西暦2013年、平成25年、それが、現在この世界の日付だ。
世間では朝ドラの『あまちゃん』が大流行し、テレビをつければ「倍返し」という言葉が飛び交っている。大人たちはガラケーからスマートフォン(iPhone 5sなど)へと持ち替え始めているが、僕たち小学生の間ではまだ、折りたたみ式の携帯電話や、携帯ゲーム機が主流だ。そんな、どこか懐かしく、けれど確かに現代へと続く過渡期の時代。
だが、この境港市において、そんな時代の空気は「異常性」という分厚いフィルター越しにしか感じられない。
市立・境第二小学校。僕、佐藤蓮が通うこの小学校は、一見するとごく普通の地方の公立校だ。校庭には遊具があり、飼育小屋にはウサギがいる。しかし、実際に怪異に遭遇してしまった今の僕には分かる。ここの設備は、明らかに狂っている。
まず、校舎の窓ガラスが分厚すぎる。全部防弾ガラスか、あるいはそれ以上の強度を持つ「対衝撃複合ガラス」だ。そして、廊下の至る所に貼られているポスター。『いかのおすし(行かない・乗らない・大声出す・すぐ逃げる・知らせる)』の隣に、当たり前のように『見ない・聞かない・答えない・振り返らない』という、怪異遭遇時のマニュアルが貼られている。
ここは、魔都の子供たちを育成するための、安全地帯であり、洗脳施設だ。今までは意識しない様にしていたが本当にそれらが存在する事を知ってしまった今となってはそれも厳しい。
「……はぁ」
僕は教室の窓際で、重いため息をついた。5時間目の授業は道徳。
先生が黒板に書いているテーマは『迷子を見かけた時の正しい対処法』。……またか。先週も似たようなことをやった気がする。
そんな「模範的なモブ」を演じる僕の視界の端に、一人の少女が映り込む。教室の真ん中。特等席に座っている、白髪に桜色が混じった奇抜な髪色のクラスメイト。小鳥遊六花(たかなし りっか)。
彼女は背筋を伸ばし、先生の話を真面目に聞いている。ノートを取る手も止まらない。見た目は、どこにでもいる(髪色は変だけど)真面目な優等生だ。性格も、少し天然なところはあるが、明るくてクラスの評判もいい。
……そう、一見するとただの「美少女」だ。あのタワーでの一件さえ知らなければ。
僕は思い出す。先日、夢みなとタワーの展望室で、海上に現れた「白い踊り手」を、彼女が一睨みで消し飛ばした光景を。あれは、ただの「霊感がある子」のレベルじゃない。間違いなく、この歪んだ世界における「主人公(チート)」側の存在だ。関わってはいけない。僕はただの村人Aだ。勇者のパーティーに巻き込まれたら、最初のボス戦の余波で死ぬ。
(頼むから、こっちを見ないでくれ。僕は何も知らない、ただの小学生だ……)
僕は必死に教科書に視線を落とし、気配を消そうとした。その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!
不快なサイレン音が、校内に鳴り響いた。火災報知器のジリリリという音ではない。もっと低く、腹に響くような重低音。これは、『第2種警戒警報』だ。
『訓練、訓練。ただいま、校門より「白い服を着た不審者」が侵入しました』
放送委員のたどたどしい声がスピーカーから流れる。
『繰り返します。1階西昇降口より、不審者が侵入。目的は不明ですが、刃物などは所持していない模様です。生徒の皆さんは、先生の指示に従い、速やかに回避行動をとってください』
クラスの空気が一変した。先生の顔色が変わる。チョークを置き、普段の穏やかな表情が消え失せ、戦場の兵士のような鋭い目つきになった。
「全員、カーテンを閉めなさい! 廊下側も全部だ! 急げ!」
「電気を消して! 廊下の小窓も塞ぐんだ!」
クラスメイトたちが、機械のような手際で動き出す。「キャー!」とか「怖いー!」なんて騒ぐ生徒はいない。全員が無言で、バリケードを築き、光を遮断していく。僕も慌てて自分の席の近くのカーテンを閉め、机の下に潜り込む。
「いいですか、絶対に机から出てはいけません」
先生が低い声で告げる。その手には、「さすまた」ではなく、もっと重量感のある黒い特殊警棒のようなものが握られていた。
「外を見てはいけません。音を聞いてもいけません。『そこに居ないふり』をするんです。……いいですね?」
教室内は完全な静寂と、薄暗闇に包まれた。全員が机の下でダンゴムシのように丸まり、両手で耳を塞ぎ、目を閉じている。
……おかしいだろ。僕は膝を抱えながら、心の中でツッコミを入れる。不審者対応訓練なら、「特徴を覚えて先生に知らせる」のが正解のはずだ。なのに、この対応はなんだ?
視界を遮断し、音を遮断し、存在を消す。これは「人間」相手の対応じゃない。「視認したらアウト」「音を聞いたらアウト」な、認識災害型アノマリーへの対応(プロトコル)だ。「白い服の不審者」というのは、くねくねや、それに類する怪異を指す隠語(コード)なのだろう。
怖い。学校に怪異が侵入する想定で訓練をしている事実が、何よりも怖い。
「……ねえ、佐藤くん」
すぐ隣から、微かな声がした。心臓が口から飛び出るかと思った。
恐る恐る横を見ると、隣の席の机の下から、六花がこちらを見ていた。彼女は耳を塞いでいない。薄暗がりの中、そのオッドアイが怪しく光っているように見えた。
「……っ、小鳥遊さん。静かに……」
「大丈夫だよ。これ、ただの訓練だし」
六花は声を潜めながらも、ひどく落ち着いていた。まるで、退屈な映画を見ているような目だ。
「これ、変だと思わない?」
「……え?」
「不審者訓練なのに、なんで『見るな』って言うのかな。普通、どんな服着てたとか、どっちに逃げたとか、警察に言わなきゃダメじゃん」
彼女は純粋な疑問のように問いかけてくる。だが、その瞳は僕の反応を観察していた。
「……さ、さあ。刺激しないため、とかじゃないかな」
「ふーん……。佐藤くんは、そう思うんだ」
六花は少しだけ首を傾げた。
「私には、佐藤くんが『来るナニカの正体を想像して怖がってる』ように見えるけどね」
ドキリとした。見透かされている。僕が、この訓練の「裏の意味」に気づいていることを。
「……き、気のせいだよ」
「そっか。まあ、いいけど」
六花は意味ありげに微笑むと、再び前を向いた。
その時。
廊下から、音が聞こえてきた。
ズズッ……ガタッ……ズズッ……
足音ではない。何か硬い台車を引きずっているような音。そして、関節が外れた人形が無理やり歩いているような、不規則な乾いた音。
先生が、入り口のドアの隙間から外を監視している。その背中が緊張で強張っている。僕の机は廊下側だ。カーテンの隙間、数ミリの裂け目から、廊下が一瞬だけ見えた。
――白かった。
人間じゃない。美術室にあるようなデッサン人形。表面を白く塗りつぶされ、目も鼻も口もない、のっぺらぼうのマネキン。それが、ありえない関節の曲がり方をして、カクカクと廊下を「滑って」いく。首が、真後ろを向いていた。描かれていないはずの目が、教室の中を覗き込んだ気がした。
(……ッ!?)
僕は悲鳴を噛み殺し、さらに深く机の下に潜り込んだ。あれはなんだ? 自衛隊が用意したロボット? それとも、本物の怪異を捕獲して訓練に使っているのか? どっちにしろ、あんなものを子供に見せるな。トラウマになるだろ。
ウゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!
長い、長い沈黙の後。ようやく訓練解除のサイレンが鳴り響いた。
『訓練終了。不審者は職員により確保されました。生徒の皆さんは、先生の指示に従い、通常授業に戻ってください』
明かりがつく。
クラスメイトたちが一斉に机の下から這い出してくる。「あー怖かった」「足痺れたー」と日常の会話が戻ってくる。みんな、あの「白いマネキン」を見ていないのだ。先生の言いつけを守って、目をつぶっていたから。見てしまったのは、僕と――おそらく、六花だけ。
放課後。僕は逃げるようにランドナップに教科書を詰め込んでいた。
早く帰ろう。家に帰って、布団かぶって寝よう。今日はもう、情報の許容量オーバーだ。
「ねえ、佐藤くん」
背後から声がかかる。終わった、と思った。ゆっくりと振り返ると、ランドセルを背負った六花が立っていた。教室に残っていた数人の女子が、「えっ、小鳥遊さんが男子誘ってる?」とヒソヒソ噂しているのが聞こえる。やめてくれ、目立ちたくないんだ。
「……な、なにかな、小鳥遊さん」
「一緒に帰らない?」
直球だった。
断る理由はいくらでも作れる。「塾がある」「用事がある」。でも、彼女の表情を見て、言葉が詰まった。
いつもの飄々とした顔じゃない。
少しだけ眉を下げて、不安そうな、寂しそうな顔をしていた。
「君、さっきの訓練で……『何か』に気づいてたでしょ? 私もなんだ」
彼女は声を潜めて言った。
「この学校、なんか変だよね。……私、そういう話ができる人がいなくてさ。もしよかったら、少し話さない?」
そこに、「転生者狩り」のような殺意はなかった。ただ、異質な環境に放り込まれて、周りと話が合わなくて困惑している、等身大の女の子がそこにいた。彼女もまた、この狂った学校で孤独なのかもしれない。
僕と同じように。
……ここで断ったら、どうなる?
彼女は無理強いはしないだろう。でも、僕はこの先ずっと、「あの時、唯一の理解者になれたかもしれない相手を拒絶した」という後悔を引きずることになる気がした。それに、彼女の親が誰か知らないけど、彼女自身は悪い子じゃなさそうだ。
「……うん。いいよ」
僕は観念して、頷いた。六花の顔がパァッと明るくなる。
「ほんと? やった! じゃあ行こっか」
2013年。まだスマホもガラケーも持っていない僕たちは、LINEもメールアドレスも交換できない。だから、これは最も原始的で、最も逃げ場のない契約だ。夕暮れの通学路。僕は、この世界で最も危険な(と僕が勝手に思っている)少女と、友達になってしまった。
隣を歩く六花は、鼻歌交じりにご機嫌だ。その横顔を見ながら、僕は心の中で天を仰いだ。――さようなら、僕の平穏なモブライフ。
これから始まるのは、きっとロクでもない非日常だ。
◇
放課後の水木しげるロードは、夕暮れ時の独特な禍々しさに包まれていた。
道端に並ぶ百体以上の妖怪ブロンズ像。
それらが落とす影が、オレンジ色の西日を受けて長く伸び、まるで本物の「百鬼夜行」のように蠢いて見える。
そんな妖怪ストリートを、私は上機嫌で歩いていた。隣には、借りてきた猫のように背中を丸めた佐藤蓮くん。
(ふふっ、ゲットだぜ)
私は心の中でピースサインをした。入学してから四年間、ずっと退屈だった。
この境港市は、表向きはのどかな田舎町だけど、裏側は「ツギハギだらけのバグった世界」だ。
クラスメイトたちはみんな、その異常性に気づかないように「補正」がかかっている。避難訓練で真っ白なマネキンが歩いていても、「先生の言う通りに見なかったことにする」だけ。
でも、彼だけは違った。
机の下で震えていた彼の目は、間違いなく「あれはヤバイ」と理解していた。
私と同じ、「世界のバグが見えている側」の人間だ。
「……ねえ、佐藤くん」
「は、はいっ」
私が声をかけると、蓮くんはビクッと肩を跳ねさせた。
そんなに警戒しなくてもいいのに。私、一応クラスでは「美少女(自称)」で通ってるはずなんだけど。
「さっきの訓練の『不審者役』さ、趣味悪かったよね」
「……う、うん。夢に出そうだった」
「先生たちもさ、あんなの真顔でやってて変だと思わない? 普通の学校って、もっとこう……平和ボケしてるもんじゃないの?」
カマをかけてみる。
彼は少し言い淀んでから、言葉を選んで答えた。
「……小鳥遊さんの家は、そういうの……厳しいの?」
「うちは変だよ」
私は即答した。変なんてレベルじゃない。異常だ。
「パパは『僕がルールだ』みたいな人だし、ママは『日向ぼっこ以外したくない』って一日中寝てるし。……まともな倫理観持ってるの、私だけかも」
パパ(五条悟)とママ(小鳥遊ホシノ)。
あの二人は、この世界の「作者」に愛されすぎている。強すぎて、常識という枠組みが彼らに追いついていないのだ。
「……そっか。苦労してるんだね」
蓮くんが、少しだけ同情の籠もった目を向けてきた。
あ、勘違いしてる。
きっと「厳格な頑固親父」と「病弱な母親」みたいな家庭を想像してるんだろうな。
……まあ、当たらずとも遠からず、か。
「でも、パパの持ってくるお菓子だけは美味しいんだよねー」
「お菓子?」
「うん。東京の高いやつ。……あ、着いた」
私は足を止めた。
水木しげるロードの外れ。古い町家が並ぶ一角に、ひときわ異彩を放つ古民家がある。入り口には杉玉が吊るされ、看板には達筆すぎる文字で『界』と書かれている。
私の家だ。
店先には、「本日の目玉商品:呪いの壺(洗浄済み・花瓶に最適)」という、パパが悪ノリで書いた値札のついた壺が転がっている。
「ここ、私の家。……ねえ、寄ってかない?」
「えっ、いや、それは悪いし……」
蓮くんは全力で拒否反応を示した。
まあ、男子小学生が女子の家に上がるのはハードルが高いよね。でも、私は逃さない。
「パパが昨日、東京のお土産で『高いロールケーキ』買ってきたんだけどさ。甘すぎて私とママじゃ食べきれないの。……手伝ってよ」
「えぇ……」
「……ダメ? せっかく友達になれたと思ったのに」
私は少しだけ眉を下げて、上目遣いで彼を見た。
半分は演技。でも、半分は本音。
この世界で初めてできた「話の通じる相手」を、もう少しだけ引き止めておきたかった。
蓮くんは「うっ」と言葉を詰まらせ、観念したように息を吐いた。
「……ちょっとだけ、なら」
よし。陥落。
カラン、コロン。
引き戸を開けると、入店を知らせる鈴の音が響いた。店内は薄暗い。
そして、いつもの匂いがする。高級な線香の香りと、バターと砂糖を煮詰めたような甘い香り。聖域と洋菓子店をごちゃ混ぜにしたような、我が家の匂いだ。
「ただいまー。パパ、友達連れてきたよー」
私は靴を脱ぎながら、奥のリビングに向けて声をかけた。
「んー? 六花、お帰りー」
奥のソファから、間延びした声が返ってきた。
そこには、一人の男が座っていた。
身長190センチを超える長身。雪のような白髪。
家の中だというのに、真っ黒なアイマスク(今日はサングラスじゃないらしい)で目元を覆っている。
彼は長い脚を組んで、スマホをいじっていたが、私たちがドカドカと上がり込む気配に、ゆっくりと顔を上げた。
「お邪魔しま……」
蓮くんの挨拶が、途中で途切れた。
いや、途切れたんじゃない。
「凍りついた」のだ。
彼の顔から、サァーッと血の気が引いていくのが分かった。
青を通り越して、土気色。瞳孔が開き、口をパクパクさせているけれど、声が出ていない。
まるで、神話のメドゥーサに睨まれた石像みたいに、彼は玄関で硬直してしまった。
(……あれ?)
私は首を傾げた。
いくらなんでも、反応が過剰すぎない?
確かにパパはデカいし、アイマスクしてて怪しいし、オーラも半端ないけど。普通の小学生なら、「うわ、変な人」とか「デカいな」とか、そういう反応になるはずだ。
でも、蓮くんの反応は違う。
それは、「絶望」だった。
絶対に遭遇してはいけない、世界の理(ことわり)そのものに出会ってしまったような、根源的な恐怖。
パパが、アイマスクの下でニヤリと笑った。
「へえ。六花が『男』連れ込むなんてね。……度胸あるじゃん、少年」
その一言で、蓮くんの膝がガクガクと震え出した。
「ご、ごじょ……」
彼が、掠れた声で何かを呟いた。
「ごじょ……さと……」
(……あ)
その瞬間、私の頭の中でパズルが組み合わさった。
蓮くんは、知っている。パパの名前を。いや、ただの名前じゃない。「五条悟(ごじょう さとる)」という、最強の呪術師の存在を。
私と同じだ。
彼はただ「霊感がある子」じゃない。「前世の記憶(あっちの知識)」を持っている転生者なんだ。
――だとしたら。
呪術廻戦という物語における「最強」が、目の前でニヤニヤ笑っているこの状況。
一般人(モブ)の彼にとっては、特級呪霊の群れに放り込まれるより恐ろしい、「即死イベント」に他ならない。
「……あちゃー」
私は思わず額に手を当てた。これは、高いロールケーキくらいじゃ償えないトラウマを植え付けちゃったかもしれない。