山陽自動車道を西へ向かって走るワンボックスカーの中で、寶月夜宵《ほうづき やよい》はリュックサックから一枚の和紙を取り出し、じっと見つめていた。一見するとただの人型に切り抜かれた紙切れだが、夜宵の持つ特異なドクロの瞳(重瞳)を通すと、そこに込められた極めて緻密で膨大なエネルギーの残滓が見て取れた。
あの日。鳥取県の大山で出会った、「小鳥遊六花《たかなし りっか》」と名乗った銀髪の少女。彼女から渡された、この『形代《かたしろ》』。夜宵は、自分が集めている特級悪霊──『卒業生』たちを恐れるどころか、平然と観察していた六花の底知れなさを思い出していた。だが、夜宵の脳裏にさらに深く焼き付いているのは、六花の背後に現れた「父親」の姿だ。
『ま、祓っちゃっていいよね』
五条悟。そう名乗った長身の白髪の男が放った、赤い閃光。あれは、夜宵が知る「霊能力」や「呪い」の範疇を完全に逸脱していた。圧倒的なまでの『正のエネルギー』による、空間そのものの拒絶と破壊。夜宵にとって、悪霊とは「狩り、喰らい、使役する」対象だ。しかし、あの男の力は違う。ただそこにあるだけで周囲の理《ことわり》を圧殺する、人間の形をした理不尽な天災。世界には、自分たちの手の届かない絶対的な『理(呪術師の頂点)』が存在する。その事実は、夜宵の価値観に静かな、しかし確実な転換をもたらしていた。
「へぇー! 夜宵ちゃん、ずっとその紙人形見てるね。大山で会ったっていう、呪術師? の子にもらったやつだっけ」
運転席でハンドルを握る寶月詠子《ほうづき えいこ》が、バックミラー越しに楽しそうに声をかけた。
「……うん。あの『六花お姉さん』は、変だった。あんな化け物(五条悟)の側にいて、全然狂ってない。むしろ、すごく静かだった」
「あはは! 夜宵ちゃんと気が合いそうだね!」
「……そうかも」
夜宵は形代をしまい、窓の外へ視線を移した。
「それより、もうすぐ広島市内。……螢多朗、準備はいい?」
「よ、よくないよぉぉ……なんでまた遠出なの……」
助手席で、幻燈河螢多朗《げんとうが けいたろう》が青ざめた顔でシートベルトを握りしめていた。大山での一件で精神をすり減らした彼だったが、「広島にSランク候補の悪霊の噂がある」という夜宵の言葉に、結局引きずり出されていた。
「大丈夫だよ螢多朗君。今日の夜に行くトンネルまでは、市内観光でもしてリフレッシュしようよ。ね?」
詠子が明るく励ますが、螢多朗の極度の霊媒体質が、この先でどのようなトラブルを引き寄せるか、この時の彼はまだ知る由もなかった。
◇
広島市中区、平和記念公園。雲一つない秋晴れの空の下、全国から集まった修学旅行生や観光客が、平和の祈りを込めて静かに園内を歩いていた。
ボランティアガイドの初老の男性が、資料を片手に説明をしている。その言葉を真剣な表情でノートに書き留めているのは、鳥取県境港市からやってきた小学五年生の集団だ。
集団の最後尾。クラスメイトの列から少しだけ離れた位置に、小鳥遊六花は立っていた。銀色のセミロングヘアに、季節外れの色の濃いサングラス。端正で大人びた顔立ちの彼女は、小学生の集団の中にあって異質なほどの落ち着きを放っていた。彼女は前世の記憶を持つ転生者であり、その教養指数(クトゥルフ神話TRPGで言うところのEDU・教養値)は17。国公立大学を卒業した大人の知識を、この10歳の肉体に宿している。当然の如く原爆ドームの話は知っている。
「……ふぅ。やっぱり、ここは空気が重いね」
六花は、サングラスの奥の蒼い瞳──『六眼《りくがん》』で、公園一帯を覆うエネルギーの流れを視認していた。呪いではない。悲しみと、鎮魂の祈り。何十万人もの人々の念が、静かに、そして重厚にこの土地に定着している。それはある意味で、極めて純度の高い霊的磁場を形成していた。
「ゲホッ……六花、そんなこと言ってっけど、サングラス外してないじゃんか。先生に怒られるぞ」
隣で、マスクをした幼馴染の佐藤蓮《さとう れん》が、胃のあたりを押さえながら小声でツッコミを入れた。彼は大山の時と同様、長旅の疲れ(と六花のストッパー役としての心労)で軽く体調を崩している。
「外せないんだよ、蓮くん。この場所の『情報量』を裸眼で見たら、脳が疲れちゃうからね」
六花は中性的な、どこか飄々とした柔らかい口調で答えた。
「それに、私はパパみたいに目隠しで歩けるほど、まだ呪力による視覚情報の処理に慣れてないし」
「……君、うっすら五条さんを超えようとしてるよね」
「うーん、本気度で言えば42パーセントくらいかな。残りの58パーセントは、蓮くんたちと面白おかしい日常を楽しむために使いたいし」
「勘弁して……」
蓮が深いため息をついた、その時だった。
ピリッ、と。六花の肌を、微弱な静電気が走るような感覚が撫でた。六眼は360度全方位を視認できるわけではない。しかし、背後十数メートルの空間で、公園の『鎮魂のエネルギー』とは明らかに異質の、どす黒く歪んだ呪力の波長が発生したのを、六花は確かに「感じ取った」。
(……え?)
六花はガイドの説明を聞く姿勢を崩さず、自然な動作で首を少しだけ後ろへ傾け、サングラスの端から背後をチラリと盗み見た。六眼が、瞬時にその『異物』の正体を解析する。
元安川の川沿い。観光客の死角となる木陰に、泥とヘドロが固まったような、不定形の悪霊が這い出していた。それは、この土地の霊ではない。強い霊媒体質の人間に引き寄せられ、外から紛れ込んできた「妖怪崩れ」だ。あろうことか、この神聖な公園の澄んだエネルギーを喰らって、自らを肥大化させようとしている。
(あんな不浄なものを、ここで暴れさせるわけにはいかないね)
六花は静かに思考を回した。ターゲットの少し手前には、見覚えのある大学生(螢多朗)と、ドクロの瞳を持つ少女(夜宵)の姿があった。螢多朗の特異体質が、あの悪霊を引き寄せてしまったのだろう。夜宵がリュックに手を入れているのが見える。おそらく、彼女の持ち駒である『卒業生』を出して迎撃するつもりだ。
(ダメだよ、夜宵ちゃん。こんな白昼堂々、修学旅行生や観光客のど真ん中で特級クラスの悪霊を出したら、大パニックになっちゃう)
六花は即座に決断した。列を乱さず、誰にも気付かれずに、あの悪霊の霊核だけをピンポイントで破壊する。
◇
ガイドの男性が「それでは、次のモニュメントへ移動しましょう」と声をかけ、生徒たちがゾロゾロと歩き始める。
六花も列に従って歩き出しながら、足元に落ちていた親指大の小石を、右足の靴のつま先でそっと拾い上げた。
(対象までの距離、約15メートル。風速1.2メートル。周囲の一般人のバイタル反応、多数)六花の六眼と脳が、空間のベクトルと物理演算をコンマ数秒で完了させる。直接蹴り飛ばせば、弾道が観光客の視界に入ってしまう可能性がある。ならば──。
(波紋疾走《オーバードライブ》・微弱。からの、術式順転『蒼《あお》』による軌道修正)
六花は、靴の先端に生命エネルギーである『波紋』を集中させた。石を粉砕せず、内部にエネルギーだけを蓄積させる絶妙なコントロール。そして、歩く動作の延長線上で、極めて自然に、足首のスナップだけでその小石を後方へ向かって弾き飛ばした。
ピシュッ! 小石は音もなく芝生の上を滑空し、遊歩道の脇にある石碑の台座に激突。通常ならそこで運動エネルギーを失って落ちるはずだが、六花が石碑の表面に極小の『蒼(引力)』を発生させていたため、小石はビリヤードの球のように鋭角にバウンドし、死角にいた悪霊の背後へと回り込んだ。
「キシャァァ……!?」
悪霊が螢多朗に飛びかかろうと跳躍した、まさにその瞬間。波紋のエネルギーをたっぷり吸い込んだ小石が、悪霊の背中──六眼が見抜いた呪力の結び目(霊核)に、正確無比にクリーンヒットした。
バチュンッ!!
太陽のエネルギーに等しい波紋の直撃を受け、悪霊は内部から焼き焦がされるように硬直した。物理的な傷ではない。存在を維持するための呪力構造が、一瞬にしてショートしたのだ。
「……え?」
悪霊を迎撃しようと形代を構えていた夜宵が、目を見開いた。突如として空中で機能停止し、ボトリと地面に落ちた悪霊。夜宵はその千載一遇の隙を逃さなかった。
「……捕まえた」
素早く形代を押し当て、弱り切った悪霊を瞬時に封印する。
「ひぃっ!? い、今何か飛びかかってこなかった!?」
螢多朗が腰を抜かしてへたり込むが、すでに悪霊の姿はない。
「螢多朗、静かに。……終わったから」
夜宵は形代をしまいながら、視線を鋭く周囲へ巡らせた。今の攻撃。明確な殺意と、信じられないほどの精密な呪力操作。誰かが、自分たちを「援護」した。
夜宵の重瞳が、小石の飛んできた軌道を逆算する。その視線の先。整然と並んで歩く修学旅行生の列の中に、銀色のセミロングヘアを揺らしながら歩く、大柄な少女の後ろ姿があった。横顔に光るサングラス。
(……六花、お姉さん)
夜宵は確信した。あの大山で見た、規格外の呪術師の娘。彼女は振り返ることすらなく、歩みを止めることもなく、周囲の誰にも気付かれずに、あの厄介な悪霊の急所を撃ち抜いてみせたのだ。
(……すごい。あの白髪の人(五条悟)は天災だったけど、この人は『精密機械』だ)
夜宵は、六花の遠ざかる背中を見つめながら、小さく息を吐いた。会話は一切ない。だが、二人の間には確かに、奇妙な共犯関係のようなものが成立した瞬間だった。
「おーい、お前ら! ちゃんと列についてこいよ!」
引率の先生の声が響く。
「はーい!」
六花は年相応の明るい声で返事をし、蓮の背中をポンと叩いた。
「ほら蓮くん、遅れるよ。平和学習、しっかり聞かないとね」
「お前、今絶対なんかやったろ……背中から変なプレッシャー感じたぞ……」
「気のせいだよ。さ、お弁当の時間まであと少しだ!」
◇
午後。平和記念公園での学習を終えた修学旅行生たちは、班別の自由行動に入っていた。広島市の中心部、本通(ほんどおり)アーケード街。もみじ饅頭やしゃもじを売る土産物屋が軒を連ね、観光客でごった返している。
「はぁ……人混みは疲れるな。六花、お土産はもういいだろ。俺は早く旅館に戻って休みたい……」
蓮が紙袋をぶら下げながら、疲労困憊といった様子で歩いている。
「もう、蓮くんは体力ないなぁ。班別行動の時間はまだ1時間もあるんだよ? ……おや?」
六花がふと足を止めた。賑やかなアーケードのメインストリートから一本外れた、薄暗い路地裏。そこにある古ぼけた骨董品店の店先から、周囲の活気ある空気とは不釣り合いな、ジメッとした『呪力』の気配が漂ってきていたのだ。
「ちょっと蓮くん、あのお店、面白そう」
「おいバカ、どう見ても怪しいだろ。小学生が入るような店じゃない」
「大丈夫だよ。これは修学旅行の『歴史的資料のフィールドワーク』の一環だから。地域の古い文化に触れるのも学習のうちでしょ?」
クトゥルフ神話trpg換算のEDU17から繰り出される謎の説得力(という名の屁理屈)で班員を丸め込み、六花はズンズンと路地裏へ進んでいく。蓮は胃薬のパッケージを握りしめながら、しぶしぶ後を追った。
カラン、とくぐもったベルの音を鳴らして店内に入る。中は埃っぽく、古伊万里の皿や出所不明の掛け軸などが雑多に積まれていた。そして、店の奥のレジカウンターでは、先ほど公園で見かけた「彼女たち」が、店主と何やら揉めていた。
「ですからお嬢さん方、この『市松人形』はただの古い人形じゃありません。江戸時代から代々伝わる、曰く付きの呪物でしてね。夜になると髪が伸びるんですよ。これほどの霊的価値がある品、本来なら10万円は下りませんが、今日は特別に5万円で……」
胡散臭い笑顔を浮かべる店主。カウンターの上に置かれた、薄汚れた着物を着た市松人形を見つめているのは、寶月夜宵と詠子だった。
「……うーん。確かに嫌な気配はするけど、5万円は高いねぇ。夜宵ちゃん、どうする? お小遣い足りる?」
詠子が困ったように笑う。
「……欲しい。これ、中に小さな動物霊が詰め込まれてる。簡易的な蠱毒の壺になってる。……でも、5万はボッタクリ」
夜宵がジト目で店主を睨むが、店主は「いやいや、霊的な価値が分かるならお安いでしょう」と引かない。
その時だった。
「おじさん、それ嘘だね」
涼やかな、しかし絶対的な自信に満ちた声が店内に響いた。夜宵と詠子が振り返る。そこには、サングラスを少しずらし、蒼い瞳で市松人形を冷徹に見下ろす六花が立っていた。
「……ろ、六花お姉さん」
夜宵が驚きの声を漏らす。六花は夜宵に軽くウインクをしてから、店主に向き直った。
「その人形の着物に使われている赤い染料。どう見ても化学合成された『アリザリン』だよ。アリザリンが工業的に合成されたのは1868年。日本に輸入されて普及したのは大正時代以降。江戸時代から伝わるっていう前提が、すでに歴史的に破綻してる」
「な、何を馬鹿な……子供が知ったふうな口を!」
店主が顔を真っ赤にして反論しようとするが、六花の口撃は止まらない。
「それに、その人形から出てる『呪い』の痕跡。私の目にははっきり見えてるけど、これ、本職の呪術師や拝み屋がやったものじゃないね。素人が『コックリさん』の延長線上で、動物の霊を無理やり押し込めただけの、粗悪で後付けの呪詛だ。木材の劣化具合から見ても、せいぜい昭和後期の作。……霊的な価値なんて、ゼロに等しいよ」
六花の『六眼』と審美眼による完璧な物質解析・呪力解析と、前世の教養(民俗学・化学史)から繰り出される圧倒的な論理の連撃。店主は口をパクパクさせるだけで、何も言い返せなくなってしまった。
「古物営業法違反における『虚偽の事実の告知』、並びに詐欺未遂。警察や消費者センターに通報されたくなければ、適正価格……いや、ただの中古のガラクタとしての値段で売るべきだね」
六花はニッコリと笑って、決定打を放った。
「どうかな? 500円くらいが妥当だと思うけど」
「…………ご、500円で結構です」
完全に心を折られた店主は、涙目で市松人形を夜宵に差し出した。
「……六花お姉さん。頭いい。すごい」
500円玉をワンコイン支払いながら、夜宵が尊敬の眼差しで六花を見上げた。公園での狙撃といい、今の完璧な交渉といい、この少女のスペックは底が知れない。
「うちのパーティーの交渉担当になってほしい」
「ふふっ、光栄だね。でも、今は班別行動中だから、また後でね」
六花が笑って答えようとしたところへ、蓮が後ろから六花の首根っこを掴んだ。
「六花ちゃん! ……目立つことするなって言っただろ! ほら、行くぞ! 集合時間に遅れる!」
「あいたたた! 蓮くん、引っ張らないで! せっかくカッコよく決めたのに!」
ジタバタと暴れる六花を引きずりながら、蓮は夜宵たちに軽く頭を下げた。
「すいません、うちのバカが。……それじゃ、お気をつけて」
「う、うん。バイバイ……」
詠子が苦笑いしながら手を振る。
嵐のように現れ、論破し、去っていった銀髪の少女。夜宵は、手に入れたばかりの呪具(市松人形)を抱きしめながら、路地裏に消えていく六花の後ろ姿をじっと見つめていた。
「……詠子。やっぱりあの人、すごい」
「そうだねぇ。あの年齢であの知識量、只者じゃないよ」
「うん。……明日の宮島、あのお姉さんも来るかな」
夜宵のドクロの瞳が、微かな期待に揺れていた。広島最大の霊的スポット、宮島・弥山。そこで再び彼女と交差する予感が、夜宵にははっきりと感じられていた。