2014年8月下旬。
鳥取県、米子鬼太郎空港。
お盆の帰省ラッシュも落ち着き、空港ロビーには気怠げな夏の終わりの空気が漂っていた。
「……やっと帰れる。長かった。実に長かった」
ロード・エルメロイⅡ世は、搭乗口の待合ベンチで深々とため息をついた。その顔色は優れない。胃薬のボトルを握りしめ、眉間には深い皺が刻まれている。隣では、内弟子のグレイが「目玉おやじ」の形をした和菓子を、申し訳なさそうに食べている。
「師匠。……お疲れ様でした。今回の極東調査は、その……大変でしたね」
「『大変』などという言葉で片付けるな。……物理法則のゴミ捨て場《ブラックテクスチャ》に、概念的なシステムダウン、挙句の果てには五条悟への政治的嫌がらせ工作……。私の胃壁は限界だ」
Ⅱ世はぼやいた。
彼は一刻も早く、霧と紅茶の国へ帰りたかった。この国は、神秘《オカルト》と日常の境界があまりにも曖昧すぎる。
「おや。まだ搭乗手続き前でしたか、ロード」
ふいに、背後から声をかけられた。
落ち着いたバリトンボイス。Ⅱ世が振り返ると、そこには黒いスーツを着た長身の男が立っていた。
J-GOC《対超常現象機関》特別顧問、真田志郎だ。
「……真田か。見送りには早すぎるんじゃないか?」
「ええ。実は、フライトまで少し時間があると思いまして。……少し、アカデミックな話をしませんか? 美味しいコーヒーを用意させています」
真田の笑顔は穏やかだが、その目は笑っていない。
拒否権はない、という顔だ。Ⅱ世は舌打ちをし、立ち上がった。
「……嫌な予感がするが、仕方あるまい。日本のテクノロジーとやらに付き合ってやろう」
◇
真田の用意した黒塗りのセダンは、空港を出て境港市街へと向かった。だが、到着したのはJ-GOCの支部ビル(地上4階地下5階)ではなく、港湾地区にある一見すると普通の倉庫だった。
「……ここは?」
「表向きは海洋資源研究所です。ですが、地下には別の顔があります」
真田がセキュリティカードをかざすと、床が沈み込み、巨大なエレベーターが現れた。地下深くへ降りていく。気圧の変化に耳がツンとする頃、扉が開いた。
そこは、SF映画のセットのような巨大な地下施設だった。無機質な白い壁。忙しなく行き交う白衣の研究員たち。
だが、彼らが扱っているのはビーカーやフラスコだけではない。注連縄《しめなわ》で封印された呪物、ホルマリン漬けにされた妖怪の臓器、そして空中に浮かぶ幾何学的な魔術陣。
壁には、国連のエンブレムをアレンジしたマークと、『ICSUT』の文字。
「……国際統一奇跡論研究センター《International Center for the Study of Unified Thaumatology》。……GOC《世界オカルト連合》の下部組織か」
「ご存知でしたか。ここは、その境港キャンパスです」
真田は淡々と説明した。
GOC。
時計塔《魔術協会》とは相容れない、もう一つの巨大な超常組織。
彼らは「神秘の隠匿」ではなく、「神秘の解明・制御・破壊」を理念としている。魔術を「奇跡論《Thaumatology》」という物理学の一分野として定義し、人類の脅威となるものを科学的に排除する集団だ。
「……魔術師をモルモットにする場所へ、私を招待するとはな。いい度胸だ」
「誤解です。我々は『対話』を望んでいます」
通されたのは、最奥にある特別会議室だった。そこには一人の老人が待っていた。白衣の上に、なぜかちゃんちゃんこを羽織った、奇妙な風体の老人だ。
「やあやあ。ようこそ、時計塔の君主《ロード》殿。お噂はかねがね」
老人は好々爺のような笑顔を向けたが、その瞳は爬虫類のように冷たく、観察的だった。
「紹介しましょう。ICSUT境港キャンパス名誉教授、九条兼定(くじょう かねさだ)博士です」
◇
未定義の変数
コーヒーが出された。香りは良いが、Ⅱ世は口をつけなかった。テーブルの中央には大型モニターがあり、そこに一つの映像が映し出された。
地元のスーパーマーケット。野菜売り場で、半額シールが貼られた大根を真剣な顔で選んでいる、ランドセルを背負った少年。
佐藤蓮(小学5年生)だ。
「……この少年について、話したい」
九条教授が口火を切った。Ⅱ世は眉をひそめた。
「……ただの子供だ。私の知る限り、魔術的な才能も、呪術の素養もない」
「ほう? 『虚数属性』の持ち主を、ただの子供と言いますか」
九条は手元のタブレットを操作し、グラフを表示させた。それは、昨日の「黒山」消滅時における、周辺空間の観測データだった。
「見てくれたまえ。彼が黒い泥の中心核《コア》に飛び込んだ瞬間、観測機器が弾き出した数値を。……ヒューム値《現実強度》が、局所的に測定不能《エラー》を起こしている」
ヒューム値。
GOCや財団が用いる、現実の「硬さ」を表す指標だ。通常、人間は1ヒューム程度の現実強度を持つが、現実改変能力者はこれより高い数値を持ち、周囲の現実を書き換える。
「しかし、彼は逆だ。数値が限りなくゼロに近い。……彼は『世界から観測されない』ことで、物理法則の適用を免れている。言わば、受動的現実改変者《Passive Type Green》の亜種だ」
九条の目が怪しく光った。
「ICSUTとしては、彼を『調査《Research》』したい。GOCの『108評議会』も興味を示している。彼を解剖し、その脳と魂の構造を解析すれば、対魔術用のステルス迷彩や、認識阻害兵器の開発に役立つだろう」
それは、科学者の純粋な、ゆえに冷酷な探究心だった。
蓮を人間として見ていない。「未知の素材」として見ている。
◇
バンッ!
Ⅱ世がテーブルを叩いた。
「……ふざけるな」
彼は低い声で唸った。
「君たちの悪い癖だ。何でも数値化して、ラベルを貼って、箱に詰めようとする。……あの少年は『改変』などしていない。ただ、世界のテクスチャに引っかからない特異点なだけだ」
「同じことでしょう? 異常《アノマリー》であることに変わりはない」
「違う! 彼は人間だ! 昨日の活躍を見ただろう。彼は自らの意志で走り、街を救った。それを実験動物扱いするなど、魔術師の風上にも置けん……いや、君たちは科学者だったな。失敬」
Ⅱ世は皮肉たっぷりに吐き捨てた。時計塔は非人道的な実験も行うが、それはあくまで「根源への到達」という崇高(と彼らが信じる)な目的のためだ。
だが、GOCのやり方は違う。「人類の生存」という大義名分のもと、個人の尊厳を効率的に踏みにじる。
「……ロード。感情論はよしましょう」
今まで黙っていた真田が、静かに口を開いた。
「私も、九条教授の『解剖』には反対です。……ですが、放置もできません。実は、別の組織も動いています」
真田が新しいデータをモニターに表示させた。
そこには、見慣れないロゴマークがあった。円の中に矢印が三つ。
『SCPF《Special Containment Procedures Foundation》』。
通称、財団。
「……財団か。彼らも嗅ぎつけたのか」
「ええ。彼らのフィールドエージェントは優秀です。昨日のヒューム値の揺らぎを検知し、即座に報告を上げました」
真田は、一枚の報告書《レポート》をスライドさせた。そこには、財団の『倫理委員会』からの提言が記されていた。
『対象(佐藤蓮)は、自身の特異性(認識阻害)を制御できていない。このまま放置すれば、社会から孤立し、誰にも認識されないまま衰弱死するリスクがある』
『ゆえに、人道的な観点から、財団の標準人型収容サイトでの保護《Contain》を推奨する』
「……『保護』だと?」
Ⅱ世は鼻で笑った。
「聞こえはいいが、要するに『一生、白い部屋で管理されて暮らせ』ということだろう。衣食住は保証するが、自由は奪う。……飼い殺しだ」
「その通りです。財団は、彼を『Keter《ケテル》』とは認定しませんでしたが、放置するには危険な『Euclid《ユークリッド》』相当と見なしています」
テーブルの上には、三つの異なる「正義」が並べられた。
GOC(九条): 「人類のために解明・利用すべきだ(実験体)」
財団(倫理委員会): 「彼自身の安全のために隔離すべきだ(収容体)」
時計塔(Ⅱ世): 「神秘は秘匿されるべきだが、個人の尊厳は守られるべきだ(人間)」
三すくみの状態。
だが、この場の決定権を持つのは、日本の行政官である真田志郎だ。
「……真田。君はどうするつもりだ? J-GOCは、自国民を他国の組織に売り渡すのか?」
Ⅱ世の問いに、真田は眼鏡の位置を直し、まっすぐに二人を見据えた。
◇
真田志郎は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、静かに口を開いた。
その声は、会議室の空調音よりも低く、しかし鋼のような意思が込められていた。
「……お断りします」
彼は、九条教授とロード・エルメロイⅡ世を交互に見据えた。
「J-GOC特別顧問として、ICSUTによる佐藤蓮少年の『生体解剖』および『拘束実験』を拒否します。……同時に、財団からの『収容保護』の提案も却下します」
「……ほう?」
九条教授が目を細めた。
「真田君。君は合理主義者だったはずだ。一人の少年の人権と、人類全体の科学的進歩。天秤にかけるまでもないだろう? 彼はType Green《現実改変者》のサンプルとして、計り知れない価値がある」
「ええ、私は合理主義者です。……ですが」
真田は、モニターに映る蓮の姿――夕飯のおかずを悩んでいる等身大の少年の姿――を指差した。
「『可能性を摘むこと』は、科学の敗北です。あの少年はまだ11歳だ。これから学び、恋をし、悩み、何者かになるかもしれない『未確定の未来』です。それを、現時点での異常性だけを理由に、ホルマリン漬けや、一生出られない白い部屋に閉じ込めることは……教育的敗北であり、行政の怠慢だ」
真田の脳裏には、ある男の顔が浮かんでいた。
五条悟。
現代最強の呪術師。彼は生まれながらにして「最強」であり、そのあまりの力の強大さゆえに、青春を謳歌することなく「舞台装置」として生きることを強いられた。
真田は、五条の孤独を知っている。だからこそ、これ以上、日本の子供たちから「当たり前の日常」を奪いたくはなかった。
「彼は日本の一般市民です。彼が法を犯さない限り、我々は彼の日常を守る義務がある」
真田の断言に、Ⅱ世は口元を緩めた。
「……ふん。科学者というよりは、教育者の顔だな。……嫌いではない」
「光栄です、ロード」
九条教授は肩をすくめた。
「やれやれ。行政官の『事なかれ主義』には付き合いきれん。……だが、財団はどうする? 彼らはしつこいぞ? 『保護』という名目で、半ば強制的に連れ去ることも辞さん連中だ」
「それについては、私が……」
真田が反論しようとした、その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!!
突如、地下施設全体に不快な低周波のサイレンが鳴り響いた。照明が赤色に切り替わり、モニターに『WARNING』の文字が点滅する。
「なっ、なんだ!?」
グレイが身構え、大鎌《アッド》を抱きしめる。
九条教授が素早くコンソールを操作した。彼の表情から、余裕が消えていた。
「……不正アクセスだ。ICSUTのメインサーバーに、外部から強制介入を受けている。……このシグナル、まさか」
「……どこだ? 財団か?」
「いや、違う。もっと悪質で、野蛮な連中だ」
モニターの画面がジャックされ、無機質な緑色の三角形のロゴが表示された。
『DELTA GREEN』。
「……デルタ・グリーンだと?」
Ⅱ世が忌々しげに吐き捨てた。
それは、アメリカ合衆国内に巣食う、非合法の対超常脅威組織。
彼らはGOCのように「研究」もしなければ、財団のように「収容」もしない。
彼らの理念は一つ。
『焦土作戦《Scorched Earth》』。
理解不能な脅威、特にクトゥルフ神話的な「宇宙的恐怖」に汚染された可能性のある対象を、物理的に、徹底的に、破壊する。
「……馬鹿な。彼らがなぜ、日本の地方都市の少年に?」
真田が声を荒らげる。
「昨日の『黒山』の件だ」
九条がデータを解析しながら答える。
「彼らは衛星軌道上から、黒山のエネルギー波長を監視していたらしい。そして、あの『黒い泥』を、『彼方より来たりしもの(宇宙的捕食者)』の侵食であると認定した」
モニターに、英語のテキストが表示される。
『Target: Ren Sato (Carrier of Unknown Cosmic Contamination)』
『Action: STERILIZE (浄化・殺処分)』
「……彼らは、蓮少年を『保菌者』と見なしたか。泥の中心核に触れたことで、彼の魂が汚染され、新たなゲートになると判断したんだ」
「ふざけるな!」
Ⅱ世が叫んだ。
「あの少年は『蓋』だ! ゲートを閉じた英雄だぞ! それを、汚染物扱いして焼却処分だと!?」
「彼らに理屈は通じません」
真田が冷静さを保とうと努める。
「デルタは議論をしません。疑わしきは罰する。……すでに、極東駐留の特殊部隊《ブラックオプス》が動いている可能性があります。あるいは、ドローンによる『事故に見せかけた爆撃』か」
事態は急転した。
「実験」か「収容」かという議論は吹き飛んだ。
今、そこにあるのは「死」だ。
◇
赤い回転灯が回る中、三人の男たちは顔を見合わせた。
本来、決して手を組むことのない、三つの異なる正義。
魔術師、マッドサイエンティスト、官僚。
だが、今この瞬間、彼らの敵は一致した。「無知ゆえの破壊」だ。
「……九条教授。君は、貴重な研究サンプルを、無粋なヤンキーたちに焼かれてもいいのか?」
Ⅱ世が挑発的に問いかける。
「断じて否だ」
九条は即答した。
「未知への探究心こそが科学だ。恐怖に駆られて燃やすなど、原始人の所業。……ICSUTの名にかけて、私の『獲物』を守らねばならん」
「……ロード。貴方はどうしますか?」
真田が問う。
「愚問だな」
Ⅱ世はコートを翻した。
「私は教師だ。教え子(のようなもの)が、理不尽な暴力に晒されるのを黙って見ている趣味はない。……それに、時計塔としても、極東の特異点がアメリカに荒らされるのは不愉快極まりない」
「意見は一致しましたね」
真田は、自身の持つ最高権限キーをコンソールに差し込んだ。
「J-GOC、ICSUT、そして時計塔。……これより、三組織の総力を挙げて、佐藤蓮少年の『存在隠蔽工作』を行います。デルタの連中に、彼を見つけさせるわけにはいかない」
◇
作戦はシンプルかつ大胆だった。
蓮という存在を、物理的・魔術的・情報的に「無価値なもの」として偽装し、世界の監視網から消失させる。
「まず、私が魔術的な偽装を施そう」
Ⅱ世がホワイトボードに複雑な術式を描き始めた。
「彼自身の『虚数属性(観測されない特性)』は強力だが、それが逆に『異常値《エラー》』として検知されてしまう。……ならば、『木を隠すなら森』だ」
「どういうことですか、師匠?」
「彼の特性の上に、あえて『低級な認識阻害の魔術』を上書きするのだ。『彼が目立たないのは、下手な魔術を使っているからだ』と誤認させる。……本質的な異常性を、ありふれた魔術で覆い隠す」
II世は一度施設を出て再び佐藤蓮に接触し魔術を施した。これで、魔術的なセンサーは「ただの魔法使い崩れの子供」として彼をスルーするようになる。
「次は、GOCのデータベース改竄だ」
九条教授がキーボードを叩く。
「ICSUTの権限で、彼のエラー数値を『黒山の環境ノイズによる測定ミス』として処理する。そして、彼のカテゴリーを『Type Green(現実改変者)』から……そうだな、『Type Blue(魔術師)の才能なし(Eランク)』へと書き換える」
「才能なし、ですか」
「ああ。『潜在能力はあるが、発現しなかった落ちこぼれ』だ。これなら、デルタも財団も興味を示さんだろう。……無能であることは、最強の鎧になる」
九条教授が驚くべき速度と精巧さでデータベースを書き換えていく。
「そして最後は、行政的な保護です」
真田がJ-GOCの公印データを送信した。
「財団の倫理委員会に対し、『対象はJ-GOCおよび公安の24時間監視下にあり、適切な教育プログラムを受けている』という報告書を提出します。……実際は、私が個人的に身元引受人になり、たまに様子を見に行くだけですが」
「十分だろう。お役所仕事には、お役所仕事の書類で対抗するのが一番だ」
かくして、世界最高峰の頭脳たちが結集し、一人の小学5年生を守るための「最強の迷彩」が完成した。
『佐藤蓮:魔術的才能なし。脅威度ゼロ。監視の必要なし』
この偽装データが、世界の裏側のネットワークへと拡散されていく。
デルタ・グリーン戦略AIの照準器から、蓮の生体反応がロストした。
「……ふぅ。消えたか」
九条が額の汗を拭った。
「見事なお手並みです、先生方」
真田が深く一礼した。
「……勘違いするな。私はただ、自分の研究対象を守っただけだ」
「私もだ。……だが、悪くない共同作業だった」
Ⅱ世と九条は、互いに視線を逸らしながらも、ニヤリと笑った。
◇
「奴らのAIは、改ざんされたデータを『真実』として受理したようだ。『佐藤蓮は魔術的才能のない一般市民であり、黒山のエネルギー波長とは無関係である』と」
九条は安堵の息を吐き、キーボードから手を離した。
ギリギリの勝利だった。あと数分遅れていれば、米軍の特殊部隊《ブラックオプス》が境港に強襲上陸していたかもしれない。
「……見事な手際でした、先生方」
真田志郎が、深々と頭を下げた。
「礼には及ばん。……私はただ、私の生徒(になり得たかもしれない素材)が、無粋な暴力で焼かれるのが気に入らなかっただけだ」
ロード・エルメロイⅡ世は、葉巻の煙を吐き出しながら、不機嫌そうに言った。
だが、その横顔には、難題を解いた後の微かな満足感があった。
「これで、彼は誰からも狙われない。GOCは『無能』と判断し、財団は『監視不要』と判断し、デルタは『存在しない』と判断した。……完璧な透明人間だ」
◇
J-GOCの矜持
作戦終了後。Ⅱ世とグレイは、真田の案内で空港のVIPルームへと戻っていた。搭乗アナウンスが流れる。
別れの時だ。
「……最後に一つ、聞いておきたいことがある」
Ⅱ世が足を止め、真田に向き直った。
「J-GOC。……その名は、単にGOCの日本支部《Japan Branch》という意味ではないな?」
真田は眼鏡の奥の瞳を光らせ、静かに頷いた。
「ええ。正式名称は、Japan Government Occult Coalition《日本政府オカルト連合》。……我々は国連の下部組織ではありません。日本政府直轄の、対超常現象・行政機関です」
真田は背筋を伸ばした。
「GOC本部は『人類の生存』を優先し、時に個人の犠牲を厭いません。ですが、J-GOCの……私の理念は違います。我々は『日本国民の生命と財産、そして人権』を守るためにある。……たとえそれが、国際的な合意に反するとしても」
だからこそ、彼は蓮を守った。
「可能性」という名の未来を守るために、世界三大組織を欺く道を選んだのだ。
「……なるほど。五条悟という怪物を抱えながら、この国が破綻していない理由がわかった気がするよ。……君のような『バランサー』がいるからだな」
Ⅱ世は、珍しく素直な賞賛の言葉を口にした。
そして、懐から一枚のメモを取り出し、真田に渡した。
「……餞別だ。今回構築した『認識阻害術式』の理論式《ソースコード》だ。好きに使え」
「! ……よろしいのですか? これは時計塔の秘儀では」
「構わん。どうせ君たちの科学技術では完全再現は不可能だ。だが……『子供たちの迷彩』くらいには使えるだろう」
Ⅱ世はニヤリと笑い、ゲートへと歩き出した。
「五条に伝えておけ。『最強が最強でいられる時間は、そう長くはないかもしれん。だが、次世代を育てる時間は残されているはずだ』とな」
グレイが深々と一礼し、師匠の後を追う。
真田は、その背中が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けていた。
◇
その頃。
境港の住宅街。佐藤蓮は、スーパーの袋を提げて家路についていた。
「……ハックシュン!」
盛大なクシャミが出た。背筋にゾクリとした寒気が走る。
「……うう、なんか寒い。風邪かな?」
彼は知らない。つい数時間前まで、自分の頭上に衛星軌道からの照準が合わされていたことを。
世界を裏で操る巨大組織たちが、自分の処遇を巡って会議室で戦争をしていたことを。
そして、三人の大人たちが、自分の「当たり前の明日」を守るために、共犯者となったことを。
「……ま、いっか。今日はハンバーグだし」
蓮は鼻をすすりながら、夕焼けに染まる道を歩いていく。
その影は薄く、誰の目にも留まらない。
だが、その「薄さ」こそが、最強の守護《アーマー》となって彼を包んでいた。
◇
ICSUTの地下研究室。
九条兼定教授は、改ざんされた蓮のデータを眺めながら、独りごちた。
「……『Type Blueの才能なし』か。ククク、傑作だ」
彼はコーヒーを啜る。
「魔術師は『隠匿』を選び、行政官は『保護』を選び、科学者は『観察』を選んだ。……結局、我々は誰も彼を手に入れられなかったが、誰も彼を失わなかった」
モニターの中では、蓮のデータが「安全《Safe》」のラベルを貼られ、膨大なデータベースの海へと沈んでいく。
それは、二度と誰にも見つけられない、深海への埋葬だった。
「……育てよ、少年。いつか君が、この世界の『定数』を覆す変数《イレギュラー》になる日を楽しみにしているぞ」
マッドサイエンティストは、悪戯っぽく笑った。
それは、未知への探究心を持つ科学者としての、純粋なエールだったのかもしれない。
こうして、「黒山」を巡る一連の事件は、公式記録から抹消された。
残されたのは、平穏な日常と、大人たちの秘密の盟約だけ。
2014年の夏が、静かに幕を閉じた。