2014年11月下旬。
日本海から吹き付ける湿った寒風が、鳥取県・境港の街を冷やしていた。カニの水揚げで活気づく港町。しかし、ある一人の少女にとって、この街は東京以上の「地獄」だった。
(……やばい。ここ、東京より濃い。絶対におかしい)
四谷みこは、数珠を握りしめながら、水木しげるロードのベンチで冷や汗を流していた。
彼女は親戚の法事のため、夏に続いて再びこの地を訪れていたのだが、今の境港は夏とは比較にならないほど「霊的濃度」が上がっていた。
視界の端。ブロンズ像の陰に、ドロドロに溶けた老婆のようなモノがへばりついている。商店街の屋根の上を、ムカデのような巨大な影が這い回っている。
(なんで? 夏に来た時は、もっと牧歌的な妖怪さんたちが多かったのに……今は、なんか殺伐としてるっていうか、みんなピリピリしてる……!)
みこは知らなかった。
この数ヶ月の間に、現代最強の呪術師・五条悟がこの地を拠点とし、裏会の墨村正守が結界を張り、さらには海外からの異能者まで出入りしていることを。
強大な「光」がある場所には、より濃い「影」が落ちる。祓われることを恐れた雑多な悪霊や呪霊たちが、逃げ場を失って街の隙間に吹き溜まっていたのだ。
「……ねえ」
不意に、耳元で声がした。
濡れた雑巾で鼓膜を撫でられたような、不快な音。
「……みえてる?」
みこの心臓が跳ね上がった。
目の前。30センチの距離に、首がねじ切れたサラリーマン風の「ナニカ」が顔を突き出していた。
眼球がない。空洞の眼窩から、黒い涙を流している。
(見えてない見えてない見えてない! 私はただの女子高生! 幽霊なんて信じません!)
みこは必死にスマホを操作するフリをした。
画面には「天気予報」が表示されているが、指は震えている。
完全無視(スルー)。それが彼女の唯一の処世術。
「……うそだ。みえてるよねぇ?」
グチャッ。
冷たい感触。
ナニカの手が、みこの肩を掴んだ。物理的な圧迫感。これはただの浮遊霊じゃない。実体干渉できるレベルの「特級案件」だ。
(ヒィィィッ!! 無理無理無理! これ以上は無理!)
みこは限界を迎えた。
彼女はバッと立ち上がると、「あー、トイレ行こっと!」と大声で独り言を言いながら、逃げるように走り出した。
◇
逃げても逃げても、背後の気配は消えない。
ズルズルと何かを引きずる音と、怨嗟の声がついてくる。
「……なんで逃げるのぉ……?」
路地裏に入り込んだのが間違いだった。
晩秋の夕暮れは早い。あっという間に周囲は闇に沈み、方向感覚が失われる。さらに、海から流れ込んだ濃霧が視界を奪う。
(ここ、どこ? さっきまで商店街だったのに……)
行き止まり。
目の前には、古びた板塀が立ちはだかっていた。後ろからは、あの怪異が迫ってくる。
絶体絶命。
その時だった。
霧の切れ間に、あるはずのない「門」が見えた。柳の木が揺れ、提灯の明かりがぼんやりと灯る、時代錯誤な日本家屋の門構え。
(……あそこなら、隠れられるかも!)
みこは迷わずその門へ飛び込んだ。背後で、怪異の叫び声が聞こえた気がした。
バヂヂヂヂヂッ!!
まるで高圧電流に触れたような破裂音。
みこが振り返ると、追ってきた怪異が、門の見えない結界に弾かれ、苦悶の声を上げて霧散していくところだった。
「……え?」
助かった?
みこは肩で息をしながら、門の中へと足を踏み入れた。
◇
「……いらっしゃい」
妖艶な声が響いた。
そこは、外の寒さが嘘のように暖かい、紫煙漂う不思議な空間だった。無数に並べられた調度品。宙に浮くキセルの煙。
その中央にある長椅子に、一人の女性が横たわっていた。黒い長髪、白い肌。蝶の意匠が施された着物を着崩し、手には盃を持っている。
「『視える』お嬢さん。……随分と厄介なモノに愛されているわね」
女性は、みこを見透かすように微笑んだ。
「あ、あの……ここは……?」
「ここはミセ。願いを叶える店よ」
女性――壱原侑子(いちはら ゆうこ)は、ゆっくりと起き上がった。その隣から、エプロン姿の眼鏡の少年が飛び出してくる。
「侑子さん! 勝手にお客さん入れないでくださいよ! 今日の夕飯の材料、もう一人分ないんですからね!」
「四月一日(ワタヌキ)。お客様にはお茶をお出しなさい。……それも、とびきり熱いお茶をね。この子は冷え切っているわ」
侑子は少年――四月一日君尋(わたぬき きみひろ)をあしらうと、みこの手を取って座らせた。
「座りなさい。……ここは異次元の狭間。外の悪いモノたちは入ってこれないわ」
みこはおずおずと座布団に座った。
目の前の女性からは、人間離れしたオーラを感じる。だが、外の怪異のような「悪意」はない。むしろ、圧倒的な「理(ことわり)」の塊のような存在だ。
「貴方の願いは分かっているわ」
侑子はキセルを吹かした。
「『視えなくなりたい』……あるいは、『視えても平気になりたい』。そうでしょう?」
「ッ……! なんで、それを……」
「分かるわよ。……だってこの世界は今、とても不安定だもの」
侑子は目を細めた。その瞳の奥には、数多の時間を超えてきた者だけが持つ、深淵な知性が宿っていた。
「本来なら交わらないはずの『因果』が、複雑に絡み合っている。……呪いを祓う術師、裏の理を仕切る結界師、蟲を愛でる旅人、そして……異世界からの転生者たち」
彼女は、まるでこの世界の構造図(シナリオ)を俯瞰しているかのように語った。
「貴方の住む世界は、元々は『ホラーコメディ』だったはず。……なのに、最近は『バトル漫画』や『任侠モノ』の理屈が侵食してきている。……同情するわ。ただの女子高生には、荷が重すぎる世界ね」
「え、えっと……何のお話ですか……?」
みこは困惑した。彼女の言葉はメタ的すぎて理解できない。
だが、一つだけ分かったことがある。この人は、私の「視える」苦しみを、完全に理解してくれている。
「フフ。……まあいいわ。それで、どうする? 願いを叶えるなら『対価』が必要よ」
侑子が商談に入ろうとした、その時だった。
ズゥゥゥゥン……
ミセの空間全体が、地震のように揺れた。
いや、物理的な揺れではない。外から、とてつもなく強大なエネルギーが、ミセの結界をこじ開けようとしているのだ。
「ひっ!?」
みこが悲鳴を上げる。またあの怪異が来たのか?
「……あら。無粋な客ね」
侑子は不機嫌そうに眉をひそめた。
門の外。霧の向こうから、軽薄な男の声が響いてきた。
「ねえ~、すみませ~ん。ここ、お店? ちょっと入らせてくれない?」
その声には、聞き覚えがあった。
ニュースやネットで都市伝説のように語られる、現代最強の術師。
五条悟だ。
「……ここ、なんか面白い結界張ってるね。僕の『六眼』でも中が見通せない。……ねえ、中にお客さんいるでしょ? さっき入っていった制服の子」
五条は、みこが逃げ込んだのを察知して追ってきたのだ。
彼は門に手をかけようとする。
しかし、彼の手は門に触れることができない。「無下限」を持つ彼自身が、ミセという巨大な「理」によって、入店を拒絶されているのだ。
「お断りよ」
侑子が、冷徹な声で告げた。
彼女は座ったまま動かないが、その声は門の外までハッキリと届いている。
「この店は、願いを持つ者しか入れない。……五条悟。貴方は全てを持っているわ。力も、地位も、富も。……だから、貴方には『切実な願い』がない」
「はぁ? 酷い言い草だなぁ。僕だって悩みくらいあるよ? 良いお土産が見つからないとか、生徒が生意気だとか」
「それは『愚痴』よ。願いではないわ」
侑子はバッサリと切り捨てた。
「お引き取りなさい。貴方のような規格外が土足で踏み込んだら、店の商品(因果)が滅茶苦茶になるわ」
「……ちぇっ。ケチ」
外の気配が、少しだけ遠ざかった。
だが、まだ完全に立ち去ってはいないようだ。
「……す、すごい。五条悟を追い返した……」
四月一日が震えている。
「侑子さん、相手は最強の呪術師ですよ!? 消されますよ!?」
「構わないわ。ここは私の領域(テリトリー)。たとえ最強でも、道理(ルール)には勝てないもの」
侑子は涼しい顔で盃を傾けた。
最強の術師すら拒絶する、鉄壁の結界。
選ばれた者しか入れない、伝説のミセ。
だが、その前提は、あまりにもあっけなく崩れ去った。
ガラガラッ。
玄関の戸が、何の前触れもなく開いた。
「……あ、すみません。開いてますか?」
そこに立っていたのは、地味なパーカーを着た、小学5年生くらいの少年だった。
手にはスーパーの買い物袋を提げている。あまりにも存在感が薄く、あまりにも普通すぎる少年。
佐藤蓮だ。
「……は?」
四月一日が目を丸くした。
「え、いつ入ってきたの!? 結界は!? 侑子さん、結界破られましたよ!?」
「……」
さすがの侑子も、キセルを持つ手を止めて、目を丸くしていた。
彼女は蓮を凝視する。そして、数秒後に、堪えきれないように吹き出した。
「アハハハハ! 傑作ね! まさか、こんな抜け穴(バグ)があるなんて!」
侑子は腹を抱えて笑った。
「五条悟ですら入れなかったのに! ……貴方、名前は?」
「あ、佐藤蓮です。……えっと、ここ、古道具屋さんですか? 母に頼まれた『カニ剥き用のハサミ』が売り切れで、古いのでもいいから探して来いって言われて……」
蓮は困ったように頭をかいた。
彼はただの「お使い」で迷い込んだだけだった。
「……なるほど。貴方には『願い』がない。でも、『拒絶される理由』もない」
侑子は涙を拭いながら、面白そうに蓮を観察した。
「この店の結界は、『縁のない者』を弾く。……でも貴方は、世界そのものから『無視』されている。だから、結界すらも貴方を認識できずに、素通りさせてしまったのね」
最強のセキュリティを、「影の薄さ」だけで突破した少年。
それは、五条悟とは真逆のベクトルで「規格外」だった。
「あ、あの……」
みこが、おずおずと声を上げた。
蓮が彼女の方を見る。
「あ、君は……夏休みに会った……」
蓮も気づいた。
みこにとって、この少年の登場は救いだった。
なぜなら、彼からは「オーラ」も「守護霊」も「呪い」も、何も見えないからだ。
この魔境のようなミセの中で、彼だけが唯一の、安心できる「無」の存在だった。
「……助けて、影の薄い人」
みこは思わず、蓮の背中に隠れるように身を寄せた。
◇
「……ふふ、ふふふ! 傑作だわ!」
壱原侑子は、腹を抱えて笑い続けていた。
彼女は長い時を生きてきたが、これほど意表を突かれたのは久しぶりだった。最強の術師・五条悟を拒絶した鉄壁の結界が、ただの小学生に破られたのだ。それも、力尽くではなく、「気づかれなかった」という理由で。
「侑子さん、笑ってる場合ですか! 不審者ですよ!」
四月一日君尋(わたぬき きみひろ)が、お玉を持ったまま叫ぶ。
彼は蓮を警戒しているが、同時に困惑もしていた。目の前の少年に、敵意や霊的な力が一切感じられないからだ。
「……あの、笑うのはいいんですけど」
佐藤蓮は、買い物袋(中身はネギと豆腐)を提げたまま、困ったように眉を下げた。
「ここ、古道具屋さんじゃないんですか? 母に『カニを剥くハサミが壊れたから、商店街の古道具屋で買ってこい』って言われて……」
「カニ剥き……!」
侑子は涙を拭った。
「願いを叶えるミセに来て、開口一番に『カニ剥きハサミ』を所望する客なんて、貴方が初めてよ。……ああ、面白い。五条悟よりよっぽど『規格外』ね」
侑子はキセルを置き、蓮に向き直った。
その瞳が、興味深そうに細められる。
「いいわ。貴方は『願い』を持ってここに来たわけではない。でも、貴方のその『存在の希薄さ』は、このミセにとって非常に珍しいサンプルよ。……カニ剥きハサミ、探してあげましょう」
「あ、本当ですか? ありがとうございます。予算は500円くらいで……」
「四月一日。倉庫から適当なハサミを持ってきなさい」
「へ? 俺が!?」
四月一日はブツブツ言いながら奥へと引っ込んだ。
その間、四谷みこはずっと蓮の背中に張り付いていた。彼女は震えながら、蓮のパーカーの裾を握りしめている。
「……あの、お姉さん? 重いんだけど」
「……離れないで。お願い」
みこは必死だった。
このミセの中は、外の怪異こそいないものの、侑子や四月一日、そして部屋全体から漂う「魔力」の密度が濃すぎる。
彼女の「視える目」にとっては、極彩色の光が乱舞する万華鏡の中にいるような眩暈(めまい)を感じる空間だ。
だが、蓮の周りだけは違った。
彼の周囲半径50センチだけが、真空のように「無」なのだ。オーラもない。守護霊もいない。因果の糸すら絡まっていない。
完全なる透明。この魔境において、彼だけが唯一、息ができる「安全地帯(シェルター)」だった。
「……君、すごいね。何も視えない。ただの人間だ」
みこは涙目で呟いた。
「……それ、褒めてる? 影が薄いってことだよね?」
蓮は複雑そうな顔をした。
彼は前世の記憶があるとはいえ、ただのモブだ。可愛い女子高生(みこ)に密着されてドキドキする以前に、「あ、これ盾にされてるな」と察していた。
「まあいいや。……とりあえず、落ち着くまでそこにいていいよ」
「うん……ありがとう……影の薄い人……」
やがて、四月一日が錆びたハサミを持って戻ってきた。
それと同時に、侑子がみこに声をかけた。
「さて、『視える』お嬢さん。貴方の願いの話に戻りましょうか」
侑子は、手元の小箱から一つの「眼鏡」を取り出した。黒縁の、何の変哲もない伊達眼鏡だ。
だが、みこには分かる。そのレンズに、幾重もの複雑な術式が編み込まれているのが。
「これは『認識阻害の眼鏡』。……といっても、ただ見えなくするだけの代物じゃないわ」
侑子は、チラリと蓮を見た。
「さっき、そこの彼(蓮)が結界を素通りしたでしょう? この眼鏡は、その理屈を応用したものよ。掛けると、貴方の存在波長が『道端の石ころ』レベルまで希薄になる」
「石ころ……?」
「そう。貴方が怪異を視ても、怪異からは貴方が視えなくなる。……あちら側にとって、貴方は『風景の一部』になるのよ」
それは、みこが最も求めていた機能だった。
彼女の「スルー検定(無視)」は、精神力に依存する。恐怖で顔が引きつれば、怪異に「見えてる」とバレてしまう。
だが、この眼鏡があれば、物理的に「無視」が成立する。
「欲しい……です。それがあれば、普通に生活できますか?」
「ええ。ただし、外す時は気をつけなさい。反動で一時的に感度が上がるから」
侑子は眼鏡を差し出した。みこは震える手でそれを受け取る。
「……で、対価は?」
みこは覚悟を決めて聞いた。お金で買えるような代物ではないことは分かっている。
侑子はニヤリと笑った。
「お金はいらないわ。……対価は、貴方のその『無視する力(スルー・スキル)』を少しだけ分けて頂戴」
「私の……無視する力?」
「ええ。貴方は恐怖を押し殺して、異形を無視し続けてきた。その強靭な精神力……あるいは『鈍感さ』の欠片を、このキセルに一吹きしてくれればいいわ」
侑子はキセルを差し出した。
「ウチの四月一日がね、アヤカシに好かれすぎて困っているのよ。少しばかり『無視するコツ』を学ばせたいの。……貴方の『無視』の概念を少し頂くことで、四月一日の霊的過敏症を中和する薬にするわ」
「……そんなことでいいんですか?」
「十分な対価よ。貴方は少しだけ『怖がり』に戻るかもしれないけれど、眼鏡があれば問題ないでしょう?」
みこは頷いた。
彼女はキセルの火皿に向かって、今まで溜め込んできた「絶対に見ない!」という強い意志を込めて息を吹きかけた。
ふわり、と紫色の煙が上がり、それが四月一日の周囲を漂った。
「……あれ? なんか、肩が軽くなったような?」
四月一日が首を傾げた。
「取引成立ね」
侑子は満足げに頷いた。
◇
「あの……僕のハサミのお代は?」
蓮がおずおずと尋ねた。
侑子は錆びたハサミを蓮に渡した。
「500円……と言いたいところだけど、貴方からもお金は取れないわね。このハサミは、ずっと買い手がつかずに倉庫で眠っていた『忘れ去られたモノ』。貴方との相性は抜群よ」
侑子はイタズラっぽく笑った。
「対価は、労働で払ってもらいましょう」
「労働?」
「ええ。……そのお嬢さん(みこ)を、安全な場所まで送り届けてあげて。それが貴方の対価よ」
侑子は、外の気配を指差した。
「外にはまだ、五条悟という『台風』が居座っているわ。……彼女一人では、眼鏡があっても、あの台風の目に巻き込まれるかもしれない。でも、貴方なら」
貴方なら、最強の術師すらも「背景」として素通りできる。
最強のステルス迷彩。
「……なるほど。僕が盾(デコイ)になればいいんですね」
蓮は苦笑いした。
モブとしての本領発揮だ。
「よし。行こうか、四谷さん」
蓮は立ち上がり、買い物袋を持ち直した。
「この眼鏡を掛けて、僕の影に隠れてて。……僕の影、薄いけど」
「……ふふ。うん」
みこは眼鏡を掛けた。
すると、ミセの中の極彩色の光が、少しだけ落ち着いて見えた。
「ありがとう、侑子さん。……四月一日くんも」
みこは深く頭を下げた。
「礼には及ばないわ。……全ては必然なのだから」
侑子は静かに煙を吐いた。
ガラガラッ。
戸が開く。蓮とみこは、霧の立ち込める境港の路地裏へと戻っていった。
「……さて。五条悟はどう出るかしらね」
侑子は、閉じた扉を見つめ、楽しそうに独りごちた。
◇
ガラガラッ……
壱原侑子の「ミセ」の引き戸が開き、霧の立ち込める境港の路地裏へと二人が戻ってきた。
佐藤蓮は右手にネギと豆腐とカニハサミが入った買い物袋を持ち、左手で少しだけ震えている四谷みこを庇うようにして立った。
「……うっ」
みこが息を呑んだ。
路地裏の空気は、先ほどとは一変していた。湿度が高いはずなのに、肌がヒリヒリするほど乾燥しているような錯覚。
圧倒的な「力」の磁場が、そこにあった。
「あ、出てきた」
路地の壁に背を預け、退屈そうに空を見上げていた男――五条悟が、こちらに顔を向けた。
目隠し越しの視線が、物理的な圧となって二人を射抜く。
「……君たち、中に入れたんだ?」
五条が長身を屈め、蓮とみこの顔を覗き込んだ。
距離が近い。みこの心臓が早鐘を打つ。
(やばい、見つかった! 五条悟だ! 本物だ! 殺される!?)
だが、蓮は動じなかった。
彼は「ただの小学生」としての演技(というより素)を崩さず、キョトンとした顔で五条を見上げた。
「あ、はい。……五条さんは、入れなかったんですか?」
「うん、そーなのよ。なんかケチな店主でさー」
五条は口を尖らせたが、すぐに興味深そうに目を細めた(ように見えた)。
彼の「六眼」が、二人をスキャンしているのだ。
――五条悟の視界。
そこには、膨大な情報量が流れ込んでいる。
ミセの結界構造、周囲の残穢、そして目の前の子供たち。
まず、佐藤蓮。
【判定:一般人・呪力なし・危険度ゼロ・特徴なし・六花の友人・記憶に残す価値一応あり】
あまりにも無害すぎて、脳のフィルタリング機能が自動的に「背景」として処理してしまう。
次に、少女(みこ)。
本来なら、彼女が持つ「視える」特異体質や、まとわりつく瘴気が見えるはずだった。
だが、今の彼女は侑子の「認識阻害眼鏡」を掛けている。
そのレンズが、彼女の存在波長を屈折させ、周囲の壁や石畳と同化させていた。
【判定:一般人(風景)・微弱な霊感あり(誤差)・脅威なし】
「……ふーん」
五条は、興味を失ったように体を起こした。
「なんか凄いモン持ってるかと思ったけど、ネギと豆腐と……錆びたハサミ? 随分と家庭的なミセだねぇ」
蓮の買い物袋の中身を見て、五条は肩透かしを食らった顔をした。
「願いを叶える店」というからには、特級呪物の一つでも出てくるかと期待していたのだが、出てきたのは夕飯の材料を持った子供だけ。
「五条さん、何か用ですか? 母が待ってるんで帰りたいんですけど」
蓮が時計を気にする素振りを見せた。
「あ、ごめんごめん。引き止めて悪かったね」
五条はひらひらと手を振った。
「気をつけて帰りなよ。最近、この辺は物騒だからさ。……特に、見えちゃいけないモノが見える子はね」
五条は最後に意味深なことを言ったが、それ以上追求することなく、踵を返した。
「じゃ、僕は帰るわ。……あーあ、六花のお土産どうしよっかなー」
シュンッ。
空間が歪み、五条の姿が消えた。瞬間移動だ。
路地裏に静寂が戻った。
みこは、へなへなとその場に座り込んだ。
「……はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
「大丈夫?」
蓮が手を差し伸べる。
「あ、ありがとう……。ごめんね、腰が抜けちゃって」
みこは蓮の手を借りて立ち上がった。
彼女は、改めて蓮の顔を見た。どこにでもいそうな、特徴のない顔。
でも、今の彼女には、どんなイケメンよりも頼もしく見えた。
「君、すごいね。あの人の前であんなに普通でいられるなんて」
「……普通にしてないと、逆に怪しまれるからね」
蓮は苦笑いした。
(実際、心臓バクバクだったけど。……でも、僕がビビったら後ろのみこさんが倒れそうだったし)
「送るよ。親戚の家、どこ?」
「あ、駅前の……」
二人は並んで歩き出した。
みこが掛けた眼鏡の効果は絶大だった。路地の隅に蠢いていた雑多な妖怪や霊たちが、みこの視界からは「ただのシミ」や「影」にしか見えなくなっていた。
そして何より、隣を歩く蓮の「無」のオーラが、霊たちに「そこには誰もいない」と錯覚させているようだった。
「……静かだ」
みこが呟いた。
こんなに安心して夜道を歩けるのは、いつ以来だろう。
「君、名前は?」
「佐藤蓮。境第二小の5年です」
「小学生!? ……しっかりしすぎでしょ」
「よく言われます」
他愛のない会話。
それが、みこにとっては涙が出るほど尊い「日常」だった。
◇
親戚の家の前まで送り届け、蓮はみこと別れた。
「ありがとう、蓮くん。……この眼鏡、大切にする」
「うん。無理しないでね」
みこは家に入っていった。
蓮は大きく息を吐き、自分の家路を急いだ。買い物袋の中で、ネギが揺れている。
(……やれやれ。カニハサミを買いに来ただけなのに、とんだ冒険だったな)
一方、次元の狭間にある「ミセ」では。
侑子は、四月一日が淹れた茶を啜りながら、煙管を燻らせていた。
「侑子さん、あの子たち、無事に帰れましたかね?」
「ええ。五条悟の目は欺けたわ。……あの少年(蓮)の『存在の希薄さ』は、ある意味で最強の術師すら凌駕する特性よ」
侑子は面白そうに笑った。
「『視える』少女は、恐怖という対価を払って、日常を取り戻した。……『視えない』少年は、労働という対価を払って、ハサミを手に入れた。等価交換ね」
「でも、あのハサミ……ただの錆びたハサミですよね? ちゃんと切れるんですか?」
「あら。あれは『縁切り』の力が少し籠もったハサミよ。……硬い殻(から)を断ち切るには最適だわ」
◇
佐藤家。
蓮が帰宅すると、母親が仁王立ちで待っていた。
「蓮! 遅い! 何時だと思ってるの!」
「ごめん、母さん。ちょっと道に迷って……でも、ハサミ買ってきたよ」
蓮は、ミセで手に入れた古びたハサミを渡した。母親は怪訝な顔をした。
「何これ? 随分と古臭い……錆びてない?」
「古道具屋しかなかったんだ。でも、店主の人は『よく切れる』って言ってたよ」
夕食は、親戚から送られてきた松葉ガニだった。母親が半信半疑で、そのハサミをカニの脚に入れた。
パチンッ。
驚くほど軽い音がした。
硬いカニの殻が、まるで紙のように綺麗に切断されたのだ。
「あら!? 何これ、凄い切れ味!」
母親が驚きの声を上げる。
「スルスル剥けるわ! ……蓮、これ幾らしたの?」
「えっと……労働奉仕込みで、タダだった」
「タダ!? あんた、万引きしたんじゃないでしょうね!?」
「違うって!」
食卓には、カニの香りと家族の笑い声が満ちた。
蓮は、綺麗に剥かれたカニの身を食べながら、今日の出来事を思い出していた。
路地裏のミセ。
次元の魔女。
そして、震えていた女子高生。
(……まあ、いいことをした対価だと思えば、安いもんだな)
蓮は黙々とカニを食べた。
その横顔は、やはりどこにでもいる、幸せなモブ少年のそれだった。
こうして、境港の夜は更けていく。
交わるはずのない世界が交差し、また離れていく。
それもまた、必然という名の運命なのだろう。