2014年、11月下旬。
日本海側特有の、鉛色の空が垂れ込める季節がやってきた。
ここ鳥取県境港市――裏の通称「魔都」にも、冬将軍は平等に訪れる。ただし、この街の場合は雪と共に「得体の知れないナニカ」も降ってくるのが常だが。
「フッ……視える。視えるぞ蓮! 大気中のマナが凍結し、白き絶望の結晶となって降り注ごうとしている!」
「うん、それを世間では『初雪』って言うんだよ、六花ちゃん」
放課後の通学路。
北風が吹きすさぶ中、僕――佐藤蓮は、隣を歩く小鳥遊六花ちゃんのマフラーを直してやっていた。
今日の六花ちゃんは、いわゆる「躁状態」だ。瞳(カラーコンタクト)を爛々と輝かせ、見えない敵と戦い、電柱の影に潜む組織のエージェント(ただの野良猫)を警戒している。
「甘いわね、蓮。これはただの雪ではない。極北の『黒山』から漏れ出した、ニブルヘイムの吐息よ。……くっ、私の邪王真眼が共鳴して熱い……!」
「はいはい、カイロ貼っときな。……実際、今年は冷えるな」
僕は身震いして、コートの襟を立てた。
六花ちゃんの妄想は、この街ではあながち妄想で済まないから質が悪い。
最近、J-GOC(超常現象対策局)の公表(超常界隈に)しないレベルで「微小特異点」が多発している。空間の歪み、神隠し、認識災害。街全体が、冬眠前の熊のように神経質になっている気がした。
「おい、蓮。あそこを見ろ」
不意に、六花ちゃんが足を止めた。
彼女が指差したのは、再開発地区の外れにある、取り壊し予定の古いマンションだった。4階建ての、コンクリートが剥き出しになった廃墟同然の建物。
だが、今の僕には、それがただの廃墟には見えなかった。
「……うわ」
僕は思わず、サングラス(蒼崎橙子・作の特注品)の位置を直した。視界補正を通して見ても、そのマンションは「歪んで」いた。空間がねじれ、窓の配置がおかしい。4階の上に2階があり、入り口がどこにもないような、エッシャーの騙し絵じみた違和感。
「すごい……! あそこよ蓮! あれこそ『不可視の境界線』への入り口! 選ばれし者だけが辿り着ける、幽玄の塔!」
「いや、あれはただの『事故物件』でしょ。絶対に行くなよ? フリじゃないからな?」
「フフッ、何を恐れることがあるの。私には最強の従者(キミ)と、この眼があるというのに!」
六花ちゃんは聞く耳を持たず、スカートを翻してマンションの方へ駆け出してしまった。
「ちょっ、待て六花ちゃん!」
僕は舌打ちをして、その後を追う。
この街で「変な場所」に行くのは死亡フラグだ。
だが、僕が角を曲がろうとしたその時――。
ドンッ。
出会い頭に、誰かと衝突した。
◇
「――っと、悪い」
低い、中性的な声。ぶつかった衝撃は軽かったが、僕はその人物を見た瞬間、心臓が早鐘を打つのを感じた。
本能的な恐怖。いや、「生物としての格の違い」を突きつけられたような感覚。
そこに立っていたのは、着物の上に赤い革ジャンを羽織った、奇妙な出で立ちの女性だった。
長さの揃っていないショートカット。整っているが、鋭利な刃物のような美貌。そして何より――その瞳。底知れない虚無を湛えた黒い瞳が、僕を(あるいは僕の中身を)射抜いていた。
「……アンタ」
彼女は僕を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「……チッ。なんだ、今の感触。中身がズレてんのか?」
「え……?」
僕は冷や汗を流しながら、一歩後ずさる。
ズレている。それは僕が「転生者」であることを指しているのか?
彼女は僕の魂の形を視ている?
(ま、まさか……この人……!)
脳内の知識データベースが、ある人物の情報を弾き出す。
『空の境界』。直死の魔眼。両儀式。
なぜ、そんな原作主人公クラスの怪物が、こんな片田舎に?
「……まあいい。今は忙しいんだ」
彼女――両儀式は、僕への興味をすぐに失ったようだった。
彼女の視線は、僕の背後にある廃マンションに向けられている。
「おい、ボウズ。あっちに女の子が走っていかなかったか?」
「え、あ、はい。僕の連れが……」
「なら急げ。あそこは今、『生きてる』ぞ」
「生きてる……?」
「ああ。胃袋を開けて待ってるのさ。……消化される前にな」
式は短く言い捨てると、音もなく駆け出した。
その速さは人間離れしていた。僕は慌てて正気を取り戻し、彼女の後を追った。
◇
マンションの前には、古びたバリケードテープが張られていた。
だが、その一部が破られ、小さな靴跡が中へと続いている。六花ちゃんだ。
「六花ちゃん! 返事をしろ!」
僕は声を張り上げるが、返答はない。
入り口の自動ドアは壊れて開いたままだ。その奥に広がるエントランスは、昼間だというのに深夜のように暗い。
「……騒ぐな。舌を噛むぞ」
先に踏み込んでいた式が、暗闇の中で立ち止まっていた。
彼女は懐からナイフを取り出すと、何もない空間に向かって構える。
「結界か。いや、固有結界に近いな。……橙子のヤツ、また面倒な仕事を押し付けやがって」
「あの……あなたは?」
「しがない便利屋だ。……来るなら離れるなよ。迷子になっても知らんぞ」
式が足を踏み出す。
その瞬間、世界が反転した。
グニャリ、と視界が歪む。
エントランスの床が天井になり、階段が無限に続き、壁からは無数の「ドア」が生えてくる。
典型的な「異界化」現象。
SCP財団で言うところの、非ユークリッド幾何学的空間。
「うわぁ……」
僕は必死に吐き気を堪える。サングラスのフィルタリング機能がなければ、即座にSAN値チェックが入っていただろう。
そんな異常空間の中で、式だけは平然としていた。
「六花ちゃんは!?」
「気配はある。……上だ」
式が上を見る。
そこには、螺旋状にねじれた階段が、遥か彼方の闇へと伸びていた。
そして、その中腹あたりに――。
「フハハハハ! 見よ蓮! ここが魔界の入り口だ!」
六花ちゃんがいた。
彼女は階段の手すりに危なっかしく立ち、眼下の僕たちに向かってポーズを決めていた。
無事だ。
ピンピンしている。
むしろ、この異常事態を「自分の設定が現実になった」と解釈し、最高にハイになっている。
「六花ちゃん! 降りてこい! そこは危ない!」
「断る! 私は今、この塔の主と交信しているの! ……聞こえる、聞こえるわ。深淵からの呼び声が!」
六花ちゃんの言葉に呼応するように、マンション全体が「ゴゴゴゴ……」と低い唸り声を上げた。
壁のシミが人の顔のように歪み、無数のドアが一斉に開閉する。
バタン! バタン! バタン!
まるで、巨大な生物が咀嚼を始めたかのように。
◇
「チッ。ガキの妄想に共鳴して活性化したか」
式が舌打ちをする。
この空間は、「黒山」の影響で曖昧になった境界線に、六花ちゃんの強力な(無自覚の)魔力と思考が流れ込み、具現化したものかもしれない。
つまり、今の六花ちゃんは「生贄」であると同時に、この怪異の「燃料(バッテリー)」だ。
「来るぞ」
式が警告した直後。
壁や床から、ドロドロとした黒い影が溢れ出した。
それは不定形の怪物となり、僕たちに襲いかかる。
物理攻撃が効きそうにない、純粋な呪いと残留思念の集合体。
「ひっ……!」
僕は腰のホルスター(真田さんにもらった非殺傷護身具)に手を伸ばすが、震えて抜けない。
しかし、式は笑っていた。
獰猛で、美しい、殺し屋の笑み。
「……生きているなら、神様だって殺してみせる」
彼女の瞳が、青く輝いた。
直死の魔眼。
万物の死を視る、虹の瞳。
ザシュッ!
式がナイフを一閃させる。ただ空気を切っただけに見えた。
だが、襲いかかってきた黒い影は、まるでガラス細工のように粉々に砕け散り、霧散した。
影だけではない。彼女のナイフが触れた「空間」そのものに亀裂が走り、異界の法則が崩壊していく。
「す、すげぇ……」
僕は呆然と呟く。これが、本物。
五条さんのような「規格外の出力」とは違う、研ぎ澄まされた「概念の殺害」。
「蓮! 見たか!?」
上から六花ちゃんが叫ぶ。彼女の目はキラキラと輝いていた。
「あの女、やるわね! 私の眷属(サーヴァント)にスカウトしましまう!」
「馬鹿野郎、殺されるぞ!」
「次は本丸だ」
式は雑魚を一掃すると、六花ちゃんがいる上層階――異界の核(コア)へと視線を向けた。
そこには、マンションそのものが形成した、巨大な「捕食口」が開こうとしていた。
◇
マンションの最上階付近。
そこは、現実と異界の境界が最も薄くなっている場所だった。六花ちゃんの背後の空間が裂け、巨大な目玉のような何かがギョロリと覗く。
あれが本体だ。この廃墟を巣食う、伝承科レベルの遺物(あるいはその残滓)。
「六花ちゃん、後ろ!」
僕が叫ぶと同時に、式が跳んだ。
重力を無視したような跳躍。廃墟の瓦礫を足場に、一瞬で六花ちゃんのもとへ肉薄する。
「邪魔だ!」
式は六花ちゃんの襟首を掴み、乱暴に僕の方へ放り投げた。
「うわぁっ!?」
六花ちゃんが空を舞う。僕は慌てて彼女を受け止める。
「ぐっ……! 無事か、六花ちゃん!」
「ふ、不敬な! 邪王真眼の使い手を投げるとは……でも、ナイスキャッチよ蓮!」
六花ちゃんを安全圏へ逃がした式は、そのまま空中で体を捻り、巨大な目玉と対峙した。
怪物は、侵入者を排除しようと、空間ごと式を圧縮しようとする。
壁が迫り、天井が落ちてくる。逃げ場のない圧殺攻撃。
だが、式には「線」が見えていた。
この怪物が、空間を維持するために繋ぎ止めている、死の線が。
「――お前の死(カタチ)、視えた」
式の手の中で、ナイフが煌めく。
それは物理的な切断ではない。
この異界を成立させている「因果」そのものを断ち切る一撃。
キィン。
硬質な音が響いた。
直後。
巨大な目玉に、一本の亀裂が走る。
断末魔の悲鳴すらなく。怪物は、自らの存在を維持できなくなり、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
同時に、歪んでいた空間が元の廃マンションへと戻っていく。
「……ふぅ」
着地した式は、ナイフを畳み、ふぅと息を吐いた。
その背中には、圧倒的な「死」の気配と、仕事を終えた職人の気怠さが漂っていた。
◇
異界が晴れたマンションの外。
僕たちは、まだ少し足元がふらつきながらも、現実世界(夕暮れの境港)に戻ってきていた。
「いやー、凄かったわね蓮! まさか私の魔力があんな大怪獣を召喚してしまうなんて!」
六花ちゃんは興奮冷めやらぬ様子で、式の周りをチョロチョロしている。
「ねえ、あなた名前は? コードネームは? 私の組織(※存在しません)に入らない?」
「……うっとうしいガキだ」
式はあからさまに嫌そうな顔をしているが、本気で怒ってはいないようだ。
彼女は僕の方を向き、ジロリと睨んだ。
「おい、ボウズ。アンタ、蒼崎(アイツ)の眼鏡かけてるな」
「えっ、あ、はい。……わかりますか?」
「分かるさ。その悪趣味な術式構成、見間違えるわけがない」
式はため息をつく。
「……ったく。あいつも、こんな子供にまで商売してるのか。それとも、アンタがそれだけ『視えちまう』ってことか?」
彼女の言葉に、僕はドキリとする。転生者であること。そして、この街の異常性が見えてしまうこと。彼女は、全てを見抜いているようだった。
「まあいい。依頼は達成した。私は帰る」
式は踵を返す。
その時だった。
「あれー? もう終わっちゃったの?」
場違いに間延びした声が、背後から聞こえた。
振り返ると、コンビニの袋を提げた長身の男が立っていた。目隠し(アイマスク)をした、怪しい男。
五条悟だ。
「げっ、五条さん……」
僕が呻くと、五条さんは「やっほー」と手を振った。
「コンビニでおでん買ってたらさ、なんか面白そうな気配がしたから来てみたんだけど。……へぇ」
先生の視線が、式に向けられる。アイマスクの下で、六眼が彼女を捉えたのだろう。
「初めまして、だよね? 噂の『直死』のお姉さん」
式が足を止めた。
彼女はゆっくりと振り返り、五条を見上げる。その黒い瞳が、五条の周囲にある「無限」を、そして彼という存在のデタラメさを映し出す。
「……アンタか。橙子が言ってた『規格外』は」
式の声に、僅かな緊張が走る。
彼女はナイフに手をかけなかった。
いや、かけたところで「意味がない」と悟ったのか。
「すごいねぇ。僕の術式まで殺せそうな目だ」
五条は楽しそうに笑う。
「でも、届くかな? 僕と君の間には、無限の距離があるんだけど」
「……フン」
式は鼻で笑った。
「モノには限度ってモンがある。アンタのそれは、生きてるとか死んでるとか、そういう次元じゃないな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
式は五条から視線を外し、再び歩き出した。
「……橙子に伝えておけ。これ以上の残業代は請求するぞ、とな」
「了解。また遊びにおいでよ、境港に」
式は振り返らず、手をひらりと振って去っていった。
その背中が見えなくなるまで、僕たちは動けなかった。
◇
「……行っちゃったわね」
六花ちゃんがポツリと言う。
「強敵(とも)だったわ……。いつか決着をつけねばなるまい」
「君は、助けてもらっただけだろ」
僕は六花ちゃんの頭を軽く小突く。
五条さんが、コンビニ袋から大根を取り出して齧りながら近づいてきた。
「蓮くん、無事でよかったねー。あのお姉さん、怒らせると怖いからさ」
「五条さん知ってたんですか? 彼女のこと」
「ん? まあね。僕のサングラス作ってくれた人の知り合いだから」
五条さんは、僕のサングラスを指差す。
「その眼鏡、大事にしなよ。それがあれば、大抵の『死』からは目を逸らせるからさ」
僕は自分のサングラスに触れる。
蒼崎橙子の作品。そして、両儀式との遭遇。
この街には、僕の知らない(あるいは前世の知識で知っている)怪物が、まだまだ潜んでいるらしい。
「さ、帰ろっか。今日はホシノがお鍋作って待ってるんだ」
五条さんは嬉しそうに歩き出す。
「六花ちゃんも送ってくよ。……あ、ついでに補習のプリント(半ズル休みした時のもの)もあるけど」
「うげっ、現実に引き戻さないでよ!」
冬の風が吹く。
鉛色の空からは、またチラチラと雪が舞い始めていた。
魔都・境港の日常は、今日も異常で、そしてどこか騒がしい。