えた瞬間。本がバタリと閉じた。
右腕に残っていた黒い砂が、恐怖に駆られたようにサラサラと崩れ落ち、波打ち際へと逃げていく。
「……逃げるのか? まだ取材は終わっていないぞ」
僕が追おうとすると、砂は一目散に海中へと没し、二度と姿を現さなかった。浜辺には、静かな波音と、僕の荒い呼吸音だけが残された。
「……フン。腰抜けめ」
僕は引きちぎったページ(黒い砂がこびりついている)をハンカチに包み、ポケットに入れた。
貴重な資料だ。後で成分分析でもしてみよう。
翌日。
僕は右腕に包帯を巻き、境港駅のホームに立っていた。昨夜の傷は痛むが、気分は悪くない。あの「記憶が塗り潰される感覚」……あれは傑作のインスピレーションになった。
「……おや」
反対側のホームに、見覚えのある二人組がいた。昨夜、花火をしていた子供たちだ。一人は、やはり真夏だというのにサングラスをかけた少女。もう一人は、存在感の薄い少年。
僕はスケッチブックを取り出した。
何気なく彼らをデッサンしようとして――手が止まった。
「……なんだ、あいつらは」
僕の目は「リアリティ」を見抜く。
サングラスの少女。その姿を描こうとすると、ペンの線が歪む。彼女の周囲だけ空間の情報量が多すぎて、紙の上に定着しないのだ。
まるで、歩く宇宙だ。
そして、少年の方。
こっちは逆だ。描いても描いても、印象に残らない。
特徴がないのではない。「特徴が認識できない」のだ。目を離した隙に、スケッチブックの上から彼の絵だけが消えてしまいそうな、奇妙な透明感。
「……フッ」
僕はスケッチブックを閉じた。
描けない。いや、今はまだ描くべきではない。
あの二人は、この町の妖怪たちよりも遥かに「濃い」。
「……やれやれ。境港は湿気だけじゃなく、住人のキャラも濃すぎるようだ」
電車が到着するベルが鳴った。妖怪のイラストがラッピングされた車両が滑り込んでくる。
僕は二人に背を向け、電車に乗り込んだ。
サングラスの少女が、チラリとこちらを見た気がした。少年が、ペコリと頭を下げた気がした。
だが、僕は振り返らない。
取材は終わった。
僕には、描かなければならない漫画がある。あの「凡庸な男」の人生を、最高に面白い物語にしてやらなければならないのだから。
電車が走り出す。
窓の外、弓ヶ浜の海がキラキラと輝いていた。
その深淵に眠る黒い砂のことは、もう誰も知らない。