仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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とある人物に結構オリジナルが入っています。


019 歪む橋、七夜の森(ツイステッド・ブリッジ)

 

 2014年9月上旬。

 島根県、奥出雲(おくいずも)。

 ヤマタノオロチ伝説の舞台としても知られるこの地は、台風の接近に伴い、不穏な湿気と濃霧に包まれていた。

 空は鉛色に淀み、時折、遠くで低い雷鳴が轟いている。

 

「……うう、湿気がすごい。私の『邪王真眼(コンタクト)』がズレちゃうよ」

 

 小鳥遊六花《たかなし りっか》は、ビニール傘を差しながら不満げにぼやいた。彼女は現在、林間学校の振替休日を利用して、隣県への小旅行に来ていた。服装は、黒いゴシック調の私服に、トレードマークのサングラス。この湿度の高い山林には不釣り合いな装いだ。

 

「だから言ったじゃないか。台風が来てる時に山に入るなんて無茶だって」

 

 隣を歩く佐藤蓮《さとう れん》が、呆れ混じりに言った。

 彼はリュックサックを背負い、六花の荷物持ちをさせられている。その姿は、背景の木々と同化するほど地味だ。

 

「甘いよ蓮くん! 台風の前こそ、魔力《マナ》が活性化してレアアイテムがドロップするチャンスなんだから! ……それに、ここはスサノオノミコトがオロチを倒した聖地だよ? 何かすごい『神造兵装』が落ちてるかもしれないじゃん!」

 

「落ちてないよ。……ほら、雨が強くなってきた。一旦、どこかで雨宿りしよう」

 

 蓮が指差した先には、木々に埋もれるようにして建つ、古びた社(やしろ)があった。鳥居は苔むし、注連縄《しめなわ》は千切れかけている。地図アプリにも載っていない、打ち捨てられた無人の神社だ。

 

「……ふむ。あそこから、ただならぬ『結界』の気配を感じる……!」

 

「はいはい。早く行かないと濡れるよ(今日の六花ちゃんはテンションがおかしいな)」

 

 二人は小走りで、朽ちかけた社殿の軒下へと滑り込んだ。

 

 

痛覚のない少女

 

 社の中は、埃とカビの匂い、そして雨の匂いが混じり合った独特の空気が漂っていた。雨音だけが響く静寂。

 だが、蓮はその奥に、「異質な赤色」を見つけた。

 

「……え?」

 

 拝殿の隅。腐りかけた床板の上に、一人の少女が座り込んでいた。年齢は高校生くらいだろうか。長く艶やかな黒髪(光の加減で紫にも見える)。清楚な、しかしどこか時代錯誤な印象を与える女子校の制服。

 彼女は、腹部を両手で押さえていた。その指の間から、どす黒い液体が滲み出し、床に小さな水溜まりを作っている。

 

「……六ちゃん、見て」

 

「ん? ……うわっ! ケガしてる!?」

 

 六花がサングラスをずらし、駆け寄ろうとする。しかし、少女の反応は奇妙だった。彼女は虚ろな目で、ただぼんやりと雨を見ていた。自分の腹から流れる血など、まるで他人事のように。

 

「……あの、大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」

 

 蓮がおずおずと声をかけた。少女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は深く、光を吸い込むような闇色をしていた。

 

「……いいえ。大丈夫です」

 

「でも、血が……痛くないんですか?」

 

「ええ。……昔から、痛みには疎いのです」

 

 その言葉に、蓮の背筋に冷たいものが走った。

 無痛症。深窓の令嬢のような言葉遣い。そして、この独特の雰囲気。

 

(……まさか。浅上藤乃《あさがみ ふじの》?)

 

 蓮の前世の知識が警鐘を鳴らす。『空の境界』に登場する、悲劇のヒロインにして異能者。

 彼女がなぜ、こんな島根の山奥に?

 原作では長野あたりの設定だったはずだが……この世界では「退魔四家」として独自の系譜を辿っているのかもしれない。

 

「……あなたたちは?」

 

 藤乃が静かに尋ねた。

 

「通りすがりの観光客です。……とりあえず、止血だけでも」

 

 蓮がタオルを取り出そうとした、その時だった。

 

 

 ヒュンッ――

 

 風を切る音などしなかった。

 ただ、空間に鋭利な線が走ったような錯覚。

 

「……ッ!」

 

 蓮の頬を、見えない刃が掠めた。数本の髪の毛がハラリと落ちる。

 

「……チッ。一般人のガキか。邪魔だな」

 

 頭上から、男の声が降ってきた。蓮と六花が同時に見上げる。

 社殿の梁《はり》の上に、一人の青年が蹲《うずくま》っていた。黒い和装のような戦闘服に、ワークブーツ。短髪。精悍だが、獲物を狙う肉食獣のような獰猛な目つき。手には、バタフライナイフが握られている。

 

 七夜志貴(ななや しき)。

 裏社会で「掃除屋」として恐れられる暗殺一族の末裔。

 

「……誰だ、お前!」

 

 六花が即座に反応し、藤乃を庇うように前に出た。彼女の「六眼」が、瞬時に男の情報を解析する。

 

(……呪力ゼロ!? なのに、この圧倒的な身体能力……フィジカルギフテッド!? いや、それとも違う。もっと洗練された、『人を殺すためだけ』に進化系統樹から外れたような生き物だ!)

 

 七夜は梁から音もなく飛び降りた。着地音すらしない。重力を無視しているかのような挙動。

 

「……俺か? ただの通りすがりだよ。……そこの女に用があるんでな」

 

 七夜はナイフを弄びながら、藤乃へと視線を向けた。その瞳には、憐憫も敵意もない。ただ「仕事」としての冷徹さがあるだけだ。

 

「浅上藤乃だな。裏会の墨村《すみむら》さんからの依頼だ。『生きたまま連れ帰れ』だとさ。……手足の一本くらいは折ってもいいらしいがな」

 

 

 

「させない!」

 六花が叫び、右手を掲げた。彼女の周囲に、不可視の障壁――術式順転「無下限呪術」が展開される。

 

「おっと」

 

 七夜が動いた。

 速い。

 瞬きする間に距離を詰め、六花の首元へとナイフを突き出す。

 

 キィン……

 

 金属音が響く――はずだった。

 だが、音はしなかった。七夜のナイフは、六花の首の皮一枚手前で、ピタリと止まっていた。

 バリアに弾かれたのではない。七夜自身が止めたのだ。

 

「……あ? なんだこの距離感。気持ち悪《わり》ぃな」

 

 七夜は舌打ちをし、バックステップで距離を取った。

 彼の野生の勘、あるいは長年培った殺人術の極意が、脳より先に筋肉に命令を下したのだ。

 『そこには無限がある。触れれば死ぬわけではないが、届かない』と。

 

「……すごい。私のバリアを、見てから止めた?」

 

 六花は戦慄した。通常、初見の敵は無下限バリアに突っ込み、つんのめって隙を晒す。

 だが、この男は「届かないこと」を触れる前に察知し、体勢を立て直した。

 

「……変な術を使うな、嬢ちゃん。空間が歪んでやがる」

 

 七夜はナイフを持ち替えた。その構えは、ただ立っているだけに見えて、どこからでも急所を狙える「無構え」だ。

 

「じゃあ、これで捕まえる! 術式順転・蒼《あお》!」

 

 六花が指先を弾く。

 収束する無限。強力な引力が発生し、社殿の柱ごと七夜を吸い寄せようとする。

 ゴゴゴゴゴッ!

 空間が軋む。

 

「おわっ!?」

 

 七夜の身体が宙に浮く。

 だが、彼は慌てなかった。吸い寄せられるベクトルを利用し、空中の塵や崩れた木片を足場にして、さらに加速したのだ。

 

「……重力操作か? 面白い!」

 

 七夜は天井を蹴り、壁を走り、三次元的な軌道で六花の死角へと回り込む。

 まるで蜘蛛だ。六花の「六眼」ですら、その不規則な軌道を追うのに必死になる。

 

「(速い! 呪力強化なしで、パパみたいな動きするなんて!)」

 

「(当たればミンチだが、当たらなきゃどうということはないな)」

 

 攻撃が当たらない七夜と、防御が抜けない六花。

 異次元の鬼ごっこが始まった。

 

 

 その時。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 雨音を消し去るような、統率された足音が森の中から響いてきた。

 

「……チッ。客が増えたか」

 

 七夜が動きを止め、社の入り口を睨む。

 

 現れたのは、十数人の黒服の男たち。全員が弓矢や、呪符を帯びている。その胸元には、「加茂《かも》」の家紋が刻まれていた。

 呪術界・御三家の一角、加茂家の実行部隊だ。

 

「……発見した。退魔四家の出来損ない、浅上藤乃だ」

 

 部隊長らしき男が、冷徹な声で告げた。そして、彼の視線が六花に向けられると、わずかに眉が動いた。

 

「……その白髪にサングラス。五条家の『六眼』か。なぜこんな所にいる」

 

 六花は構えを解かずに答える。「観光だよ、観光! ……あんたたちこそ、何しに来たの?」

 

「我々の任務は、異端・浅上藤乃の『祓除(殺害)』だ」

 

 部隊長は、隠そうともせずに殺意を露わにした。呪術界にとって、制御不能な異能者(特に退魔四家のような古い血筋)は、生かしておけば災いの種になる。五条悟不在の今、地方で秘密裏に処理してしまおうという腹積もりだ。

 

「……五条家の人間といえども、公務を妨害するなら容赦はしない。……流れ矢が当たることもあるだろう」

 

 男たちが一斉に弓を引き絞る。その鏃《やじり》は、藤乃だけでなく、明らかに六花をも狙っていた。

 『事故に見せかけて、五条の秘蔵っ子を消す好機』。

 そんな昏い欲望が透けて見える。

 

 

 

「……はあ。これだから権力者の犬は嫌いなんだ」

 

 七夜が、わざとらしく大きなため息をついた。

 彼はナイフをくるりと回し、六花の方へ歩み寄った。

 

「よう、そこの嬢ちゃん」

 

「……何? 私を人質にするつもり?」

 

「バカ言え。……あの堅物ども、お前ごと殺す気満々だぜ?」

 

 七夜は顎で加茂家の部隊をしゃくった。

 

「俺は、あの女(藤乃)を生きて連れ帰りたい。お前は守りたい。……あいつらは殺したい」

 

 七夜はニヤリと笑った。それは、凶暴だがどこか頼もしさを感じさせる、不敵な笑みだった。

 

「とりあえず、あの弓野郎どもを掃除するまで、休戦といくか? 背中は預けてやるよ」

 

 六花は一瞬迷ったが、すぐに決断した。この暗殺者は信用できないが、少なくとも「殺す気」はない。対して、加茂家は明確な敵だ。

 

「……不本意だけど、乗った!」

 

 六花はサングラスを直し、呪力を練り上げる。

 

「いい返事だ。……じゃあ、踊るか!」

 

 七夜が地面を蹴った。同時に、加茂家の一斉射撃が開始された。無数の矢が、雨を裂いて殺到する。

 

 

 ヒュンヒュンヒュンッ!

 

 雨を切り裂き、無数の矢が殺到した。加茂家の術師たちが放つそれらは、呪力を帯びた特別製であり、コンクリートすら貫通する威力を持っている。

 

「止まれ」

 

 小鳥遊六花が右手をかざす。

 術式順転・無下限呪術。

 矢の群れは、彼女の手のひらから数センチの距離で、まるで透明なゼリーに突き刺さったかのようにピタリと静止した。「無限」という概念の防壁。物理的な速度を持つあらゆる干渉は、彼女に近づくほど遅くなり、永遠に届かない。

 

「……へぇ。便利なもんだな」

 

 その背後で、七夜志貴が感心したように呟いた。

 次の瞬間、彼は姿を消した。

 いや、消えたのではない。六花が盾となっている一瞬の隙に、地面を這うような低空ダッシュで森の中へと飛び込んだのだ。

 

「散開せよ! 『六眼』の防御は鉄壁だ! 側面から崩す!」

 

 加茂家の部隊長が叫ぶ。

 

 だが、彼らは気づいていなかった。この森において、最も警戒すべきは「六眼」の少女ではなく、闇に溶けた「殺人鬼」であることを。

 

 ザッ――

 

 草を踏む音すらしない。一人の術師が、背後の気配に振り返ろうとした瞬間。視界が反転した。

 七夜が、木の幹を蹴って真上から落下してきたのだ。

 

「――っ!?」

 

「よっと」

 

 ドガッ!

 

 七夜の踵《かかと》が、術師の延髄を正確に打ち抜いた。

 殺してはいない。だが、脊髄への衝撃で意識を断絶させる、プロの制圧術だ。

 

「一人目」

 

 七夜は着地と同時に次へ跳ぶ。

 その動きは、人間というよりは野生動物に近い。呪力強化《バフ》を行っていない純粋な肉体だけで、強化術師の反応速度を凌駕している。

 

「な、なんだコイツは!?」

 

「呪力がない! 探知に引っかからないぞ!」

 

 加茂家の部隊は混乱に陥った。

 彼らは「呪術戦」のプロだが、呪力を持たない「純粋な暴力」との戦闘経験が不足している。七夜はそれを熟知していた。

 彼は木々の間を縫い、術師の死角から死角へと滑り込む。

 

「ほらほら、どこ見てんだ? 俺はこっちだぜ」

 

 挑発しながら、すれ違いざまにナイフの峰で手首を砕き、膝裏を蹴り折る。七夜の体術《フラッシング》。

 壁走り、天井張り付き、予測不能な三次元機動。

 

「くっ……! あの男を狙え! 術式展開!」

 

 数人の術師が、七夜に向けて呪術を放つ。

 火球や風の刃が森を焼く。

 

「させないってば! 術式順転・蒼《あお》!」

 

 六花が援護に入る。

 彼女が指を弾くと、七夜を狙っていた術師たちの間に「収束点」が発生した。強力な引力が彼らを吸い寄せる。

 

「うわぁぁっ!?」

「身体が、吸い込まれるッ!」

 

 三人の術師が一箇所に団子状に固められる。 

 そこへ、七夜が上空から降ってくる。

 

「ナイスアシストだ、嬢ちゃん!」

 

 七夜は空中で回転し、遠心力を乗せた回し蹴りを、無防備な三人の脳天に叩き込んだ。

 ドォォォン!

 三人は人形のように吹き飛び、木に激突して動かなくなった。

 

「……ふふん。私と組めば最強だよ!」

 

 六花は得意げに鼻を鳴らす。

 

 戦況は圧倒的だった。

 最強の防御と火力を誇る六花。

 最強の遊撃と制圧力を誇る七夜。

 この即席バディを相手に、並の術師部隊が勝てる道理はない。

 

 だが、彼らは忘れていた。

 この戦場の中心に、「爆弾」が放置されていることを。

 

 

 

「……ええい、埒が明かん! 本命を狙え!」

 

 加茂家の部隊長が業を煮やした。六眼の小娘も、体術使いの男も厄介すぎる。ならば、当初の目的である「浅上藤乃の抹殺」を優先する。

 

「赤血操術・刈祓《かりばらい》!」

 

 部隊長が自身の血液を円盤状に変形させ、高速回転させて射出した。狙いは六花ではない。社の奥でうずくまっている、無防備な少女だ。

 

「あっ! しまった!」

 

 六花が気づくが、七夜との連携で前線に出すぎていたため、射線が通ってしまっている。

 

 シュパァッ!!

 

 血の刃が、社の柱ごと藤乃を襲った。轟音と共に瓦礫が崩れ落ちる。

 

「……きゃっ」

 

 藤乃の短い悲鳴。崩れた屋根の破片が、彼女の肩を直撃した。

 そして、飛び散った木片が、彼女の綺麗な顔に赤い傷を刻んだ。

 

 血が流れる。雨に混じって、鉄の匂いが広がる。

 

 その瞬間。

 藤乃の虚ろだった瞳に、焦点が戻った。世界が、鮮明になった。

 

「……ああ」

 

 彼女は自分の頬に触れた。ぬるりとした感触。そして、ズキリという鈍い感覚。無痛症の彼女が、なぜか「痛み」を幻視した。あるいは、恐怖を「痛み」として誤認したのか。

 

「……痛い」

 

 藤乃が呟いた。その声は、雨音にかき消されるほど小さかったが、戦場にいた全員の鼓膜を震わせた。

 

「……痛いのは、嫌」

 

 彼女は顔を上げた。その瞳《魔眼》が、緑と赤のオッドアイのように輝き、禍々しい螺旋の光を宿す。

 視線の先には、血の刃を放った加茂家の部隊長がいる。

 

 彼女は、世界を呪うように、静かに命じた。

 

「――凶れ《マガレ》」

 

 

 

 グギィィィィィッ!!!

 

 世界が悲鳴を上げた。

 物理法則が無視されたのではない。空間の座標軸そのものが、雑巾を絞るようにねじ切られたのだ。

 

「……え?」

 

 部隊長の身体が、ありえない方向に回転した。首が右へ360度。胴体が左へ720度。手足が螺旋状に圧縮される。

 

 ブチブチブチブチッ!!

 

 肉が千切れ、骨が砕け、内臓が破裂する音。

 悲鳴すら上げられなかった。

 一瞬前まで人間だったモノは、赤と白が混ざり合った「ねじれた肉塊」となって地面に転がった。

 

「「「!?!?」」」

 

 戦場が凍りついた。

 加茂家の残党も、六花も、そして七夜さえも動きを止めた。

 

「……おいおい。マジかよ」

 

 七夜の額に冷や汗が伝う。

 

 彼は「死」には慣れている。だが、今の現象は異質すぎる。

 予備動作なし。呪力の予兆なし。

 ただ「視た」だけで、対象の空間ごとねじ切ったのだ。

 

「……うわっ! グロい! でも凄い! これが『歪曲の魔眼』の本気!?」

 

 六花だけが、恐怖よりも興奮(と若干の嘔吐感)を感じていた。

 アニメで見たあの能力。防御無視の即死攻撃。

 彼女の「無下限バリア」ですら、空間ごとねじ切られれば防げるか怪しい。

 

「……嫌。来ないで」

 

 藤乃が立ち上がった。彼女はパニック状態に陥っていた。

 周囲の全てが敵に見える。痛みを与えるモノに見える。

 

「壊れなさい……壊れて……!」

 

 彼女が視線を走らせる。

 視界に入った大木が、飴細工のようにねじ切れて倒れる。石灯籠が粉砕される。雨粒さえもが螺旋を描いて弾け飛ぶ。

 

「ひ、ひいいいっ! バケモノだ!」

 

「退却! 退却だ!」

 

 加茂家の術師たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 だが、逃げ遅れた数名が、次々と見えない巨人の手によって雑巾絞りにされていく。

 

「……クソッ、近づけねえぞ」

 七夜が木陰に身を隠した。

 彼の超人的な回避能力も、「視線」そのものを避けることはできない。藤乃の視界に入れば、その瞬間にねじ切られる。

 

「嬢ちゃん! 下がれ! アレは無差別だ!」

 

「わ、わかってるよ!」

 

 六花も距離を取る。

 「蒼」で攻撃すれば倒せるかもしれないが、それでは藤乃を殺してしまう。かといって、説得できる状態ではない。

 

 破壊の嵐が吹き荒れる中、誰も近づけない「死の領域」が形成された。

 

 

 ――いや。

 一人だけ、その領域に踏み込める者がいた。

 

 佐藤蓮。

 彼は、崩れた社の影から、じっと藤乃を見ていた。

 

(……彼女は、泣いている)

 

 蓮には分かっていた。

 彼女は殺人を楽しんでいるわけではない。恐怖しているのだ。

 自分が生きている実感がないまま、痛みという「死の予兆」だけを与えられ、世界から拒絶されることに怯えている。

 

(……誰も、彼女を見ていない。「怪物」としてしか見ていない)

 

 蓮は、リュックの紐を握りしめた。

 怖い。

 あんな魔眼に睨まれたら、自分なんて一瞬でスクラップだ。足が震える。帰りたい。

 

 でも。

 雨に濡れて震える彼女を、このまま放置して「バッドエンド」にするのは、もっと嫌だった。

 

「……行こう」

 

 蓮は、瓦礫の陰から一歩を踏み出した。戦場に、場違いなスニーカーの音が響く。

 

「おいガキ! 死ぬぞ!」

 

 七夜が叫んだ。

 

「蓮くん!?」 

 

 六花が息を呑む。

 

 だが、蓮は止まらなかった。彼は、藤乃の正面から堂々と歩いていく。

 

 藤乃が顔を上げた。殺意と恐怖に染まった魔眼が、蓮の方を向く。

 

「……あ」

 

 蓮と目が合った。

 七夜も六花も、最悪の結末(蓮がねじ切られる光景)を覚悟した。

 

 しかし。

 何も起きなかった。

 

「……?」

 

 藤乃は、蓮を見ていた。だが、認識していなかった。

 彼女の脳は今、「敵意を持つ者」「殺気を持つ者」「強大な力の持ち主」を優先的に処理している。

 そのフィルターにおいて、佐藤蓮という存在はあまりにも希薄すぎた。

 背景の木々。落ちる雨粒。転がる石ころ。それらと同レベルの「無害なノイズ」として、彼女の魔眼は蓮をスルーしたのだ。

 

 蓮は、ゆっくりと、しかし着実に歩を進める。

 心の中で呪文を唱えながら。

 

(僕はモブだ。空気だ。石ころだ。……君を傷つける刃じゃない)

 

 藤乃の周囲で、空間が軋む音がする。

 だが、その歪みは蓮の身体を避けるように発生している。

 まるで、台風の目の中に入ったかのように。

 

 そして。

 蓮は、ついに藤乃の目の前まで辿り着いた。

 

「……お姉さん」

 

 蓮は、そっと手を伸ばした。そして、震える彼女の手を、両手で包み込んだ。

 

「……!」

 

 藤乃がビクリと身を竦める。

 初めて、彼女の焦点が蓮に合った。

 

「……誰?」

 

 彼女は、目の前に「人」がいることにようやく気づいた。

 攻撃してこない。殺気を放っていない。ただ、困ったような顔をした、地味な少年。

 

「通りすがりの、観光客です」

 

 蓮は、できるだけ普通の声で言った。そして、彼女の手をぎゅっと握った。

 

「……雨、冷たいですね」

 

 その言葉と共に、蓮の手の体温が、藤乃の冷え切った指先に伝わった。

 感覚がないはずの彼女の体に、確かな「熱」が染み込んでいく。

 それは、痛みではない。生の実感だった。

 

 

 佐藤蓮の手が、浅上藤乃の冷え切った指先を包み込んだ。

 その瞬間。

 世界を捻じ曲げていた不可視の力が、ふっと霧散した。

 

「……あ」

 

 藤乃の口から、小さな吐息が漏れた。

 彼女の瞳の中で渦巻いていた、赤と緑の禍々しい螺旋の光が、急速に静まっていく。

 後に残ったのは、ただの困惑した少女の瞳だけだった。

 

「……温かい」

 

 彼女は呟いた。

 無痛症という孤独な檻の中にいた彼女にとって、他人の体温は「痛み」を伴わない、唯一の確かな現実《リアル》だった。

 

「……あなたは、怖くないのですか?」

 

「怖いですけど」

 

 蓮は正直に答えた。

 

「でも、あなたが泣いているように見えたので」

 

 その言葉は、藤乃の心に深く突き刺さった。

 誰もが彼女を「怪物」と呼び、殺そうとし、あるいは利用しようとした。

 けれど、この名もなき少年だけは、彼女を「泣いている女の子」として見てくれた。

 その事実が、彼女の精神を暴力衝動から引き戻したのだ。

 

「……おいおい。マジかよ」

 

 木陰から様子をうかがっていた七夜志貴が、呆れたように頭をかいた。

 彼には見えていた。

 藤乃の魔眼が、蓮の姿を捉えようとして、何度もスリップしていたのを。

 「敵意」も「殺気」も「強者オーラ」もない、あまりにも無害な存在。

 それが最強のステルス迷彩となり、彼女の警戒網《セキュリティ》をすり抜けたのだ。

 

「……やるじゃねえか、一般人。俺じゃ逆立ちしても無理な芸当だ」

 

 小鳥遊六花もまた、へたり込みそうになるのを堪えていた。

 

 「蓮くん……! よかった、無事だ……!」

 

 

 

 だが、事態はまだ終わっていなかった。

 生き残った加茂家の術師たちが、恐怖と憎悪に顔を歪めて立ち上がったからだ。

 

「……おのれ、化け物め! 隊長を殺したな!」

 

「ここで殺さねば、呪術界の恥だ! 全員で術式を放て!」

 

 彼らは半狂乱になっていた。

 藤乃が落ち着いている今が好機とばかりに、残った呪力を振り絞り、一斉攻撃の構えを取る。

 狙いは藤乃だけではない。彼女の手を握っている蓮もろとも吹き飛ばす気だ。

 

「いけない! 蓮くん、逃げて!」

 

 六花が叫び、術式を展開しようとする。

 七夜がナイフを構え直す。

 

 だが、それよりも早く。

 上空から、静謐で、絶対的な「拒絶」が降ってきた。

 

 ズゥゥゥゥン……!!

 

 藤乃と蓮を中心とした空間に、巨大な直方体の結界が出現した。

 それは青白く輝き、内側と外側を完全に隔絶していた。

 加茂家の術式が着弾するが、結界の表面で波紋一つ起こさずに消滅する。

 

「な、なんだこの結界は!?」

「呪力干渉を受け付けない!? 誰だ!」

 

 術師たちが狼狽する中、森の奥から一人の男が歩いてきた。

 袴姿に、少し癖のある髪。

 その手には、和紙の束《呪符》が握られている。

 

 墨村正守《すみむら まさもり》。

 裏会の若き幹部にして、異能者集団「夜行《やぎょう》」の頭領。

 

「……やれやれ。私の部下(七夜)が手こずっていると思えば。呪術界の方々が出しゃばってくるとはね」

 

 正守の声は穏やかだが、その瞳の奥には底知れない冷徹さが宿っていた。

 

「『真界《ぜっかい》』。……これに干渉できるのは、君たちの頭領(五条悟)くらいのものだよ」

 

 

 

 正守は、加茂家の残党を見下ろした。

 

「……貴様、裏会の墨村か! 我々は加茂家の……」

 

「知っているよ。御三家の名門が、こんな山奥でコソコソと掃除屋の真似事とは、落ちぶれたものだ」

 

 正守は冷ややかに言い放った。

 

「単刀直入に言おう。その少女、浅上藤乃は、我々裏会の管理下にある重要参考人だ。『土地神の器』としての資質がある。……よって、これ以上の手出しは無用だ」

 

「ふ、ふざけるな! 彼女は我々の同胞を殺した! 処刑する権利がある!」

 

「ならば、五条悟を通して正式に抗議したまえ」

 

 正守は最強のカードを切った。

 

「この件、私が五条君に『加茂家が私の任務を妨害し、あまつさえ彼の娘御(六花)さんを攻撃した』と報告したら……どうなると思うかね?」

 

 その言葉に、術師たちの顔色が青を通り越して土色になった。

 最強の現代呪術師・五条悟。彼がキレたら、加茂家の一つや二つ、物理的に消し飛びかねない。

 しかも、六花への誤射未遂(実際は流れ弾だが)という事実は致命的だ。

 

「……くっ、覚えていろ!」

 

「撤退だ! 負傷者を連れて行け!」

 

 加茂家の部隊は、逃げるように森を去っていった。後に残されたのは、静寂と雨音だけ。

 

 

 正守は真界を解いた。

 そして、藤乃と蓮の前に歩み寄った。

 

「……怖がらせてすまなかったね、お嬢さん」

 

 正守は、ビジネスライクだが礼儀正しい態度で藤乃に接した。

 

「君のその目と病気……我々なら、完治とはいかないが、制御する方法を教えられる。少なくとも、無意味に人を傷つけずに済む居場所を提供しよう」

 

 それは勧誘だった。裏会は、呪術界のように「異端を排除」しない。「異端を活用」する組織だ。

 藤乃の歪曲の魔眼は、正守の「夜行」にとって強力な戦力になり得る。

 

 藤乃は迷ったように視線を彷徨わせ、最後に蓮を見た。蓮は、握っていた手をそっと離した。

 

「……行った方がいいですよ。この人は、多分そんなに悪い人じゃないです(ブラック上司っぽいけど)」

 

 蓮は小声で付け加えた。

 

 藤乃は小さく微笑んだ。それは、初めて見せる年相応の少女の顔だった。

 

「……わかりました。行きます」

 

 彼女は正守に向かって頷いた。

 そして、蓮に向き直り、深く頭を下げた。

 

「ありがとう。名も知らぬ方。……あなたの手の温かさ、忘れません」

 

 

 

「……へっ。綺麗にまとまりやがって」

 

 七夜志貴が、木の上から飛び降りてきた。

 彼はナイフを懐にしまうと、大きく伸びをした。

 

「正守さんよぉ。俺への追加報酬、弾んでくれよな? 呪術師相手に大立ち回りさせられたんだからよ」

 

「ああ、考慮しておこう。君のナイフ捌きは相変わらず見事だった」

 

 七夜は鼻を鳴らし、六花の方へ歩いていった。六花はまだ警戒を解いていない。

 

「……何?」

 

「いーや? 別に取って食おうってわけじゃねえよ」

 

 七夜は、六花のサングラス(六眼)を指差した。

 

「いい目をしてるな、嬢ちゃん。……でも、目が良すぎるってのも考えもんだぜ。見えすぎる世界は、時に狂気を呼ぶ。……ま、精々気をつけるこった」

 

「……ふん。余計なお世話だよ」

 

「ハハッ。元気でいいこった」

 

 七夜はニヤリと笑い、背を向けた。

 

「じゃあな。次は敵同士かもしれねえが……その時は、俺のナイフが届くか、お前のバリアが勝つか、続きをやろうぜ」

 

 言い残し、彼は風のように森の奥へと消えていった。

 その背中には、この世界で生きる「殺人鬼」としての矜持が見えた。

 

 

 

 嵐が去り、夕日が差し込んできた。

 正守に連れられていく藤乃を見送った後、六花と蓮は、無人の社に残された。

 

 そこでようやく、六花のオタク回路が再接続された。

 

「……ねえ、蓮くん」

 

「はい」

 

「さっきの女の子……名前、なんて言ってたっけ?」

 

「浅上藤乃さんですね」

 

「……能力、なんて言ってたっけ?」 

 

「『凶れ《マガレ》』って言ってましたね」

 

 数秒の沈黙。

 そして、六花の絶叫が森に響いた。

 

「うわぁぁぁぁぁぁッ!! 本物だァァァッ!!」

 

 六花は頭を抱えてのたうち回った。

 

「嘘でしょ!? 『空の境界』の浅上藤乃!? 劇場版第3章の!? 『痛いのは嫌』って言ってた! 言ってたよ!?」

 

「……言ってたね(やっぱり今日の六花ちゃんはちょっとおかしいな)」

 

「なんで私、気づかなかったの!? サイン貰えばよかった! ていうか、私の『邪王真眼』と彼女の『歪曲の魔眼』のコラボレーションだったじゃん! 激アツ展開だったじゃん!」

 

 六花は地団駄を踏んだ。

 戦闘中は必死すぎて、目の前の現象を「情報」として処理していたが、終わってみれば「聖地巡礼」以上の遭遇イベントだったことに気づいたのだ。

 

「……はぁ、はぁ。でも、生きてたね」

 六花は少し落ち着きを取り戻し、空を見上げた。

 

「原作だと、もっと悲惨な目に遭ってた気がするけど……この世界線だと、裏会に保護されてハッピーエンドなのかな?」

 

「さあね。でも、少なくとも『バッドエンド』は回避できたんじゃないかな」

 

 蓮は、自分の掌を見つめた。そこにはまだ、彼女の冷たくて、でも人間らしい体温が残っているような気がした。

 

「……蓮くん。君、またヒロインフラグ立てた?」

 

「立ててないよ。……僕はただのモブだからね」

 

 蓮はリュックを背負い直した。

 

「さ、帰ろう六ちゃん。お腹空いた」

 

「うん! 今日はオロチ蕎麦食べよう!」

 

 二人は夕暮れの山道を歩き出した。

 神話の国・出雲の風が、雨上がりの森を優しく吹き抜けていった。

 

 こうして、9月の伝奇的な一日は、誰にも知られることなく幕を閉じた。

 歴史の闇に埋もれるはずだった悲劇は、一人のモブ少年の介入によって、静かにその結末を変えたのだった。





ファンの方ごめんちゃい。

それにしても2人ともあれの後でよく食欲とかあるな。
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