仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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022 必然のミセ、無視する少女

 

 2014年11月下旬。

 日本海から吹き付ける湿った寒風が、鳥取県・境港の街を冷やしていた。カニの水揚げで活気づく港町。しかし、ある一人の少女にとって、この街は東京以上の「地獄」だった。

 

(……やばい。ここ、東京より濃い。絶対におかしい)

 

 四谷みこは、数珠を握りしめながら、水木しげるロードのベンチで冷や汗を流していた。

 彼女は親戚の法事のため、夏に続いて再びこの地を訪れていたのだが、今の境港は夏とは比較にならないほど「霊的濃度」が上がっていた。

 

 視界の端。ブロンズ像の陰に、ドロドロに溶けた老婆のようなモノがへばりついている。商店街の屋根の上を、ムカデのような巨大な影が這い回っている。

 

(なんで? 夏に来た時は、もっと牧歌的な妖怪さんたちが多かったのに……今は、なんか殺伐としてるっていうか、みんなピリピリしてる……!)

 

 みこは知らなかった。

 この数ヶ月の間に、現代最強の呪術師・五条悟がこの地を拠点とし、裏会の墨村正守が結界を張り、さらには海外からの異能者まで出入りしていることを。

 強大な「光」がある場所には、より濃い「影」が落ちる。祓われることを恐れた雑多な悪霊や呪霊たちが、逃げ場を失って街の隙間に吹き溜まっていたのだ。

 

「……ねえ」

 

 不意に、耳元で声がした。

 濡れた雑巾で鼓膜を撫でられたような、不快な音。

 

「……みえてる?」

 

 みこの心臓が跳ね上がった。

 目の前。30センチの距離に、首がねじ切れたサラリーマン風の「ナニカ」が顔を突き出していた。

 眼球がない。空洞の眼窩から、黒い涙を流している。

 

(見えてない見えてない見えてない! 私はただの女子高生! 幽霊なんて信じません!)

 

 みこは必死にスマホを操作するフリをした。

 画面には「天気予報」が表示されているが、指は震えている。

 完全無視(スルー)。それが彼女の唯一の処世術。

 

「……うそだ。みえてるよねぇ?」

 

 グチャッ。

 冷たい感触。

 ナニカの手が、みこの肩を掴んだ。物理的な圧迫感。これはただの浮遊霊じゃない。実体干渉できるレベルの「特級案件」だ。

 

(ヒィィィッ!! 無理無理無理! これ以上は無理!)

 

 みこは限界を迎えた。

 彼女はバッと立ち上がると、「あー、トイレ行こっと!」と大声で独り言を言いながら、逃げるように走り出した。

 

          ◇

 

 逃げても逃げても、背後の気配は消えない。

 ズルズルと何かを引きずる音と、怨嗟の声がついてくる。

 

「……なんで逃げるのぉ……?」

 

 路地裏に入り込んだのが間違いだった。

 晩秋の夕暮れは早い。あっという間に周囲は闇に沈み、方向感覚が失われる。さらに、海から流れ込んだ濃霧が視界を奪う。

 

(ここ、どこ? さっきまで商店街だったのに……)

 

 行き止まり。

 目の前には、古びた板塀が立ちはだかっていた。後ろからは、あの怪異が迫ってくる。

 絶体絶命。

 

 その時だった。

 霧の切れ間に、あるはずのない「門」が見えた。柳の木が揺れ、提灯の明かりがぼんやりと灯る、時代錯誤な日本家屋の門構え。

 

(……あそこなら、隠れられるかも!)

 

 みこは迷わずその門へ飛び込んだ。背後で、怪異の叫び声が聞こえた気がした。

 

 バヂヂヂヂヂッ!!

 

 まるで高圧電流に触れたような破裂音。

 みこが振り返ると、追ってきた怪異が、門の見えない結界に弾かれ、苦悶の声を上げて霧散していくところだった。

 

「……え?」

 

 助かった?

 みこは肩で息をしながら、門の中へと足を踏み入れた。

 

          ◇

 

「……いらっしゃい」

 

 妖艶な声が響いた。

 そこは、外の寒さが嘘のように暖かい、紫煙漂う不思議な空間だった。無数に並べられた調度品。宙に浮くキセルの煙。

 その中央にある長椅子に、一人の女性が横たわっていた。黒い長髪、白い肌。蝶の意匠が施された着物を着崩し、手には盃を持っている。

 

「『視える』お嬢さん。……随分と厄介なモノに愛されているわね」

 

 女性は、みこを見透かすように微笑んだ。

 

「あ、あの……ここは……?」

 

「ここはミセ。願いを叶える店よ」

 

 女性――壱原侑子(いちはら ゆうこ)は、ゆっくりと起き上がった。その隣から、エプロン姿の眼鏡の少年が飛び出してくる。

 

「侑子さん! 勝手にお客さん入れないでくださいよ! 今日の夕飯の材料、もう一人分ないんですからね!」

 

「四月一日(ワタヌキ)。お客様にはお茶をお出しなさい。……それも、とびきり熱いお茶をね。この子は冷え切っているわ」

 

 侑子は少年――四月一日君尋(わたぬき きみひろ)をあしらうと、みこの手を取って座らせた。

 

「座りなさい。……ここは異次元の狭間。外の悪いモノたちは入ってこれないわ」

 

 みこはおずおずと座布団に座った。

 目の前の女性からは、人間離れしたオーラを感じる。だが、外の怪異のような「悪意」はない。むしろ、圧倒的な「理(ことわり)」の塊のような存在だ。

 

「貴方の願いは分かっているわ」

 

 侑子はキセルを吹かした。

 

「『視えなくなりたい』……あるいは、『視えても平気になりたい』。そうでしょう?」

 

「ッ……! なんで、それを……」

 

「分かるわよ。……だってこの世界は今、とても不安定だもの」

 

 侑子は目を細めた。その瞳の奥には、数多の時間を超えてきた者だけが持つ、深淵な知性が宿っていた。

 

「本来なら交わらないはずの『因果』が、複雑に絡み合っている。……呪いを祓う術師、裏の理を仕切る結界師、蟲を愛でる旅人、そして……異世界からの転生者たち」

 

 彼女は、まるでこの世界の構造図(シナリオ)を俯瞰しているかのように語った。

 

「貴方の住む世界は、元々は『ホラーコメディ』だったはず。……なのに、最近は『バトル漫画』や『任侠モノ』の理屈が侵食してきている。……同情するわ。ただの女子高生には、荷が重すぎる世界ね」

 

「え、えっと……何のお話ですか……?」

 

 みこは困惑した。彼女の言葉はメタ的すぎて理解できない。

 だが、一つだけ分かったことがある。この人は、私の「視える」苦しみを、完全に理解してくれている。

 

「フフ。……まあいいわ。それで、どうする? 願いを叶えるなら『対価』が必要よ」

 

 侑子が商談に入ろうとした、その時だった。

 

 ズゥゥゥゥン……

 

 ミセの空間全体が、地震のように揺れた。

 いや、物理的な揺れではない。外から、とてつもなく強大なエネルギーが、ミセの結界をこじ開けようとしているのだ。

 

「ひっ!?」

 

 みこが悲鳴を上げる。またあの怪異が来たのか?

 

「……あら。無粋な客ね」

 

 侑子は不機嫌そうに眉をひそめた。

 

 門の外。霧の向こうから、軽薄な男の声が響いてきた。

 

「ねえ~、すみませ~ん。ここ、お店? ちょっと入らせてくれない?」

 

 その声には、聞き覚えがあった。

 ニュースやネットで都市伝説のように語られる、現代最強の術師。

 五条悟だ。

 

「……ここ、なんか面白い結界張ってるね。僕の『六眼』でも中が見通せない。……ねえ、中にお客さんいるでしょ? さっき入っていった制服の子」

 

 五条は、みこが逃げ込んだのを察知して追ってきたのだ。

 彼は門に手をかけようとする。

 しかし、彼の手は門に触れることができない。「無下限」を持つ彼自身が、ミセという巨大な「理」によって、入店を拒絶されているのだ。

 

「お断りよ」

 

 侑子が、冷徹な声で告げた。

 彼女は座ったまま動かないが、その声は門の外までハッキリと届いている。

 

「この店は、願いを持つ者しか入れない。……五条悟。貴方は全てを持っているわ。力も、地位も、富も。……だから、貴方には『切実な願い』がない」

 

「はぁ? 酷い言い草だなぁ。僕だって悩みくらいあるよ? 良いお土産が見つからないとか、生徒が生意気だとか」

 

「それは『愚痴』よ。願いではないわ」

 

 侑子はバッサリと切り捨てた。

 

「お引き取りなさい。貴方のような規格外が土足で踏み込んだら、店の商品(因果)が滅茶苦茶になるわ」

 

「……ちぇっ。ケチ」

 

 外の気配が、少しだけ遠ざかった。

 だが、まだ完全に立ち去ってはいないようだ。

 

「……す、すごい。五条悟を追い返した……」

 

 四月一日が震えている。

 

「侑子さん、相手は最強の呪術師ですよ!? 消されますよ!?」

 

「構わないわ。ここは私の領域(テリトリー)。たとえ最強でも、道理(ルール)には勝てないもの」

 

 侑子は涼しい顔で盃を傾けた。

 

 最強の術師すら拒絶する、鉄壁の結界。

 選ばれた者しか入れない、伝説のミセ。

 

 だが、その前提は、あまりにもあっけなく崩れ去った。

 

 ガラガラッ。

 玄関の戸が、何の前触れもなく開いた。

 

「……あ、すみません。開いてますか?」

 

 そこに立っていたのは、地味なパーカーを着た、小学5年生くらいの少年だった。

 手にはスーパーの買い物袋を提げている。あまりにも存在感が薄く、あまりにも普通すぎる少年。

 

 佐藤蓮だ。

 

「……は?」

 

 四月一日が目を丸くした。

 

「え、いつ入ってきたの!? 結界は!? 侑子さん、結界破られましたよ!?」

 

「……」

 

 さすがの侑子も、キセルを持つ手を止めて、目を丸くしていた。

 彼女は蓮を凝視する。そして、数秒後に、堪えきれないように吹き出した。

 

「アハハハハ! 傑作ね! まさか、こんな抜け穴(バグ)があるなんて!」

 

 侑子は腹を抱えて笑った。

 

「五条悟ですら入れなかったのに! ……貴方、名前は?」

 

「あ、佐藤蓮です。……えっと、ここ、古道具屋さんですか? 母に頼まれた『カニ剥き用のハサミ』が売り切れで、古いのでもいいから探して来いって言われて……」

 

 蓮は困ったように頭をかいた。

 彼はただの「お使い」で迷い込んだだけだった。

 

「……なるほど。貴方には『願い』がない。でも、『拒絶される理由』もない」

 

 侑子は涙を拭いながら、面白そうに蓮を観察した。

 

「この店の結界は、『縁のない者』を弾く。……でも貴方は、世界そのものから『無視』されている。だから、結界すらも貴方を認識できずに、素通りさせてしまったのね」

 

 最強のセキュリティを、「影の薄さ」だけで突破した少年。

 それは、五条悟とは真逆のベクトルで「規格外」だった。

 

「あ、あの……」

 

 みこが、おずおずと声を上げた。

 蓮が彼女の方を見る。

 

「あ、君は……夏休みに会った……」

 

 蓮も気づいた。

 

 みこにとって、この少年の登場は救いだった。

 なぜなら、彼からは「オーラ」も「守護霊」も「呪い」も、何も見えないからだ。

 この魔境のようなミセの中で、彼だけが唯一の、安心できる「無」の存在だった。

 

「……助けて、影の薄い人」

 

 みこは思わず、蓮の背中に隠れるように身を寄せた。

 

          ◇

 

「……ふふ、ふふふ! 傑作だわ!」

 

 壱原侑子は、腹を抱えて笑い続けていた。

 彼女は長い時を生きてきたが、これほど意表を突かれたのは久しぶりだった。最強の術師・五条悟を拒絶した鉄壁の結界が、ただの小学生に破られたのだ。それも、力尽くではなく、「気づかれなかった」という理由で。

 

「侑子さん、笑ってる場合ですか! 不審者ですよ!」

 

 四月一日君尋(わたぬき きみひろ)が、お玉を持ったまま叫ぶ。

 彼は蓮を警戒しているが、同時に困惑もしていた。目の前の少年に、敵意や霊的な力が一切感じられないからだ。

 

「……あの、笑うのはいいんですけど」

 

 佐藤蓮は、買い物袋(中身はネギと豆腐)を提げたまま、困ったように眉を下げた。

 

「ここ、古道具屋さんじゃないんですか? 母に『カニを剥くハサミが壊れたから、商店街の古道具屋で買ってこい』って言われて……」

 

「カニ剥き……!」

 

 侑子は涙を拭った。

 

「願いを叶えるミセに来て、開口一番に『カニ剥きハサミ』を所望する客なんて、貴方が初めてよ。……ああ、面白い。五条悟よりよっぽど『規格外』ね」

 

 侑子はキセルを置き、蓮に向き直った。

 その瞳が、興味深そうに細められる。

 

「いいわ。貴方は『願い』を持ってここに来たわけではない。でも、貴方のその『存在の希薄さ』は、このミセにとって非常に珍しいサンプルよ。……カニ剥きハサミ、探してあげましょう」

 

「あ、本当ですか? ありがとうございます。予算は500円くらいで……」

 

「四月一日。倉庫から適当なハサミを持ってきなさい」

 

「へ? 俺が!?」

 

 四月一日はブツブツ言いながら奥へと引っ込んだ。

 

 その間、四谷みこはずっと蓮の背中に張り付いていた。彼女は震えながら、蓮のパーカーの裾を握りしめている。

 

「……あの、お姉さん? 重いんだけど」

 

「……離れないで。お願い」

 

 みこは必死だった。

 このミセの中は、外の怪異こそいないものの、侑子や四月一日、そして部屋全体から漂う「魔力」の密度が濃すぎる。

 彼女の「視える目」にとっては、極彩色の光が乱舞する万華鏡の中にいるような眩暈(めまい)を感じる空間だ。

 

 だが、蓮の周りだけは違った。

 彼の周囲半径50センチだけが、真空のように「無」なのだ。オーラもない。守護霊もいない。因果の糸すら絡まっていない。

 完全なる透明。この魔境において、彼だけが唯一、息ができる「安全地帯(シェルター)」だった。

 

「……君、すごいね。何も視えない。ただの人間だ」

 

 みこは涙目で呟いた。

 

「……それ、褒めてる? 影が薄いってことだよね?」

 

 蓮は複雑そうな顔をした。

 彼は前世の記憶があるとはいえ、ただのモブだ。可愛い女子高生(みこ)に密着されてドキドキする以前に、「あ、これ盾にされてるな」と察していた。

 

「まあいいや。……とりあえず、落ち着くまでそこにいていいよ」

 

「うん……ありがとう……影の薄い人……」

 

 やがて、四月一日が錆びたハサミを持って戻ってきた。

 それと同時に、侑子がみこに声をかけた。

 

「さて、『視える』お嬢さん。貴方の願いの話に戻りましょうか」

 

 侑子は、手元の小箱から一つの「眼鏡」を取り出した。黒縁の、何の変哲もない伊達眼鏡だ。

 だが、みこには分かる。そのレンズに、幾重もの複雑な術式が編み込まれているのが。

 

「これは『認識阻害の眼鏡』。……といっても、ただ見えなくするだけの代物じゃないわ」

 

 侑子は、チラリと蓮を見た。

 

「さっき、そこの彼(蓮)が結界を素通りしたでしょう? この眼鏡は、その理屈を応用したものよ。掛けると、貴方の存在波長が『道端の石ころ』レベルまで希薄になる」

 

「石ころ……?」

 

「そう。貴方が怪異を視ても、怪異からは貴方が視えなくなる。……あちら側にとって、貴方は『風景の一部』になるのよ」

 

 それは、みこが最も求めていた機能だった。

 彼女の「スルー検定(無視)」は、精神力に依存する。恐怖で顔が引きつれば、怪異に「見えてる」とバレてしまう。

 だが、この眼鏡があれば、物理的に「無視」が成立する。

 

「欲しい……です。それがあれば、普通に生活できますか?」

 

「ええ。ただし、外す時は気をつけなさい。反動で一時的に感度が上がるから」

 

 侑子は眼鏡を差し出した。みこは震える手でそれを受け取る。

 

「……で、対価は?」

 

 みこは覚悟を決めて聞いた。お金で買えるような代物ではないことは分かっている。

 

 侑子はニヤリと笑った。

 

「お金はいらないわ。……対価は、貴方のその『無視する力(スルー・スキル)』を少しだけ分けて頂戴」

 

「私の……無視する力?」

 

「ええ。貴方は恐怖を押し殺して、異形を無視し続けてきた。その強靭な精神力……あるいは『鈍感さ』の欠片を、このキセルに一吹きしてくれればいいわ」

 

 侑子はキセルを差し出した。

 

「ウチの四月一日がね、アヤカシに好かれすぎて困っているのよ。少しばかり『無視するコツ』を学ばせたいの。……貴方の『無視』の概念を少し頂くことで、四月一日の霊的過敏症を中和する薬にするわ」

 

「……そんなことでいいんですか?」

 

「十分な対価よ。貴方は少しだけ『怖がり』に戻るかもしれないけれど、眼鏡があれば問題ないでしょう?」

 

 みこは頷いた。

 彼女はキセルの火皿に向かって、今まで溜め込んできた「絶対に見ない!」という強い意志を込めて息を吹きかけた。

 ふわり、と紫色の煙が上がり、それが四月一日の周囲を漂った。

 

「……あれ? なんか、肩が軽くなったような?」

 

 四月一日が首を傾げた。

 

「取引成立ね」

 

 侑子は満足げに頷いた。

 

          ◇

 

「あの……僕のハサミのお代は?」

 

 蓮がおずおずと尋ねた。

 

 侑子は錆びたハサミを蓮に渡した。

 

「500円……と言いたいところだけど、貴方からもお金は取れないわね。このハサミは、ずっと買い手がつかずに倉庫で眠っていた『忘れ去られたモノ』。貴方との相性は抜群よ」

 

 侑子はイタズラっぽく笑った。

 

「対価は、労働で払ってもらいましょう」

 

「労働?」

 

「ええ。……そのお嬢さん(みこ)を、安全な場所まで送り届けてあげて。それが貴方の対価よ」

 

 侑子は、外の気配を指差した。

 

「外にはまだ、五条悟という『台風』が居座っているわ。……彼女一人では、眼鏡があっても、あの台風の目に巻き込まれるかもしれない。でも、貴方なら」

 

 貴方なら、最強の術師すらも「背景」として素通りできる。

 最強のステルス迷彩。

 

「……なるほど。僕が盾(デコイ)になればいいんですね」

 

 蓮は苦笑いした。

 モブとしての本領発揮だ。

 

「よし。行こうか、四谷さん」

 

 蓮は立ち上がり、買い物袋を持ち直した。

 

「この眼鏡を掛けて、僕の影に隠れてて。……僕の影、薄いけど」

 

「……ふふ。うん」

 

 みこは眼鏡を掛けた。

 すると、ミセの中の極彩色の光が、少しだけ落ち着いて見えた。

 

「ありがとう、侑子さん。……四月一日くんも」

 

 みこは深く頭を下げた。

 

「礼には及ばないわ。……全ては必然なのだから」

 

 侑子は静かに煙を吐いた。

 

 ガラガラッ。

 戸が開く。蓮とみこは、霧の立ち込める境港の路地裏へと戻っていった。

 

「……さて。五条悟はどう出るかしらね」

 

 侑子は、閉じた扉を見つめ、楽しそうに独りごちた。

 

          ◇

 

 ガラガラッ……

 

 壱原侑子の「ミセ」の引き戸が開き、霧の立ち込める境港の路地裏へと二人が戻ってきた。

 佐藤蓮は右手にネギと豆腐とカニハサミが入った買い物袋を持ち、左手で少しだけ震えている四谷みこを庇うようにして立った。

 

「……うっ」

 

 みこが息を呑んだ。

 路地裏の空気は、先ほどとは一変していた。湿度が高いはずなのに、肌がヒリヒリするほど乾燥しているような錯覚。

 圧倒的な「力」の磁場が、そこにあった。

 

「あ、出てきた」

 

 路地の壁に背を預け、退屈そうに空を見上げていた男――五条悟が、こちらに顔を向けた。

 目隠し越しの視線が、物理的な圧となって二人を射抜く。

 

「……君たち、中に入れたんだ?」

 

 五条が長身を屈め、蓮とみこの顔を覗き込んだ。

 距離が近い。みこの心臓が早鐘を打つ。

 

(やばい、見つかった! 五条悟だ! 本物だ! 殺される!?)

 

 だが、蓮は動じなかった。

 彼は「ただの小学生」としての演技(というより素)を崩さず、キョトンとした顔で五条を見上げた。

 

「あ、はい。……五条さんは、入れなかったんですか?」

 

「うん、そーなのよ。なんかケチな店主でさー」

 

 五条は口を尖らせたが、すぐに興味深そうに目を細めた(ように見えた)。

 彼の「六眼」が、二人をスキャンしているのだ。

 

 ――五条悟の視界。

 そこには、膨大な情報量が流れ込んでいる。

 ミセの結界構造、周囲の残穢、そして目の前の子供たち。

 

 まず、佐藤蓮。

 【判定:一般人・呪力なし・危険度ゼロ・特徴なし・六花の友人・記憶に残す価値一応あり】

 

 あまりにも無害すぎて、脳のフィルタリング機能が自動的に「背景」として処理してしまう。

 

 次に、少女(みこ)。

 本来なら、彼女が持つ「視える」特異体質や、まとわりつく瘴気が見えるはずだった。

 だが、今の彼女は侑子の「認識阻害眼鏡」を掛けている。

 そのレンズが、彼女の存在波長を屈折させ、周囲の壁や石畳と同化させていた。

 【判定:一般人(風景)・微弱な霊感あり(誤差)・脅威なし】

 

「……ふーん」

 

 五条は、興味を失ったように体を起こした。

 

「なんか凄いモン持ってるかと思ったけど、ネギと豆腐と……錆びたハサミ? 随分と家庭的なミセだねぇ」

 

 蓮の買い物袋の中身を見て、五条は肩透かしを食らった顔をした。

 「願いを叶える店」というからには、特級呪物の一つでも出てくるかと期待していたのだが、出てきたのは夕飯の材料を持った子供だけ。

 

「五条さん、何か用ですか? 母が待ってるんで帰りたいんですけど」

 

 蓮が時計を気にする素振りを見せた。

 

「あ、ごめんごめん。引き止めて悪かったね」

 

 五条はひらひらと手を振った。

 

「気をつけて帰りなよ。最近、この辺は物騒だからさ。……特に、見えちゃいけないモノが見える子はね」

 

 五条は最後に意味深なことを言ったが、それ以上追求することなく、踵を返した。

 

「じゃ、僕は帰るわ。……あーあ、六花のお土産どうしよっかなー」

 

 シュンッ。

 空間が歪み、五条の姿が消えた。瞬間移動だ。

 

 路地裏に静寂が戻った。

 みこは、へなへなとその場に座り込んだ。

 

「……はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」

 

「大丈夫?」

 

 蓮が手を差し伸べる。

 

「あ、ありがとう……。ごめんね、腰が抜けちゃって」

 

 みこは蓮の手を借りて立ち上がった。

 彼女は、改めて蓮の顔を見た。どこにでもいそうな、特徴のない顔。

 でも、今の彼女には、どんなイケメンよりも頼もしく見えた。

 

「君、すごいね。あの人の前であんなに普通でいられるなんて」

 

「……普通にしてないと、逆に怪しまれるからね」

 

 蓮は苦笑いした。

(実際、心臓バクバクだったけど。……でも、僕がビビったら後ろのみこさんが倒れそうだったし)

 

「送るよ。親戚の家、どこ?」

 

「あ、駅前の……」

 

 二人は並んで歩き出した。

 みこが掛けた眼鏡の効果は絶大だった。路地の隅に蠢いていた雑多な妖怪や霊たちが、みこの視界からは「ただのシミ」や「影」にしか見えなくなっていた。

 そして何より、隣を歩く蓮の「無」のオーラが、霊たちに「そこには誰もいない」と錯覚させているようだった。

 

「……静かだ」

 

 みこが呟いた。

 こんなに安心して夜道を歩けるのは、いつ以来だろう。

 

「君、名前は?」

 

「佐藤蓮。境第二小の5年です」

 

「小学生!? ……しっかりしすぎでしょ」

 

「よく言われます」

 

 他愛のない会話。

 それが、みこにとっては涙が出るほど尊い「日常」だった。

 

          ◇

 

 親戚の家の前まで送り届け、蓮はみこと別れた。

 

「ありがとう、蓮くん。……この眼鏡、大切にする」

 

「うん。無理しないでね」

 

 みこは家に入っていった。

 蓮は大きく息を吐き、自分の家路を急いだ。買い物袋の中で、ネギが揺れている。

 

(……やれやれ。カニハサミを買いに来ただけなのに、とんだ冒険だったな)

 

 一方、次元の狭間にある「ミセ」では。

 

 侑子は、四月一日が淹れた茶を啜りながら、煙管を燻らせていた。

 

「侑子さん、あの子たち、無事に帰れましたかね?」

 

「ええ。五条悟の目は欺けたわ。……あの少年(蓮)の『存在の希薄さ』は、ある意味で最強の術師すら凌駕する特性よ」

 

 侑子は面白そうに笑った。

 

「『視える』少女は、恐怖という対価を払って、日常を取り戻した。……『視えない』少年は、労働という対価を払って、ハサミを手に入れた。等価交換ね」

 

「でも、あのハサミ……ただの錆びたハサミですよね? ちゃんと切れるんですか?」

 

「あら。あれは『縁切り』の力が少し籠もったハサミよ。……硬い殻(から)を断ち切るには最適だわ」

 

          ◇

 

 佐藤家。

 蓮が帰宅すると、母親が仁王立ちで待っていた。

 

「蓮! 遅い! 何時だと思ってるの!」

 

「ごめん、母さん。ちょっと道に迷って……でも、ハサミ買ってきたよ」

 

 蓮は、ミセで手に入れた古びたハサミを渡した。母親は怪訝な顔をした。

 

「何これ? 随分と古臭い……錆びてない?」

 

「古道具屋しかなかったんだ。でも、店主の人は『よく切れる』って言ってたよ」

 

 夕食は、親戚から送られてきた松葉ガニだった。母親が半信半疑で、そのハサミをカニの脚に入れた。

 

 パチンッ。

 

 驚くほど軽い音がした。

 硬いカニの殻が、まるで紙のように綺麗に切断されたのだ。

 

「あら!? 何これ、凄い切れ味!」

 

 母親が驚きの声を上げる。

 

「スルスル剥けるわ! ……蓮、これ幾らしたの?」

 

「えっと……労働奉仕込みで、タダだった」

 

「タダ!? あんた、万引きしたんじゃないでしょうね!?」

 

「違うって!」

 

 食卓には、カニの香りと家族の笑い声が満ちた。

 蓮は、綺麗に剥かれたカニの身を食べながら、今日の出来事を思い出していた。

 

 路地裏のミセ。

 次元の魔女。

 そして、震えていた女子高生。

 

(……まあ、いいことをした対価だと思えば、安いもんだな)

 

 蓮は黙々とカニを食べた。

 その横顔は、やはりどこにでもいる、幸せなモブ少年のそれだった。

 

 こうして、境港の夜は更けていく。

 交わるはずのない世界が交差し、また離れていく。

 それもまた、必然という名の運命なのだろう。

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