仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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20+2 広島修学旅行と悪霊狩り:島の原生林

 

 11月の冷たい海風が、宮島口から出港したフェリーの甲板を吹き抜ける。海上にそびえ立つ朱塗りの大鳥居が徐々に近づいてくる光景に、修学旅行の児童たちは歓声を上げていた。

 

「うわぁ、大きいね! 水の上に建ってるなんて不思議!」

 

「あれ、どうやって倒れないようにしてるんだろうな?」

 

 はしゃぐクラスメイトたちの中で、小鳥遊六花《たかなし りっか》はフェリーの手すりに寄りかかり、サングラスの奥の蒼い瞳で島全体を眺めていた。

 

「……あれはね、鳥居の根元が海底に埋まってるわけじゃないんだよ。ご神木である楠の重みと、笠木の中に詰められた数トンの玉石の自重だけで立ってるの。先人の建築技術と、波の力を逃がす構造の賜物だね」

 

 六花がさらりと解説すると、周囲の児童たちが「へえーっ!」「六花ちゃんすげえ!」と感嘆の声を上げた。六花にとって、この程度の一般教養は朝飯前のようだ。彼女は得意げにふんす、と鼻を鳴らした。

 

「ゲホッ……六花ちゃんまた知識をひけらかしてさあ……」

 

 隣で海風に吹かれながら、佐藤蓮《さとう れん》が胃薬を取り出している。

 

「いいじゃないか、蓮くん。修学旅行は学びの場だよ? 正しい知識の共有は班長の義務だ」

 

「僕は君がまた『霊的力場がどうの』って言い出さないかヒヤヒヤしてるんだよ……」

 

「私の事なんだと思ってるの」

 

 やがてフェリーが桟橋に到着し、一行は宮島へ上陸した。厳島神社へ続く表参道は、観光客と、この島の名物である野生のニホンジカで溢れかえっていた。

 

「あ、鹿さんだ! かわいいー!」

 

 クラスの女子たちが鹿に駆け寄り、カバンの中から持参したお菓子やパンを取り出そうとする。

 

「ほら、お食べー」

 

 その瞬間、六花がスッと女子たちの間に割り込んだ。

 

「待って。餌をあげちゃダメだよ」

 

 六花の少し低く、落ち着いた声に女子たちが手を止める。

 

「え? なんで? 奈良公園みたいに鹿せんべい売ってないから、これあげようと思って……」

 

「宮島ではね、2008年から鹿への給餌が条例レベルで厳しく禁止されてるんだ。奈良の鹿とは管理の仕方が違うの。ここの鹿はあくまで『野生動物』として扱う方針に転換したからね」

 

 六花は、鹿の頭を優しく撫でようとしたクラスメイトの手を制し、理路整然と説明を続けた。

 

「人間が餌を与えすぎると、鹿が自分で山に入って採食する能力を失っちゃうし、栄養バランスが崩れて病気になりやすくなる。それに、人間の食べ物の味を覚えると、観光客の荷物を襲うようになって、結果的に鹿が『害獣』として駆除される原因になっちゃうんだよ。生態系を守るためには、可愛いからって安易に手を出しちゃダメなんだ」

 

 六花の淀みない、それでいて相手を思いやるような解説に、女子たちはハッとしてお菓子をカバンにしまった。

 

「そ、そっか……知らなかった。ごめんね鹿さん」

 

「うん。見てるだけにしておこうね」

 

 一部始終を見ていた引率の教師が、「小鳥遊、よく知ってるな! その通りだ」と感心したように頷いている。蓮は、またしても完璧に立ち回る幼馴染を見て、小さくため息をついた。

 

「……君、本当に小学生の皮を被った何かだよね」

 

「心外だなぁ。私はただの、教養ある美少女だよ?」

 

 六花はサングラスを指先で押し上げ、ニヤリと笑った。

 

 

 厳島神社の参拝を終えた一行は、班別の自由行動に入った。多くの班が表参道商店街でもみじ饅頭を食べ歩いたり、水族館へ向かう中、六花と蓮の班はロープウェイ乗り場へと向かっていた。

 

「六花ちゃん……本当に山に登るのか? 俺、ちょっと歩き疲れてきたんだけど……」

 

 蓮が愚痴をこぼす。

 

「蓮くん、宮島の本質は神社じゃない。あの背後にそびえる『弥山《みせん》』の原生林だよ」

 

 ロープウェイのゴンドラに揺られながら、六花は窓の外に広がる深い森を見下ろした。標高535メートル。古くから山岳信仰の対象とされ、弘法大師空海が修行したとも伝えられる霊山。六花の『六眼』には、この山が放つ尋常ではない霊的磁場のうねりがはっきりと見えていた。

 

「この山は、手付かずの自然が残ってる分、古くから澱んだものが溜まりやすい。……昨日、市内で会った夜宵ちゃんたち、絶対にここに来てると思うんだよね」

 

「やっぱりそれが目当てか……。頼むから、危険なことには首を突っ込まないでくれよ」

 

「分かってるよ。私はただの『植物観察』をする修学旅行生だからね」

 

 ロープウェイの終点、獅子岩駅に到着した。そこから山頂や霊火堂へ続く登山道は、観光客向けに整備されているものの、少し道を外れれば巨大な奇岩や昼なお暗い原生林が広がっている。

 六花は班員たちに「ちょっと奥の方で珍しいシダ植物のスケッチをしてくるね。蓮くん、一緒に行こ」と声をかけ、半ば強引に蓮を登山道から外れた獣道へと連れ出した。

 

「おい、勝手な行動は……」

 

「しーっ。……聞こえない? 蓮くん」

 

 六花が人差し指を口元に当てる。静寂に包まれた森の奥から、微かに、しかし確かに、異常な音が響いてきた。

 ――ズズンッ……! バキバキバキッ!

 木々がなぎ倒されるような重低音。そして、空気を引き裂くような、おぞましい絶叫。

 

「キィェェェェェェッ!!」

 

「……始まったね。行こう」

 

 六花は躊躇なく音のする方へ走り出した。蓮も腹を括り、その後を追う。

 

 

 原生林の奥深く、巨石が立ち並ぶ開けた場所。そこは、まるで台風が通り過ぎたかのように木々がへし折られ、地面がクレーターのように抉れていた。

 

「ハァッ……ハァッ……!」

 

 息を荒らげ、傷だらけになって倒れ込んでいるのは、幻燈河螢多朗だった。彼の服は泥だらけで、肩口からは一筋の血が流れている。

 

「螢多朗、無理しないで。下がってて」

 

 彼を庇うように立ち塞がっていたのは、小さなリュックを背負った少女――寶月夜宵だ。彼女のドクロの瞳は、目の前の「巨大な敵」を冷徹に見据えていた。

 それは、全長が優に10メートルを超える、巨大な『百足(むかで)』の怨霊だった。ただの虫ではない。その無数の節からは、人間の腕や赤ん坊の顔のようなものが無数に生え、悶え苦しむように蠢いている。かつてこの山に捨てられた者たちの怨念や、土着の毒虫信仰が結びついて変異した、Sランクに極めて近い特級の悪霊だ。

 

「キシャァァァァッ!!」

 

 巨大百足が、鎌のような顎を打ち鳴らして夜宵に襲いかかる。

 

「……行って。『狗坂山・千枯肢重抜刀狂妃《せんこしがさねばっとうきょうひ》』、お願い」

 

 夜宵が手にしたぬいぐるみを前に突き出す。そこから滲み出した『卒業生(狗坂山の悪霊)』が、見えない刃を振るって巨大百足の頭部を斬りつけた。

 ギインッ!! だが、金属がぶつかり合うような音が響き、斬撃は浅く弾かれた。

 

「……甲殻が硬い。霊的な装甲が厚すぎる」

 

 夜宵が舌打ちをする。ただ闇雲に斬っても致命傷にはならない。しかも、相手の巨体と素早い動きが、夜宵たちの体力を確実に削っていた。白昼の霊山で周囲に観光客がいる可能性を考慮し、大規模な呪いの展開を躊躇していることも、夜宵が苦戦している原因だった。

 

「ひぃぃっ! また来るよ夜宵ちゃん!」

 

 螢多朗が悲鳴を上げる。巨大百足が体をうねらせ、木々をなぎ倒しながら、今度は螢多朗の方へと突進してきた。圧倒的な質量が迫る。

 (……このままじゃ、避けきれない!)夜宵が形代の束を握り直した、その時だった。

 

「――そこまでだよ」

 

 涼やかな声が、森に響き渡った。

 ズウンッ!! 突進してきた巨大百足の頭部が、まるで「見えない巨大な壁」に激突したかのように、不自然な形で急停止した。凄まじい衝撃音が響くが、百足の体は前へ進めない。何かに、完全に「阻まれて」いるのだ。

 

「……え?」

 

 夜宵と螢多朗が、信じられないという顔で目を見開く。

 巨大百足の鼻先。そこに、夏服の上にジャージを羽織り、銀髪を揺らす大柄な少女が立っていた。小鳥遊六花。彼女は片手を前に突き出し、サングラスの奥の蒼い瞳で、巨大な怪物を静かに見上げていた。

 

「な、なんでこんな所に……!?」

 

 螢多朗が叫ぶ。

 

「こんにちは、螢多朗君、夜宵ちゃん。修学旅行のフィールドワーク中でね」

 

 六花は振り返らずに、軽く手を振った。

 

「……お姉さん。あれ、触ってないのに止めてる。どうやって?」

 

 夜宵が重瞳を細めて問う。

 

「『無下限呪術』だよ。私とこの百足の間の空間を、無限に分割しているの。アキレスと亀のパラドックスと同じ。近づけば近づくほど遅くなり、絶対に私には触れられない」

 

 六花は極めて論理的に説明しながら、突き出した手に呪力を込めた。

 

「ちょっと退いててね。……術式順転・『蒼《あお》』」

 

 六花の掌の前に、小さな引力の特異点が発生する。ギギギギッ……! 巨大百足の体が、見えない力に引っ張られて空中に持ち上げられた。何トンもある巨体が、まるで重力を失ったかのように宙を舞う。

 

「キェェェェェッ!?」

 

 百足がパニックに陥り、無数の足を虚空でバタつかせる。

 

「蓮くん、先生には『珍しいシダ植物のスケッチに夢中になってた』ってアリバイ工作お願いね!」

 

「六花ちゃんさぁ! こんな状況でアリバイ工作できるか! 早くやれ!」

 

 後方の茂みから、蓮の的確なツッコミ(悲鳴)が飛んだ。

 

 

「さて、夜宵ちゃん」

 

 六花は、空中で巨大百足を拘束したまま、夜宵の方へ顔を向けた。

 

「あの白髪の人(パパ)なら、ここで『赫《あか》』か『茈《むらさき》』を撃って、この山ごと吹き飛ばしちゃうところだけど……私はそんな大雑把なことはしないよ」

 

 六花はクスリと笑った。

 

「貴重な戦力候補なんでしょ? 無傷で捕獲したいなら、手伝うよ」

 

「……できるの?」

 

 夜宵が息を呑む。

 

「もちろん。私の『眼』に、見えないものはないからね」

 

 六花はサングラスを少しだけ下にずらした。宝石のように澄み切った、空の色を閉じ込めたような蒼い瞳――『六眼』が露わになる。その視覚は、巨大百足の分厚い甲殻を透過し、内部を流れる呪力の脈動、神経の配置、そして「霊的な急所」を完璧に解析していく。

 

「この悪霊、ただ無作為に怨念が固まったわけじゃない。土着の神霊の殻を被って、外から来た悪意が寄生してる構造だね。……だから外殻が異常に硬いんだ」

 

 六花は即座に状況を分析し、指示を飛ばす。

 

「夜宵ちゃん! ターゲットの弱点は一つだけ。……頭から数えて、第三関節と第四関節の間、右側面の下腹部! そこに呪力の結び目(霊核)が集中してる!」

 

「……分かった」

 

 夜宵の目に、鋭い光が宿る。六花の提示した座標。それは、百足が暴れている状態では絶対に狙えない、極小の隙だった。だが今、六花の『蒼』によって百足は空中に完全に固定され、その腹部を無防備に晒している。これ以上ない、完璧なアシストだ。

 

「狗坂山」

 

 夜宵がぬいぐるみを掲げる。不可視の斬撃が、ピンポイントで一点に収束していく。

 

「そこを……貫いて!」

 

 ズバァッ!! 大気を切り裂く鋭い音。狗坂山の卒業生が放った不可視の刃が、六花の指示した『第三関節と第四関節の間、右側面の下腹部』に、寸分の狂いもなく直撃した。

 

「ギィィィィィィィィッ!!!」

 

 巨大百足が、これまでで最も凄まじい悲鳴を上げた。装甲を破壊するのではなく、結び目を断ち切られたことで、巨体を維持していた怨念のネットワークが崩壊していく。百足の体が、内側からガラガラと崩れ落ちるように縮み始めた。

 

「よし。拘束を解くよ」

 

 六花が『蒼』を解除する。力を失い、地面に落下してきた百足の残骸。夜宵は素早く駆け寄り、用意していた特殊な形代をその額(と思われる部分)に叩きつけた。

 

「……捕獲、完了」

 

 シュゥゥゥ……という音と共に、巨大な悪霊の残滓が、小さな形代の中へ吸い込まれていく。静寂が、弥山の原生林に戻ってきた。

 

 

「ふぅ……終わったぁ……」

 

 螢多朗が、今度こそ完全に膝から崩れ落ちた。

 

「お疲れ様、螢多朗君。怪我の具合はどう?」

 

 六花が歩み寄り、螢多朗の肩の傷を覗き込む。

 

「あ、大丈夫です。かすり傷なんで……。いや、本当に助かりました、六花ちゃん。君がいなかったら、僕たちどうなっていたか……」

 

「気にしないで。たまたま『シダ植物』の観察に来てただけだからね」

 

 六花はニッコリと笑って、ずらしていたサングラスをかけ直した。

 夜宵が、形代を大事そうにリュックにしまい、六花の前へ歩いてきた。彼女は、六花をじっと見上げている。

 

「……六花お姉さん。すごい」

 

 夜宵の声には、純粋な称賛が込められていた。

 

「呪術師ってことは知ってるけど……あの白髪の人(五条悟)みたいに、山ごと吹き飛ばさないんだね」

 

 夜宵の目には、大山で見た五条悟が「人間の形をした理不尽な災害」として映っていた。対して、今目の前にいる六花は、圧倒的な力を持ちながらも、それを緻密に制御し、他者と連携する理性を持っている。

 

「あはは、パパは出力が規格外すぎるからね。大雑把なんだよ」

 

 六花はクスリと笑い、腰に手を当てた。

 

「私はね、もっと洗練された、無駄のない完全な術式制御を目指してるの。力任せじゃなくて、知識と計算で世界を解き明かすような、ね」

 

「えっ、あんな凄いお父さんを超えようとしてるの!?」

 

 螢多朗が驚いて声を上げる。あの五条悟の力の一端を知る彼にとって、それを超えるなど想像もつかないことだった。

 

「うーん、そうだね。本気度で言えば……42パーセントくらいかな」

 

 六花は指を顎に当てて、真面目な顔で答えた。

 

「42パーセント?」

 

 夜宵が首を傾げる。

 

「うん。残りの58パーセントは、みんなと一緒に、面白おかしく生きるために使いたいからね」

 

 六花が振り返って微笑むと、少し離れた木陰から、蓮がふらふらと歩いてきた。

 

「……おいバカ。君がそういう怪異のど真ん中に突っ込んでいくせいで、俺の平穏が一番遠のいてるんだよ……」

 

 蓮は胃薬の空き箱を握りしめながら、恨めしそうに六花を睨んだ。

 

「あはは! ごめんごめん。でも、これで午後のフィールドワークは完璧でしょ?」

 

「何が完璧だ。先生になんて言い訳するんだよ……」

 

 漫才のような二人のやり取りを見て、夜宵のドクロの瞳が少しだけ和らいだ。

 

「……詠子の言った通りだ」

 

 夜宵は小さく呟いた。

 

「あの白髪の人は『天災』だけど……六花お姉さんは『精密機械』。……頼もしい」

 

「何か言った? 夜宵ちゃん」

 

「ううん。……ありがとう。また、連絡する」

 

 夜宵は六花に向かって、短く頭を下げた。それは、孤高の悪霊狩りである彼女が、六花を明確に「対等のパートナー(あるいはそれ以上の信頼に足る存在)」として認めた瞬間だった。

 

「うん! いつでも呼んでね。……あ、でも夜の外出は補導されちゃうから、なるべく昼間でお願い!」

 

 六花は明るく手を振り返した。

 

「六花ちゃん! 先生の声が聞こえてくる! 早く戻るよ!」

 

 蓮に急かされ、六花は「じゃあね!」と手を振って、原生林の奥へと走っていった。

 残された夜宵と螢多朗。木漏れ日が差し込む弥山の森は、先ほどの死闘が嘘のように静まり返っている。

 

「……不思議な子だったね。僕たちよりずっと年下なのに、すごく大人びてて……」

 

 螢多朗が、遠ざかる二人の背中を見つめながら呟いた。

 

「うん。……でも、これで戦力は整った」

 

 夜宵は、リュックの中の形代に触れた。広島の白昼の空の下。彼女は新たな悪霊の力と、強力な協力者の存在を確信し、次なる戦い――「空亡」との決戦に向けて、静かに闘志を燃やしていた。

 

 

 宮島・弥山《みせん》の原生林。木漏れ日が差し込む獣道を、二人の小学生が小走りで駆け下りていた。

 

「ハァッ……ハァッ……! 待って、六花ちゃん……少し、ペース落として……」

 

 佐藤蓮《さとう れん》が、膝に手をついて荒い息を吐く。霊山特有のアップダウンの激しい山道に加え、先ほどまで特級クラスの悪霊と対峙していた極度の緊張からの解放が、彼の体力を急激に奪っていた。

 

「ごめんごめん、蓮くん。でも急がないと、先生たちが本格的に捜索を始めちゃうかもしれないからね」

 

 先を歩いていた小鳥遊六花《たかなし りっか》が立ち止まり、ふわりと振り返った。彼女の白いブラウスには、あれほどの死闘(六花にとっては精密作業)の直後だというのに、泥一つ、木の葉一枚ついていない。展開していた『無下限呪術』が、森の汚れをすべて物理的に弾いていたからだ。彼女は目元のサングラスを指で押し上げると、蓮に歩み寄り、背中を優しくさすった。

 

「胃、痛む? 息が整うまでここで休んでいこうか」

 

「いや、大丈夫だ。……それより六花ちゃん、先生にどう説明する気だ? いくら君でも、班行動を抜け出して山奥まで入ってたなんてバレたら、ただじゃ済まないぞ」

 

 蓮が心配そうに尋ねると、六花は持っていたスケッチブックをポンと叩き、余裕の笑みを浮かべた。

 

「ふふっ、抜かりはないよ。これを見て」

 

 六花が開いたスケッチブックのページには、シダ植物の一種である『ウラジロ』の葉脈や胞子嚢《ほうしのう》のつき方が、まるで図鑑の挿絵のように極めて精密なデッサンで描かれていた。さらに余白には、弥山の植生と土壌のpH値に関する考察まで、整った文字でびっしりと書き込まれている。悪霊と戦うほんの数分の間に、彼女の『六眼』が捉えた視覚情報をもとに、圧倒的な演算能力で一瞬にして描き上げたものだ。

 

「……君は本当に、小学生の皮を被った精密機械だよ」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ。さ、ロープウェイの駅まであと少しだ」

 

 二人が獅子岩駅の広場に戻ると、案の定、引率の教師が鬼の形相で立っていた。

 

「小鳥遊! 佐藤! お前たち、どこに行っていたんだ! 集合時間を五分も過ぎているぞ!」

 

「申し訳ありません、先生」

 

 六花はすっと背筋を伸ばし、完璧な優等生の顔で一礼した。

 

「弥山の原生林特有の植生遷移に興味を惹かれ、どうしても天然記念物指定エリアの境界付近でシダ植物の群生をスケッチしておきたかったのです。時間を忘れて没頭してしまいました。班長の私の一存ですので、蓮くんを責めないでください」

 

 そう言ってスケッチブックを差し出す。教師は怒鳴りつけようと息を吸い込んだが、そのあまりにも緻密で学術的なデッサンと考察ノートを見て、言葉を詰まらせた。

 

「お、おう……そうか。いや、学びへの探求心は素晴らしいが、集団行動のルールは守りなさい。佐藤も、具合が悪かったんじゃないのか?」

 

「いえ、六花ちゃん……班長に付き添って自然の空気を吸ったら、少し良くなりました。ご心配をおかけしました」

 

 蓮も深く頭を下げる。

 

「よし、全員揃ったな! それでは下山するぞ!」

 

 教師の号令で、クラスの列が再び動き出す。蓮はこっそりと六花の隣に並び、安堵の息を漏らした。

 

「……上手くいったな」

 

「当然だよ。平和な日常を守るためには、完璧な理論武装が必要だからね」

 

 六花はサングラスの奥で、小さくウインクをした。

 

 

 同じ頃。宮島口から本土へ戻り、山陽自動車道を東へ走るワンボックスカーの車内。

 

「いやー! 凄いもの見ちゃったね! 私、あんなに綺麗な能力バトル、初めて見たかも!」

 

 ハンドルを握る寶月詠子が、興奮冷めやらぬ声で弾んでいた。助手席の幻燈河螢多朗は、疲れ切った顔でシートに深く沈み込み、宮島で買ったもみじ饅頭を力なくもぐもぐと咀嚼している。

 

「本当に助かったよ……。あの巨大百足、僕一人じゃ絶対に逃げ切れなかったし、夜宵ちゃんの卒業生でも時間がかかってたと思う」

 

 後部座席で、寶月夜宵は静かに膝の上のリュックを抱きしめていた。その中には、先ほど弥山で捕獲したばかりの、巨大百足の悪霊を封じた形代が入っている。Sランクに匹敵する、極めて凶悪で強力な手駒だ。

 

「……詠子、ドライブレコーダーかスマホで、今の戦闘撮ってた?」

 

 夜宵がポツリと尋ねる。

 

「ううん、それがね。あの六花ちゃんって子が『蒼』って術式を使った瞬間から、電子機器が全部ノイズだらけになっちゃって、何も記録できてないんだよね。あの子自身のエネルギー干渉が強すぎたみたい」

 

「……そっか。残念」

 

 夜宵は窓の外を流れる瀬戸内海の穏やかな景色を見つめた。

 (あの白髪の人……五条悟は『破壊』だった。でも、六花お姉さんは『制御』)

 夜宵の脳裏に、大山で見た五条悟の理不尽なまでの暴力――『赫《あか》』の閃光がフラッシュバックする。あれは、敵も味方も、地形すらも問答無用で消し飛ばす天災だった。だが、六花の術式は違った。彼女は、空間を極めて精密に切り取り、固定し、夜宵たちが最も攻撃しやすい状況を「計算して」作り出してくれた。一切の無駄がなく、被害を最小限に抑える、知性と理性に裏打ちされた力。

 

「……螢多朗。私、あのお姉さんのこと、少し好きかも」

 

 夜宵が唐突に呟いた。

 

「えっ、夜宵ちゃんが? 珍しいね、悪霊以外にそんなこと言うなんて」

 

 螢多朗が驚いて振り返る。

 

「うん。……あの人は、ちゃんと『人間』として強かった。理不尽な神様や化け物じゃなくて、私たちと同じ目線で戦ってくれた。……いつか、空亡と戦う時に、あの人が隣にいてくれたら、絶対に勝てる気がする」

 

 夜宵のドクロの瞳に、確かな信頼の光が宿っていた。彼女は形代をそっと撫でながら、静かに目を閉じた。

 

「……次は、京都だね。もっと強い手駒を集める」

 

「ひえええ……もう帰ろうよぉ、夜宵ちゃん……」

 

 螢多朗の情けない悲鳴が、夕暮れの高速道路に響き渡った。

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