仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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015 あれは仏ではない 〜空白の8月15日〜

 

 2014年8月13日。

 お盆の入り。鳥取県、境港市。

 日本海から吹き付けるはずの風が、ピタリと止んでいた。海面は鏡のように凪ぎ、湿気を孕んだ空気が、街全体を真空パックするかのように密閉している。

 

「……不快だ。実に不快な湿気だ」

 

 岸部魯般(きしべ・ろはん)は、境港駅のホームに降り立ち、顔をしかめた。白いスーツに、幾何学模様のネクタイ。そして手にはスケッチブック。

 彼は以前この地を訪れ、「黒い砂」の怪異に遭遇した。その時に得た「記憶が塗り潰される感覚」は、彼の新作漫画『ヘブンズゲート・セッション』のエピソードとして見事に昇華された。

 

 だが、彼は戻ってきた。

 なぜなら、あの砂の出処とされる「黒山(くろやま)」の伝説について、まだ取材しきれていない「リアリティ」があったからだ。

 

「……編集部の泉くんは止めたがね。『先生、お盆に心霊スポットに行くなんて自殺行為ですよ』と。……フン。幽霊が出るなら好都合だ。インタビューしてやる」

 

 魯般は駅前のスーパーに立ち寄った。水分補給のためのミネラルウォーターを買うためだ。

 そこで、見覚えのある少年と遭遇した。

 

「……あ。漫画家の人だ」

 

 カゴに業務用サイズの麦茶パックを入れた、地味な少年。

 佐藤蓮だ。

 魯般は眉をひそめた。この少年、前回見たときよりもさらに存在感が希薄になっている気がする。スーパーの自動ドアが反応しなかったのではないか?

 

「……少年か。奇遇だな。君、まだこの街にいたのか?」

 

「実家ですから。……あの、岸部先生ですよね? 『週刊少年ジャンプ』で見ました。ドラマ化もしたすごい人だって」

 

「ほう」

 

 魯般は少しだけ機嫌を良くした。自分の顔と名前が、こんな地方の、しかもモブのような少年にまで認知されている。漫画家冥利に尽きるというものだ。

 

「サインなら後でやってやる。……ところで少年。例の『サングラスの少女』はどうした? 今日は一緒じゃないのか?」

 

「六ちゃんですか? 彼女なら京都の実家に帰省してます。」

 

「……そうか」

 

 魯般は、口元を歪めて笑った。

 好都合だ。

 あの少女は「濃」すぎる。彼らがいると、怪異が逃げるか、あるいは派手なバトル漫画になってしまう。僕が求めているのは、静謐(せいひつ)で、ドロリとした、土着的な恐怖のリアリティなのだ。

 

「邪魔者がいないなら、純粋な取材ができるというものだ。……じゃあな少年。熱中症には気をつけたまえ」

 

 魯般は水を買い、足早に去っていった。蓮はその後ろ姿を見送りながら、少しだけ首を傾げた。

 

「……先生、背中に『何か』ついてる気がするけど……気のせいかな」

 

 

 8月14日。お盆の中日。

 街の空気は、さらに淀んでいた。魯般は「黒山」の伝承が残る、市内外れの古寺周辺を取材していた。

 

 違和感があった。

 すれ違う人々が、皆一様に**「満面の笑み」**を浮かべているのだ。

 

 墓参りに行く家族連れも。

 畑仕事をする老人も。

 コンビニの店員さえも。

 口角を不自然に釣り上げ、恍惚とした表情で空を見上げている。

 

「……気味が悪いな。なんだこの街は」

 

 魯般は、道端の地蔵に向かって手を合わせている老婆に声をかけた。彼女は涙を流しながら拝んでいる。

 

「……おい、婆さん。何をそんなにありがたがっているんだ?」

 

「ああ……見えなさいませんか、旅の方。あんなに立派な……仏様が」

 

「仏?」

 

 魯般は老婆の視線を追った。

 そこには、ただの入道雲と、焼けつくような青空があるだけだ。

 いや、違う。

 空の一点が、陽炎(かげろう)のように揺らいでいる。

 

(……集団幻覚か? それとも、僕には見えない波長か?)

 

 確かめずにはいられない。魯般は老婆の肩に手を置いた。

 

「ヘブンズ・ドアー!」

 

 老婆の顔が本になる。魯般はページをめくった。彼女が「何を見ているのか」を知るために。

 しかし。

 

『         』

『         』

『         』

 

「……なんだ、これは」

 

 文字がない。

 記憶喪失ではない。今日のページ、今のページだけが、真っ白なのだ。いや、よく見ると違う。白いインクで塗りつぶされているわけでもない。「認識」そのものが食われている。

 

「……おいおい。この街の人間、全員脳みそがスカスカなのか?」

 

 魯般は戦慄した。老婆は本にされたことにも気づかず、文字のないページを晒したまま、ケタケタと笑い続けている。

 

「……ありがたや、ありがたや。みんな、還ってくる……」

 

 魯般はすぐに能力を解除した。背筋に、冷たい汗が伝った。

 これは「妖怪」ではない。もっと質の悪い、触れてはいけないナニカだ。

 

 

 そして、運命の8月15日。

 終戦記念日であり、お盆のピーク。

 夕刻。空が紫色に染まり始めた頃。

 

 魯般は、逃げるように街を歩いていた。視線を感じるのだ。

 街中の「笑顔の人々」が、異物である魯般をじっと見つめている。

 彼らの瞳には焦点がない。ただ、彼らの背後にいる「何か」が、魯般という強烈な自我(リアリティ)を味見しようとしている。

 

「……チッ。取材中止だ。一度ホテルに戻って……」

 

 その時。

 ドォォォォォォ……ン。

 地鳴りのような、あるいは巨大な鐘の音のような重低音が響いた。

 

 魯般は、郊外の山の方角を見た。そこには、古びた廃寺がある。その寺の背後の山が――動いていた。

 

「……!?」

 

 山ではない。

 それは、山と同じくらいの大きさの、真っ黒な「影」だった。夕闇に溶け込むような黒。しかし、明確な輪郭を持った不定形の肉塊。

 それが、ヌルリと頭をもたげ、街を見下ろしていた。

 

 同時刻。

 佐藤蓮は、自宅の二階の窓から、洗濯物を取り込んでいた。

 彼もまた、その音を聞き、山を見た。

 

「……うわ。なんか出た」

 

 蓮の目にも、それは映っていた。だが、彼の感想は「怖い」よりも「面倒くさそう」だった。最強の先生たちがいない今、あんな怪獣映画みたいなのが出たら、この街はおしまいだ。

 

「……見なかったことにしよう」

 

 蓮がカーテンを閉めようとした時、路地裏から白いスーツの男が飛び出してきた。岸部魯般だ。彼は顔面蒼白で、何かから隠れるように走っていた。

 

「……少年ッ!!」

 

 魯般が蓮を見つけ、声を上げた。

 

「先生? どうしたんですか、そんなに慌てて」

「ここを開けろ! 匿(かくま)え!!」

 

 魯般は蓮の家の勝手口に滑り込み、肩で息をした。全身から脂汗を流している。

 

「……見たか、少年。あれを」

 

「あれって、あの山みたいな……」

 

「バカッ! 声に出すな!」

 

 魯般は蓮の口を塞いだ。その指は震えていた。

 

「……あれは『黒山』だ。噂の怪物そのものだ」

 

「黒山……? 妖怪ですか?」

 

「違う。妖怪なんて生易しいものじゃない」

 

 魯般は、隙間から外を覗いた。空に浮かぶ巨大な影は、ゆっくりと形を変えている。仏像のような座禅の姿勢。しかし、腕が数十本あり、首がない。あるいは、無数の顔が埋め込まれているようにも見える。

 

「……先生。あれ、仏様じゃないですよね?」

 

 蓮が素朴な疑問を口にした。街の人々は、あれを拝んでいる。

 

「ああ。……『あれは仏ではない』」

 

 魯般は断言した。

 

「仏のフリをして、人々の信仰心と記憶を食い物にする、高次元の捕食者だ。……目が合えば、終わるぞ」

 

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに。

 ズズズ……ッ。

 巨大な影の「顔」にあたる部分が、ゆっくりとこちらを向いた気がした。

 

「……ッ! 見つかったか!?」

 

 魯般は舌打ちをした。

 マズい。

 街の人々はすでに「同化」しているため、影にとっては風景の一部だ。

 だが、岸部魯般は違う。彼の持つ強烈な自我、才能への自負、そして「リアリティへの執着」は、この真っ白な世界において、あまりにも鮮やかな「極彩色の異物」だった。

 

 影にとっては、暗闇の中で輝くサーチライトのようなものだ。

 

 『 ミ ツ ケ タ 』

 

 脳内に、直接ノイズが響いた。影の一部が触手のように伸び、蓮の家の方へと降ってくる。

 

「クソッ! 僕の才能が仇になったか!!」

 

 魯般はペンを構えた。戦うつもりか? いや、相手は概念に近い存在だ。本にしたところで、読むべきページなどないだろう。

 

「……先生、こっちへ」

 

 蓮が動いた。彼は魯般の腕を引き、押し入れの中へと誘導した。

 

「おい、隠れたって無駄だ! 奴は『存在』を感知しているんだぞ!」

 

「いいから。……静かにしててください」

 

 蓮は、押し入れにあった古い客用の布団を引きずり出した。そして、それを魯般に被せ、自分もその上に覆いかぶさるようにしてうずくまった。二人は暗闇の中で息を潜める。

 

 ズズズ……。

 家の屋根が軋む音。影が、すぐそこまで来ている。地震ではない。もっと生々しい、巨大な軟体動物が家屋の上を這い回っているような音だ。

 

 押し入れの中。

 岸部魯般は、古い客用布団の黴臭い匂いに包まれながら、自身の心臓の音を聞いていた。

 うるさい。あまりにもうるさい。彼の心臓は、恐怖と興奮で破裂しそうだった。

 

(……来る! 奴は僕の『リアリティ』を嗅ぎつけた!)

 

 漫画家としての性(さが)か。彼は恐怖しながらも、布団の隙間から「それ」を見ようとしていた。天井の板が黒く染まっていく。影が滲み出してくる。

 それは不定形のヘドロのようでありながら、無数の「人間の笑顔」が浮き沈みする冒涜的な集合体だった。

 

 脳内にノイズが走る。影の一部が、触手のように天井から垂れ下がり、押し入れの襖へと伸びてくる。奴は探している。この白黒の、色彩のない世界で唯一、強烈な原色を放つ「自我」の持ち主を。

 

「……ッ! しまった、僕の才能が……僕の存在感が、隠しきれない!」

 

 魯般は歯噛みした。凡人ならば見逃されたかもしれない。だが、岸部魯般は違う。彼はあまりにも「主人公」でありすぎた。

 影の先端が、襖に触れようとしたその時。

 

 バサッ。

 佐藤蓮がさらに布団を頭から被り、完全に魯般を密閉する。

 

「……静かに。呼吸を止めて」

 

 蓮の囁き声は、驚くほど平坦だった。

 

 

 影の触手が、押し入れの襖を透過して中に入ってきた。ヌルリとした視線が、内部を舐め回す。

 

 そこには、岸部魯般がいるはずだった。極彩色の魂を持つ、極上の獲物が。

 

 しかし。

 影が見たものは、「何もなかった」。

 

 そこには、ただ古い布団が積まれているだけ。あるいは、壁のシミのような、空気のような「少年」がうずくまっているだけ。

 その少年からは、生気も、恐怖も、歓喜も、何一つ感じられない。まるで、背景美術(書き割り)の一部。

 石ころ。雑草。空気。

 

 影は困惑した。強烈な光を感じてやってきたはずなのに、そこには「虚無」しかなかったのだから。

 

(……すごい。なんだこの少年は)

 

 布団の下で、魯般は戦慄していた。蓮が触れている部分から、自分の気配が急速に「希釈」されていくのを感じたのだ。

 僕の「岸部魯般としての強烈な自我」が、この少年の持つ「圧倒的な無個性」によって中和され、風景に溶け込んでいく。

 

 これは忍術か?いや、違う。これは、もっと根源的な……「物語の主人公(ターゲット)にならない」という、世界に対する拒絶の力だ。

 

 ――『 ……? 』

 

 影は興味を失った。

 ここには食べるべき「魂」はない。触手はズルズルと引き上げられ、天井の彼方へと消えていった。代わりに、遠くから聞こえる「ありがたや、ありがたや」という街の人々の狂った祈りの声の方へと、影は移動していく。

 

 

 気配が完全に消えるまで、数十分。あるいは数時間。二人は押し入れの中で身を固くしていた。

 

 魯般は、震える手でペンを握りしめた。冷や汗でシャツが体に張り付いている。

 

「……少年。行ったか?」

 

「……多分。山の方へ戻っていきました」

 

 蓮が布団をめくった。部屋には、生温かい湿気だけが残っていた。

 

 魯般は自分の右腕を見た。震えが止まらない。

 漫画家としての本能が、今の体験を記憶しようとしている。だが、生存本能が警鐘を鳴らしていた。

 『覚えていてはいけない』と。

 あれを記憶しているだけで、脳の回路が焼き切れ、奴と再び繋がってしまう。

 

「……くそッ! せっかくのネタだが……命には代えられん!」

 

 魯般はペンを自分の腕に走らせた。

 

 「ヘブンズ・ドアー!」

 

 自分の皮膚を本に変え、今日のページの記述を猛烈な勢いで書き換える。

 

『僕は何も見ていない』

『8月15日は、静かで平和な一日だった』

『僕は、押し入れで昼寝をしていただけだ』

 

 書き込むそばから、記憶が霧のように散っていく。

 恐怖も、あの冒涜的な影の形状も、全てが「なかったこと」になっていく。

 

「……はぁ、はぁ」

 

 魯般は荒い息をつきながら、隣にいる蓮を見た。

 蓮は、ただ淡々と布団を畳んでいた。

 こいつはどうだ?

 こいつも記憶を消さなければ、発狂するのではないか?

 

「……少年。君もだ」

 

 魯般は蓮の腕を掴み、無理やり本にした。

 しかし、蓮のページはスカスカで、恐怖の感情すら書き込まれていなかった。

 ただ一行。

 『変な影が来たから、隠れた』

 それだけだった。

 

「……正気か? あれを見て、この程度の感想か?」

 

 魯般は呆れたが、念のため、彼のページにも警告を書き残すことにした。記憶が消える直前の、最後の理性を振り絞って。

 

『あれは仏ではない』

『二度と黒山に近づくな』

 

 書き終えると同時に、魯般の意識は深い闇へと落ちていった。

 自己催眠による、強制的なシャットダウンだった。

 

 

 2014年8月16日。送り火の日。

 朝。

 チュンチュンと雀が鳴き、ジジジ……と油蝉の声が重なる。昨日の静寂が嘘のように、夏の喧騒が戻ってきていた。

 

 街の人々は、何事もなかったかのように生活を始めていた。

 「いやあ、いいお盆だったねぇ」

 「御先祖様も喜んでくれたかな」

 彼らは笑顔で語り合っている。自分たちの魂がほんの少し削り取られ、寿命や運気が吸い上げられたことになど、誰も気づいていない。

 

 境港駅のホーム。

 岸部魯般は、帰りの電車を待っていた。その顔色は悪く、目の下には濃いクマができている。

 

「……やれやれ。昨日はどうやら、熱中症で倒れていたらしい」

 

 魯般は頭を押さえた。15日の記憶がない。気づいたら、少年の家の押し入れで寝ていた。自分の「本」を確認しても、その日のページは黒く塗りつぶされている。

 

「……少年。君は覚えているか? 昨日、何があった?」

 

 見送りに来た蓮に尋ねる。蓮は少し考えて、首を横に振った。

 

「……いえ。先生、僕の家に来てすぐ『眠い』って言って寝ちゃいましたよ。僕も一緒に昼寝してました」

 

「……そうか。夢も見ないほど、ぐっすりと寝ていたわけか」

 

 魯般は釈然としないものを感じつつも、それ以上追求するのをやめた。

 本能が「掘り返すな」と告げていたからだ。

 

「……フン。まあいい。この街は湿気が多すぎる。しばらくは来ないことにするよ」

 

 電車が到着する。魯般は逃げるように乗り込んだ。窓越しに、蓮がペコリと頭を下げるのが見えた。

 

 

 電車が去り、ホームには蓮だけが残された。彼は誰もいなくなったベンチに座り、息をついた。

 

「……やっと帰った」

 

 蓮は、自分の左腕の袖をまくり上げた。そこには、昨夜、パニックになった魯般が書き残した、乱れた筆跡のメモが残っていた。

 

『あれは仏ではない。二度と黒山に近づくな』

 

 蓮は無表情のまま、その記述をじっと見つめた。彼には記憶がある。あの巨大な影が、街の人々の笑顔を啜っていた光景も。魯般が震えながらペンを走らせていた姿も。

 

 だが、彼にとってそれは「関わってはいけないメインストーリー」のイベントに過ぎない。

 モブである自分が介入すれば、バッドエンド一直線だ。

 だから、見ないフリをした。

 だから、記憶に蓋をした。

 

「……わかってますよ。あれは仏様なんかじゃない」

 

 蓮はそっと袖を下ろし、空を見上げた。

 入道雲の彼方に、うっすらと黒い影が残っているような気がした。

 

「……ただの、腹を空かせた化け物でしたね」

 

 蓮はスーパーの袋(特売の麦茶)を持ち直し、家路についた。

 最強たちが帰ってくるまで、あと1日。

 この街の平穏は、影の薄い少年によって、誰にも知られずに守られたのだった。

 

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