仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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023 政治の季節、枯野の村

 

 2014年、晩秋。

 日本の政治は、かつてない膠着と熱狂の狭間にあった。長らく政権を担ってきた「保守第一党」が失墜し、急進的な「改革促進党」が台頭した後、国民の揺り戻しによって現在は中道を掲げる「日本中庸党」が政権の座にある。

「極端を排し、調和ある発展を」。そんなスローガンの下、地方には巨額のバラマキにも似た「再生交付金」が降り注いでいた。

 

 北関東の山間部、御仁村(おにむら)。枯れススキが風に揺れるこの寒村もまた、政治の波に翻弄されていた。

 村の入り口には、相反する二つの看板が、まるで仁王像のように睨み合っている。

 

 右手には、真新しい金属製の看板。

『祝・地方再生バイオプラント建設予定地 〜未来のエネルギーを御仁村から〜 日本中庸党・御仁村役場』

 

 左手には、墨汁で書きなぐられた木の立て看板。

『山の神は見てござる。土地を売るな、魂を売るな。 断固反対・御仁村を守る会』

 

 その境界線を、一人の男が歩いていた。

 白髪に、片目を隠す前髪。背中には木箱を背負い、口には煙管のような蟲煙草をくわえている。

 蟲師、ギンコである。

 

「……ケッ。どこに行っても人間ってのは忙しないな」

 

 ギンコは煙を吐き出し、空を見上げた。

 曇天の空には、普通の人間の目には見えない、白い紐のようなものが無数に漂っている。

 「蟲(むし)」だ。

 生命の原生体。幽霊でも妖怪でもない、ただそこにあるだけの命。

 

「だが……妙だな。この『霧』、ただの自然現象じゃねぇ」

 

 村全体を覆う、薄い乳白色の靄。

 それは山から降りてくる「雲喰い」の類にも見えたが、どこか粘り気があり、生き物としての脈動が乱れている。蟲が「怯えている」ようにも、「怒っている」ようにも見えた。

 

「……呼ばれて来てみたが、こいつは骨が折れそうだ」

 

 ギンコは襟を立て、村へと足を踏み入れた。

 

          ◇

 

色のない病

 

 村の空気は重かった。

 すれ違う村人たちは、誰もが顔色が悪く、目の下に濃い隈を作っている。

 彼らは一様に、虚空を見つめたり、自分の手足をしきりに確認したりしていた。

 

「おい、あんた。旅の人か?」

 

 声をかけてきたのは、村の駐在だった。制服は着ているが、ボタンが掛け違えられ、視線が定まらない。

 

「ああ。ちょっと道に迷ってな。……この村、なんか変じゃないか? みんな病気みたいな顔してるぞ」

「び、病気じゃねぇ……。タタリだ。山の神のタタリだ……」

 

 駐在は震える声で囁いた。

 

「夢を見るんだ。……極彩色の夢を。赤、青、金……目が痛くなるような色の洪水の中で、自分が『自分じゃない何か』に変わっちまう夢だ。……目が覚めると、体が透けて見えるような気がして……」

 

 駐在が差し出した手。その指先から、陽炎のような白い煙が立ち上っているのを、ギンコは見た。

 

(……魂が漏れてるわけじゃねぇ。蟲が寄生してるな。それも、記憶や認識に作用する厄介な奴だ)

 

「医者には?」

 

「行ったさ。隣町の大きな病院にな。だが『原因不明のストレス性障害』だとよ。……村長とババ様の争いが激しくなってからだ、こんなことになったのは」

 

 駐在は、村の中央にある大きな屋敷と、山際にある古びた社の方角を交互に指差した。

 

「開発推進の村長と、反対派のババ様。……あの二人が村を二つに引き裂いたから、山の神がお怒りになったんだ」

 

 典型的な「開発による祟り」の構図。

 だが、ギンコの「蟲師としての勘」が告げている。

 これは、そんな単純な話ではない、と。

 

          ◇

 

宿屋の怪客

 

 日が暮れると、霧はいっそう濃くなった。

 ギンコは、村で唯一の宿屋「藤屋」に部屋を取った。

 客はギンコ一人だけのようだ。

 

 部屋に入り、荷物を解く。

 蟲煙草に火をつけ、その煙で部屋の四隅を燻す。結界代わりだ。

 

「……さて。どうしたもんかな」

 

 ギンコが窓の外を見ようとした時だ。

 隣の部屋との襖が、音もなく開いた。

 

「おやおや。……随分と珍しいお客様だ」

 

 そこには、この寒村の宿には似つかわしくない、異様な風体の男が座っていた。

 派手な着物に、奇抜な化粧。尖った耳に、頭には頭巾。

 背中には大きな薬箱を背負っている。

 

「……あんた、誰だ?」

 ギンコが目を細める。

 男からは、人間とも蟲ともつかない、不思議な気配が漂っている。

 

「私はただの薬売りですよ」

 

 男――薬売りは、優雅な所作でキセルを取り出した。

 

「心の病、体の病、そして……『この世ならざる病』にも効く薬を持ち歩いております」

 

 薬売りは、妖艶な笑みを浮かべ、ギンコを見据えた。

 

「あなたからは、随分と賑やかな『音』がしますねぇ。……山、川、風、光。無数の小さな命を引き連れて歩いている」

 

「……蟲が見える口か」

 

 ギンコは警戒を解かずに言った。

 

「同業者……じゃなさそうだな。あんたの周りの空気、張り詰めすぎだ」

 

「ええ。私の扱うものは、あなた様の連れている『自然(それ)』とは少し違う」

 

 薬売りは、懐から小さな天秤を取り出した。

 黄金色の天秤。皿には何も乗っていない。

 だが、薬売りがそれを掲げると、天秤はギンコの方ではなく、窓の外――村全体の方角へと、ガチャンと音を立てて大きく傾いた。

 

「……見えますか? この村を覆う『霧』の正体が」

 

 薬売りが低く囁く。

 

「俺には、質の悪い『蟲』に見えるがな」

 

 ギンコが答える。

 

「ほう? 私には……人の情念が凝り固まり、形を成した『モノノ怪』の卵に見えますよ」

 

 蟲と、モノノ怪。

 似て非なる二つの概念が、この部屋で交錯した。

 

          ◇

 

水鏡の変質

 

 翌朝。

 二人は、奇妙な連帯感――あるいは相互監視の必要性――を感じ、共に調査へ出ることになった。

 向かう先は、村の水源である山中の「古井戸」だ。駐在の話では、そこが異変の中心地らしい。

 

 山道を行く二人。

 ギンコは常に周囲の草木や土の気配を探り、薬売りは涼しい顔で、しかし鋭い視線を虚空に走らせている。

 

「あんた、その派手な格好で山歩きかよ」

 

 ギンコが呆れて言う。

 

「商売道具ですので。……ところで蟲師様。あなたは『蟲』をどう捉えておいでで?」

 

「……ただの命だ。善も悪もねぇ。あるがままに生きてるだけだ。……人間にとっては毒になることもあるが、それは接触の仕方が悪いだけだ」

 

「なるほど。共存、ですか」

 

 薬売りは冷ややかに笑った。

 

「ですが、私が斬る『モノノ怪』は違います。あれは、この世の理(ことわり)から外れたもの。人の因果が生み出した、あってはならない歪み。……斬らねば、災いは止まりません」

 

 古井戸に到着した。

 石造りの古い井戸。その周りには、しめ縄が張られているが、ボロボロに腐ちていた。

 

「……やっぱりな」

 

 ギンコが井戸の中を覗き込む。

 水面は黒く淀み、そこから昨日のような白い霧が立ち上っている。

 

「こいつは『水鏡(みずかがみ)』だ。……本来は清流に住む、大人しい蟲だ。水に映った動物の姿や記憶を、一時的に真似る性質がある」

 

 ギンコは顔をしかめた。

 

「だが、こいつは……食いすぎだ。人の記憶、それも『ドロドロしたもん』を大量に吸い込んで、変質しちまってる」

 

「ドロドロしたもん、とは?」

 

 薬売りが井戸の縁に立つ。

 

「欲望、焦燥、欺瞞……。この村の人間たちが抱える、強いストレスだ。……蟲は感情を食うわけじゃねぇが、環境には影響される。この井戸水、村人たちの『精神的な下水』になっちまってるぞ」

 

 その時。

 井戸の水面が波打ち、ゴボッと音を立てた。

 水面に映ったのは、ギンコと薬売りの顔ではない。

 

 苦痛に歪み、目が飛び出し、舌を長く伸ばした、無数の村人たちの顔だった。

 

「……ヒヒッ、ヒヒヒヒ……」

 

 井戸の底から、粘着質な笑い声が響く。

 

「おやおや」

 

 薬売りが目を細めた。

 

「ただの蟲にしては、随分と『饒舌』ですねぇ。……これはもう、蟲の枠を超えている」

 

 薬売りが袖から「退魔の剣」を取り出す。

 ガチャリ、と鍔が鳴る。だが、剣は抜けない。

 

「……やはり。まだ『形(かたち)』しか見えていない。『真(まこと)』と『理(ことわり)』が揃わねば、剣は抜けませぬ」

 

「斬るなよ」

 

 ギンコが制止する。

 

「まだ元に戻せるかもしれねぇ。……原因を断てば、蟲は山へ帰るはずだ。その『原因』ってのが……」

 

 二人の視線は、山を降りた先にある、二つの権力の象徴――村長の屋敷と、反対派の社――に向けられた。

 

          ◇

 

二つの顔を持つ権力者

 

 二人は二手に分かれることにした。

 ギンコは反対派のリーダーである「ババ様」の元へ。

 薬売りは、推進派の「村長」の元へ。

 

 村長の屋敷は、立派な日本家屋だった。門には「日本中庸党・御仁村支部」の看板。

 応接間に通された薬売りは、出された茶に口をつけず、目の前の男を観察した。

 

 村長、村上義男(むらかみ よしお)。

 60代後半。高級そうなスーツを着ているが、その指には土着の信仰を示す古い指輪が嵌められている。

 彼は行政の長であり、同時にこの村の旧家を束ねる「長老」でもあった。

 

「……旅の薬売りさんと言ったかな。村の病について、何か分かったのかね?」

 

 村上は、ハンカチで額の汗を拭いながら尋ねた。彼の顔色もまた、悪かった。

 

「ええ。……古井戸の穢れが原因かと。あそこには、何か『捨ててはいけないもの』が捨てられている匂いがしますねぇ」

 

 薬売りの言葉に、村上の眉がピクリと動いた。

 

「バ、馬鹿なことを。あそこは聖域だ。……全ては、あの頑固なババア……反対派の連中が、開発を邪魔するからだ! 奴らが祟りだなんだと騒ぐから、村の空気が悪くなる!」

 

 村上は声を荒らげた。

 

「国(中庸党)からは、早期着工を迫られているんだ! バイオプラントができれば、この村は救われる! 補助金で道路も直せるし、若者も戻ってくる! ……それを、あの老いぼれ共が!」

 

 激昂する村上。

 だが、薬売りの天秤は、微動だにしなかった。

 天秤が動かないということは、そこに「怪異の原因」がないか、あるいは――「嘘」が完璧すぎて、感情が漏れていないかだ。

 

「……ほう。随分と熱心ですねぇ、村の未来について」

 

 薬売りは、わざとらしく感心してみせた。

 

「ですが、妙ですねぇ。……開発計画が持ち上がってから、もう5年。……なぜ、『強行着工』しないのですか? あなたの権限と、中庸党の後ろ盾があれば、反対派の掘っ立て小屋など、ブルドーザーで一晩でしょう?」

 

 村上の動きが止まった。

 

「……そ、それは。……村の和を乱したくないからだ。私は対話を重んじる」

 

「対話、ですか」

 

 薬売りはニヤリと笑った。化粧の下の瞳が、爬虫類のように鋭く光る。

 

「あるいは……『解決しては困る』理由でも?」

 

          ◇

 

蟲師と老婆

 

 一方、ギンコは山際の社を訪れていた。そこは、反対派の拠点となっていた。「御仁村を守る会」の老婆、タエ。

 彼女は、開発予定地の地権者でもあり、村一番の霊能者(という触れ込み)だった。

 

「帰んな! 薬売りだか何だか知らんが、余所者に話すことなんざねぇ!」

 タエは、ギンコに向けて塩を撒いた。

 

「俺は蟲師だ。……あんた、背中に『重いもん』背負ってるな」

 

 ギンコは塩を払わず、タエの背後を指差した。

 彼女の背中には、黒い霧のような蟲が、赤ん坊のようにおぶさっている。

 

「……!?」

 タエが顔を強張らせる。

 

「その蟲は『重荷(おもに)』だ。罪悪感や隠し事に寄生して、宿主の体力を奪う。……あんた、何を隠してる?」

 

 タエは震える手でタバコを取り出した。

 

「……うるさい、うるさい! わしはこの村の守り神に仕える身じゃ! 開発など絶対に許さん! あの村長が死ぬまで、わしは戦う!」

 

「本当にそうか?」

 

 ギンコは静かに問う。

 

「反対運動が長引けば長引くほど、村は疲弊する。……なのに、あんたの羽振りは良さそうだ。そのタバコ、外国製の高いやつだろ?」

 

 タエの目が見開かれた。

 貧しい寒村の老婆には似つかわしくない、高級タバコ。そして、社の奥に見える真新しい家電製品。

 

「……わしは、寄付を貰ってるだけじゃ! 支持者からの!」

 

「支持者ねぇ。……まさか、その支持者ってのは『敵』だったりしねぇよな?」

 

 ギンコの鎌掛け。

 タエは激しく動揺し、背中の「重荷」が大きく膨れ上がった。

 

(……確定だな。こいつら、グルだ)

 

 ギンコと薬売り。

 二人の調査線が、一つの醜悪な「真実(マコト)」へと収束しようとしていた。

 

          ◇

 

 翌朝。

 御仁村を覆う霧は、さらに濃度を増していた。

 視界は数メートル先も見えず、空気は粘り気を帯びて肌に纏わりつく。村人たちの呻き声が、どこからともなく響いてくるようだった。

 

 村の中心にある集会場。

 今日は、国(日本中庸党・国土交通部会)から派遣された視察団を迎えるために、村長・村上義男が演説を行う予定だった。

 そして同時に、反対派のタエ率いる「守る会」も、大規模なシュプレヒコールを上げようと集結していた。

 

「――開発反対! 自然を守れ! 神の怒りを恐れよ!」

「――推進あるのみ! 豊かな未来を! 子供たちに雇用を!」

 

 霧の中で、二つの集団が怒号を浴びせ合う。

 互いに憎しみ合い、形相を変えて罵り合う村人たち。

 その光景を、少し離れた高台から見下ろす二つの影があった。

 

「……ひでぇ有様だ。みんな、蟲に『感情』を食われてやがる」

 

 ギンコが吐き捨てるように言った。

 彼には見える。村人たちの口から漏れ出る白い煙が、上空で一つに混ざり合い、巨大な渦となって古井戸の方角へ流れているのが。

 

「ええ。ですが、あの中心にいる二人だけは違いますねぇ」

 

 薬売りが、天秤を掲げた。

 天秤は、村長とタエの方角を指してピタリと止まっている。揺れない。そこには「熱狂」がないからだ。あるのは冷徹な計算と、焦燥だけ。

 

「行くぞ、薬売り。……この茶番、終わらせてやる」

 

「おや、珍しく積極的ですねぇ。蟲師様は傍観がお好きかと思っていましたが」

 

「放っとけば、あの蟲(水鏡)が完全にモノノ怪になっちまう。……そうなったら、俺の手には負えねぇからな」

 

 ギンコは懐から、蟲を散らすための「光酒(こうき)」が入った瓢箪を取り出した。

 

          ◇

 

真(Makoto)――血税の錬金術

 

 集会場の壇上。

 村上村長がマイクを握りしめ、汗だくで叫んでいた。

 

「静粛に! 静粛に願います! ……我々は対話を諦めていない! 国の支援があれば、環境に配慮した開発が可能です! 反対派の皆さんも、どうか冷静に……!」

 

「嘘を言うな! お前は村を売った売国奴じゃ!」

 

 最前列で、タエが杖を振り回す。

 

 その時。

 白い煙と共に、ギンコと薬売りが二人の間に割って入った。

 ギンコが煙管の煙を吹きかけると、周囲の村人たちが咳き込み、一時的に呆気にとられたように静まり返る。

 

「……な、なんだ貴様らは!」

 村上が狼狽える。

 

「あんたらに処方箋を持ってきたんだよ」

 

 ギンコが淡々と言う。

 

「この村の病気は、あんたらの『芝居』が原因だ」

 

 薬売りが、鈴の音と共に進み出る。

 彼は懐から一枚の書類――のように見える呪符を取り出した。

 

「『真(まこと)』を見つけましたよ」

 

 薬売りの声が、不思議な響きを持って広場に浸透する。

 

「この5年間、開発計画は一向に進んでいない。……着工すれば自然が壊れる。中止すれば金が入らない。ならば、どうするか?」

 

 薬売りは、村上とタエを交互に見据えた。

 

「『調整中』の状態を永遠に続けることですよ」

 

 広場がざわめく。

 薬売りが続ける。

 

「村長さんは、国(中庸党)に対し『反対派の説得に時間がかかる』と報告し、多額の『対策準備金』や『環境再調査費』を引き出し続けた。……なにせ、強行着工してニュースになれば、支持率を気にする中庸党政権には痛手ですからねぇ。金で解決できるなら安いものです」

 

 そして、薬売りの視線はタエに向く。

 

「そしてババ様。あなたは村長からその金の一部を『裏献金』として受け取り、反対運動を過激化させすぎないようコントロールしていた。……『ギリギリ着工できないレベル』の反対運動を維持するために」

 

「で、でたらめじゃ!」

 

 タエが叫ぶが、その背中の「重荷」の蟲は、今にも破裂しそうなほど膨れ上がっていた。

 

「でたらめか?」

 

 ギンコがタエの前に立つ。

 

「あんたの背中、悲鳴を上げてるぜ。……孫が東京の大学に行ってるらしいな。仕送り、どこから出てるんだ?」

 

 タエの顔色が土色に変わる。

 村人たちが、疑いの眼差しを二人に向け始めた。

 

「おい……どういうことだ、村長」

 

「俺たちは、本気で村を守ろうとして……」

 

「あんたたち、グルだったのか?」

 

 疑念。怒り。絶望。

 村人たちの感情が渦巻く。

 それが、決定的な引き金(トリガー)となった。

 

          ◇

 

覚醒する水鏡

 

 ゴボォォォッ!!

 

 遠くの山から、地鳴りのような音が響いた。

 古井戸の方角から、黒い泥のような液体が噴水のように吹き上がり、空を覆う霧が一瞬にして「鏡」のような平面に変化した。

 

 空に、巨大な鏡が出現したのだ。

 そこに映し出されたのは、村上とタエの姿だった。

 

 だが、それは現在の姿ではない。

 料亭の密室で、札束の入った封筒を交換し合い、卑しい笑みを浮かべて握手をする二人の姿だった。

 

『……へへへ。これでまた一年、引き伸ばせますな』

『中庸党の先生方も、揉め事を嫌がりますからねぇ。……適当にガス抜きをして、飼い殺しにしてやりましょう』

 

 過去の映像。

 「水鏡」の蟲が見ていた、記憶の再生。

 決定的な証拠が、空に投影された。

 

「う、うわぁぁぁぁぁッ!!」

 

 村上が悲鳴を上げて座り込む。

 

「ち、違う! あれは……あれは……!」

 

「見ろよ。あれが『真』だ」

 

 薬売りが静かに告げる。

 

「あなた方がひた隠しにしてきた、この村の病巣そのもの」

 

 村人たちの目が、殺意の色を帯びていく。

「殺せ!」「騙したな!」「俺たちの人生を返せ!」

 罵声と共に、石が投げられる。村上とタエに命中し、血が流れる。

 

 その負の感情を吸い込み、空の鏡はさらに変貌した。

 鏡面から、泥のような黒い液体が滴り落ち、それが人の形を成していく。

 一つ、また一つ。

 村人たちのドッペルゲンガーのような、のっぺらぼうの怪物が生まれ出る。

 

「……マズいな」

 

 ギンコが舌打ちする。

 

「蟲が完全に同化しちまった。……『水鏡』が、人の悪意をコピーして実体化させてやがる」

 

          ◇

 

理(Kotowari)――村という名の呪縛

 

 怪異が村を飲み込もうとする中、薬売りは動じずに村上とタエの前に立った。

 退魔の剣の封印を解くための最後の鍵、『理(ことわり)』を聞き出すために。

 

「なぜ、そこまでしたのです?」

 

 薬売りが問う。

 

「ただの金欲しさなら、もっと上手いやり方があったはず。……あなた方は、なぜこの『共犯関係』を続けたのです?」

 

 血を流しながら、村上は涙を流して叫んだ。

 

「……村が、死にかけていたからだ!」

 

 村上の悲痛な叫びが、騒乱を一瞬止めた。

 

「5年前……この村はもう限界だった! 若者は去り、林業は廃れ、借金だけが残った! ……改革促進党の連中は『効率化』と言って切り捨てようとした! 保守第一党は見向きもしなかった!」

 

 村上は地面を叩いた。

 

「そんな時、中庸党がこの計画を持ってきた……! だが、わかっていたんだ! 計画が完了してしまえば、一時金が入って終わりだ! その後には、環境破壊された廃村が残るだけだ!」

 

 タエが震える声で続けた。

 

「……だから、引き伸ばすしかなかったんじゃ。……対立しているフリをして、国から金を絞り取り続けるしか……この村が生き残る道はなかったんじゃ……!」

 

 これが、『理』だった。

 私利私欲だけではない。

 時代の変化に取り残された寒村が、生き延びるために選んだ「毒」を飲み続けるという選択。

 政治という巨大なシステムに寄生し、自らの尊厳を売り渡してでも延命を図ろうとした、哀れな生存本能。

 

「……なるほど。村を守るために、村人の心を売ったと」

 薬売りが冷たく見下ろす。

 

「その矛盾、その歪みこそが……モノノ怪の食卓となったわけですねぇ」

 

 ギンコが煙草の灰を落とした。

「……悲しい理だが、蟲に罪はねぇ。だが、こうなっちまったらもう、薬じゃ治せねぇな」

 

          ◇

 

退魔の剣、解放

 

 空の鏡が割れた。

 破片が降り注ぎ、それが全て異形の怪物へと変わる。

 「鏡のモノノ怪」。

 本体は、古井戸から伸びる巨大な水柱の中にあった。無数の顔が埋め込まれた、醜悪な水龍のような姿。

 

「形・真・理、全て揃った……!」

 

 薬売りが、退魔の剣を掲げる。

 ガチャリ、と鍔が鳴り、黄金の光が溢れ出す。

 

「――解き放つ!」

 

 薬売りの姿が変わる。

 褐色の肌、金色の長髪。神性を帯びた荒ぶる神の姿へ。

 

「ギンコ! 離れていろ!」

 

 薬売り(ハイパー化)が叫ぶ。

 

「……いや、手伝わせてもらうぜ」

 

 ギンコは逃げなかった。

 彼はリュックから、大切にしまっていた「高濃度の光酒」が入った瓶を取り出した。

 

「あのモノノ怪の核(コア)になってるのは、あくまで『水鏡』という蟲だ。……俺が蟲の本能を刺激して、核を露出させる。そこを斬れ!」

 

「……ふん。面白い」

 

 ギンコが瓶を地面に叩きつけた。

 強烈な光と共に、芳醇な生命の香りが広がる。

 それは蟲にとって、抗いがたい誘惑の香り。

 

 ギョオォォォォ……!

 

 モノノ怪が反応した。

 村人たちを襲おうとしていた泥人形たちが、一斉にギンコの方へ向き直る。

 そして本体の水龍が、光酒を求めて大きく口を開けた。

 

「今だ!」

 

 薬売りが跳んだ。

 重力を無視した軌道で空を駆け、水龍の懐へと飛び込む。

 

「退魔の剣・一閃!」

 

 黄金の斬撃が走った。

 それは物理的な肉体を断つのではなく、蟲に絡みついた「黒い怨念(因果)」だけを外科手術のように切り離す神技。

 

 パァァァァァン……

 

 ガラスが割れるような音が響き渡り、世界を覆っていた極彩色の色が弾け飛んだ。

 

          ◇

 

霧の晴れた朝

 

 気がつくと、ギンコは古井戸の前に立っていた。

 空は晴れ渡り、晩秋の澄んだ空気が満ちている。

 井戸の中の水は、透き通った清流に戻っていた。

 

「……終わったか」

 

 ギンコは大きく息を吐き、新しい蟲煙草に火をつけた。

 隣には、元の姿に戻った薬売りが、涼しい顔で座っている。

 

「お見事でしたねぇ、蟲師様。……おかげで、無益な殺生をせずに済みました」

 

「あんたが斬ったのは『呪い』だけだ。……あの蟲(水鏡)は、また静かに暮らすだろうよ。人が余計なもんを捨てなけりゃな」

 

 村の方では、騒ぎが続いていた。村上とタエは、村人たちによって拘束され、警察に突き出されることになったようだ。

 彼らの不正は、すぐに改革促進党の格好の攻撃材料となり、日本中庸党の政権運営にも影を落とすことになるだろう。

 だが、それは人間の領分だ。

 

「……さて。俺はもう行くとするか」

 

 ギンコは荷物を背負った。

 

「どちらへ?」

 

「風の吹くままに。……あんたは?」

 

「私もまた、怪異のあるところへ。……人の世に闇がある限り、薬売りは店じまいできませんので」

 

 薬売りは、妖艶に微笑み、鈴の音と共に霧の中へと消えていった。

 

 ギンコは一度だけ振り返り、静かになった村を見下ろした。

 

「……ま、せいぜい人間らしく生きな。蟲に食われねぇようにな」

 

 そう呟き、彼は反対方向の山道へと歩き出した。

 枯野には、ただ冷たい風が吹くばかりであった。

 

          ◇

 

事後処理:御仁村インシデント(2014年晩秋)

 

現場の阿鼻叫喚

 

場所: 御仁村役場前・臨時対策本部テント

時刻: 事件直後

 

【J-GOC(日本政府・超常現象対策局)の現場指揮官】

「ふざけるな! ふざけるな! 馬鹿野郎!! なんで空に鏡が出た動画がもう『ニコニコ動画』に上がってんだよ! 削除班は何をしてる!?」

「ええい、『新型バイオプラントのホログラム投影実験の誤作動』で押し通せ! 村民全員に箝口令だ!」

 

【財団・機動部隊員(記憶処理担当)】

「隊長、無理です! 村民の精神汚染(SAN値低下)が激しすぎます! Aクラス記憶処理薬(エアロゾル散布)の在庫が足りません!」

「薬売りの結界の影響で、現実性希薄領域が発生しています! ヒューム値が安定しません! カント計数機が壊れました!」

 

【世界オカルト連合(GOC)・物理部門】

「ターゲット(薬売り)をロスト! あの派手な着物の男、空間転移しやがった!」

「クソッ! あれは『タイプ・グリーン(現実改変者)』か? それとも『タイプ・ブラック(神格存在)』か? どっちにしろ物理法則を無視しすぎだ!」

 

          ◇

 

政治的な隠蔽工作(カバーストーリー)

 

この事件は、当時の「日本中庸党政権」にとって致命的なスキャンダルになりかねないため、政府主導で強引かつ迅速な幕引きが図られました。

 

公式発表:

 

「御仁村の古井戸から、地殻変動により高濃度の幻覚性ガスが噴出」

 

「村長および反対派リーダーを含む村民多数が、ガス中毒による集団ヒステリーと錯乱状態に陥った」

 

「空の鏡や怪物は、ガスによる集団幻覚であった」

 

政治的処理:

 

村上村長とタエの逮捕: 「ガス発生の危険性を知りながら放置した業務上過失」および「補助金適正化法違反(横領)」で逮捕。

 

バイオプラント計画: 「地質調査の結果、不適格」として白紙撤回。

 

日本中庸党: 「任命責任」を野党(改革促進党)から激しく追及され、支持率が5%低下。内閣改造を余儀なくされる。

 

          ◇

 

各組織による「要注意人物」ファイル更新

 

この事件を経て、二人の主人公に対する評価は以下のように更新されました。

 

① 対象:ギンコ(蟲師)

 

財団評価: 「要注意人物(PoI)。異常生物(蟲)を誘引する特異体質者。彼自身に敵対性はないが、移動するバイオハザード源であるため監視が必要」

 

GOC評価: 「駆除対象外。現地の生態系バランサーとして機能しているため、接触は推奨しない」

 

② 対象:薬売り(モノノ怪)

 

財団評価: 「Keterクラス(または未定義)。」

 

「退魔の剣」による物理法則の書き換え、結界生成、時間・空間への干渉を確認。収容不可能。

 

「彼が出現する=収容違反級の怪異が存在する」という指標(炭鉱のカナリア)として扱う。

 

GOC評価: 「即時排除対象(リキッド)・ただし交戦は回避せよ。」

 

「高脅威現実改変者。物理攻撃が無効化される可能性大。彼と敵対した場合、部隊の全滅が予想される」

 

J-GOC評価: 「災害指定。」

 

「あいつが来ると書類仕事が山のように増える。二度と来るな(現場の声)」

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