世界は、残酷なほどに物理法則(ルール)によって閉ざされている。神秘は薄れ、エーテルは枯渇し、人は火を灯すのに呪文ではなくライターを使うようになった。だが、それでも「穴」は存在する。星の裏側、世界の理(コトワリ)を縫い止めるテクスチャの綻び。
極東の島国、鳥取県境港市。通称「魔都」。そこは、現代においてなお、神代の濃度に近いマナが大気に満ちる特異点である。
「……素晴らしい。実に素晴らしい土地だ」
境港を一望できる高台、黒山(くろやま)の頂にて、一人の男が夜風にコートを靡かせていた。ベルンハルト・フォン・アインズワース。魔術協会・時計塔において「異端」と囁かれ、北欧の古き魔術刻印を受け継ぐ魔術師(メイガス)。彼は眼下に広がる街の灯りを見下ろし、恍惚とした表情で指を指揮者のように振るった。
「冬木の汚染された土地など比較にならん。ここには、純粋で強大な『死』と『生』の奔流がある。アラヤもガイアも、この世界には干渉しない。あるのはただ、物理的な自浄作用のみ。*1ならば――私の『理論』で捻じ伏せられる」
彼は懐から、歪な形をした水晶体を取り出した。内部には、ドロドロとした赤黒い泥が渦巻いている。彼が独自に精製した「小聖杯」の雛形。英霊召喚システムなどという借り物の奇跡ではない。この土地に眠る強力な霊脈そのものをリソースとし、強制的に「孔(あな)」を穿つための爆弾だ。
「宣告する(ザッツ)。我が身は礎、我が血は契約。北の果てより来たりし銀の理、今こそ極東の地にて開花せよ」
ベルンハルトが詠唱を紡ぐと共に、彼の周囲に展開された魔術礼装――七つの黒い宝石が共鳴し、光の柱を立ち昇らせる。それは結界の杭(アンカー)だ。境港市全域を覆う、巨大な「認識阻害」と「外部干渉遮断」の大魔術。
「J-GOC? 魔術協会? 下らぬ組織の介入など許さん。この一夜こそが、私が『根源』へと至るための祭壇となるのだからな」
ズズズズズ……。夜空に薄い膜が張られていく。一般人には感知できない、しかし魔を持つ者にとっては窒息しそうなほどの重圧。偽りの聖杯戦争の幕が、静かに、しかし最悪の形で切って落とされた。
◇
2015年、7月下旬。湿った海風が肌にまとわりつく、夏の夜。
「……暑い」
佐藤蓮は、コンビニ袋を提げてため息をついた。袋の中には、溶けかけのアイスキャンディーと、明日の朝食用のパンが入っている。彼は小学六年生だが、その魂は成熟した転生者である。この世界の歪さと危険性を誰よりも理解し、そして誰よりも「平穏」を愛する一般市民だ。
「仕方ないだろう。日本の夏は高温多湿だ。エントロピーが増大している証拠だよ」
隣を歩く銀髪の少女――小鳥遊六花が、袋から取り出したアイス(パピコ)を割りながら言った。彼女もまた、この春から六年生になったばかりだ。彼女の今日の服装は、動きやすい黒のショートパンツに、オーバーサイズのTシャツ。そのあどけない容姿からは想像もつかないが、彼女はこの世界でもトップクラスの「戦闘種族」の血を引いている。
「六花ちゃん、それ溶けるよ」
「問題ない。私の体温調整機能は完璧だ」
六花は片方のアイスを蓮に差し出した。
「ほら、やるよ。蓮は糖分が足りてない顔をしてる」
「……どうも」
二人は、夜の水木しげるロードを歩く。妖怪ブロンズ像が並ぶこの道は、夜になると独特の「気配」を帯びる。だが、今夜のそれは、いつもの妖怪たちの悪戯めいた気配とは違っていた。
ピリリ……。蓮の肌が粟立つ。空気が重い。街灯の明かりが、いつもより赤みを帯びて見える。遠くで聞こえていた波の音が、不自然に遮断されているような静寂。
「……ねえ、六花」
蓮が足を止める。
「なんか、変じゃないか? 人がいない」
まだ夜の九時だ。観光客や、地元の若者がいてもおかしくない時間帯。なのに、通りには人っ子一人いない。まるで、世界から人間だけが間引かれたような。
「……ああ」
六花の瞳孔が収縮する。彼女の「眼」――父・五条悟から受け継いだ六眼の因子と、母・ホシノから受け継いだ神秘の直感が、異常を感知していた。
「結界(バリア)だ。それも、すごく質の悪いやつ」
六花がアイスを食べる手を止め、油断なく周囲を見回す。
「街全体が『異界化』してる。……パパの術式じゃない。もっと古臭くて、カビ臭い魔術の匂いだ」
「魔術……?」
蓮の脳裏に、嫌な単語が過る。魔術師。結界。人払い。それは、彼の知る『Fate』の世界における、聖杯戦争の常套手段だ。
(まさか……この世界で? 英霊なんていないのに?)
カツ、カツ、カツ……。思考を遮るように、足音が響いた。ブロンズ像の影から、一人の男が姿を現す。
時代錯誤な羽織。腰に差した二振りの刀。そして、病的なまでに白い肌と、口元を覆う血の手ぬぐい。
「……すまぬ」
男が呟いた。その声は、肺腑を患った者のように掠れていた。
「辻斬りではないが……斬らねばならぬ。それが、我が主に課された『契約(ゲッシュ)』故に」
男がゆらりと、抜刀の構えを取る。その殺気は、妖怪のそれではない。もっと研ぎ澄まされた、人を殺すためだけに練り上げられた「武」の結晶。
「……蓮、下がって」
六花が前に出る。彼女は食べかけのアイスを蓮に放り投げると、深く腰を落とした。魔力強化(ブースト)。全身の回路に青白い光が走り、筋肉が軋むほどの出力を生み出す。
「来るよ!」
◇
刹那。男の姿が消えた。否、速すぎるのだ。初動の予備動作が一切ない、完全なる「縮地」。
「ッ!」
六花の六眼(偽)が、かろうじてその軌跡を捉える。左下からの逆袈裟。回避は間に合わない。
ガギィン!!
硬質な音が響く。六花は左腕を盾のように掲げ、刃を受け止めていた。斬れていない。彼女の皮膚の表面には、不可視の「神秘(ミステリー)」の膜が張られている。キヴォトスの住人が持つ、銃弾さえ弾く「ヘイローの加護」に近い防御特性を、能動的に一点集中させたのだ。
「ほう……。某(それがし)の刃を、素肌で受けるか」
男――セイバーのクラスを与えられた亡霊は、感情の読めない瞳で六花を見据える。
「だが、重いであろう?」
ズンッ!セイバーが手首を返しただけで、六花の体が後方へ吹き飛ばされた。体重差ではない。剣に乗せられた「技量」と「魔力放出」の質量が違う。
「くっ……!」
六花は空中で身を捻り、アスファルトに着地する。左腕が痺れている。神秘の防御がなければ、骨ごと断たれていただろう。
(……強い。パパみたいなデタラメな出力じゃない。技術(スキル)だけで私のフィジカルを圧倒してる)
六花は瞬時に思考を切り替える。呪力による身体強化だけでは足りない。神秘による防御だけでは押し負ける。ならば――呼吸だ。
スゥゥゥゥ……。
六花は深く、鋭く息を吸い込んだ。肺の細胞を活性化させ、血液中のエネルギー循環を加速させる。波紋の呼吸。先日の大山地下壕で掴んだ、太陽の波動。
「コォォォォォ……!」
六花の体から、微かに黄金色の蒸気が立ち上る。身体能力のリミッターが外れ、感覚が研ぎ澄まされる。
「行くよ、おサムライさん!」
ダンッ!六花が踏み込む。今度は彼女の番だ。呪力で強化した脚力と、波紋で活性化した反射神経のハイブリッド機動。左右にフェイントをかけながら、ジグザグに肉薄する。
「……速いな。だが、直線的だ」
セイバーは動かない。彼は静かに刀を正眼に構え、咳き込んだ。ゴホッ、と血を吐きながらも、その剣先は微動だにしない。
六花が間合いに入った瞬間。セイバーの剣が、ありえない軌道を描いた。
無明三段突き(むみょうさんだんづき)。
壱の突き。弐の突き。参の突き。それらは「ほぼ同時」に放たれた。時空の因果すら歪めるほどの、神速の連撃。喉元、心臓、みぞおち。三つの急所が同時に穿たれる絶技。
(!? かわせない……!)
六花の眼が、三つの死の未来を捉える。防御も間に合わない。薄い無限が中和される。波紋ガードも貫通する鋭さ。
死ぬ。そう直感した瞬間、空間が「ズレ」た。
ピタリ。セイバーの剣先が、六花の皮膚の寸前で静止していた。まるで、透明な壁に阻まれたかのように。いや、そこには「無限の距離」が存在していた。
「――おっと。子供相手に本気出すのは感心しないな、おサムライさん」
軽薄な、しかし絶対的な強者の声が降ってきた。
◇
六花の背後に、長身の男が立っていた。目隠し(アイマスク)をした白髪の男。現代最強の呪術師にして、時計塔の階位「祭位(フェス)」を持つ魔術師。五条悟である。
「パパ!」
「遅れてごめんね、六花。……蓮くんも、アイス溶けちゃって災難だったね」
五条はニカッと笑い、それからセイバーへと向き直った。アイマスク越しの「六眼」が、目の前の亡霊を解析する。
「……なるほど。英霊召喚(サーヴァント・システム)の模倣か。でも、霊基(なかみ)がスカスカだね。英霊の座には繋がってない。君、ただの『強力な地縛霊』を魔術的に改造して、クラスのガワを被せただけの人形だ」
「……化け物か」
セイバーは、自身の絶技を「指一本動かさずに」無効化した男を見て、低く唸った。本能が告げている。勝てない。少なくとも、今の自分では、この男の「無限」には届かない。
「沖田総司……だね? その羽織と、病的な剣技」
五条が首を傾げる。
「実在の沖田くんは、随分と男臭いんだね。もっと美少女かと思ってたよ」
「……某の名を知るか」
セイバー――沖田総司の亡霊は、皮肉げに笑った。
「美少女などと……買いかぶりだ。某はただの、人斬りよ」
セイバーは刀を納めた。戦意を失ったわけではない。勝機のない戦いを避け、主の命令を優先するための戦略的撤退だ。
「……興が削がれた。退かせてもらう」
セイバーの体が、青い粒子となって霧散していく。霊体化。
「あ、逃げるの? 待ちなよ」
五条が指を弾こうとするが、セイバーの消滅速度の方が速かった。あるいは、この街に張られた結界が、彼の逃走を支援したのかもしれない。
「……チッ。逃げ足は速いね」
五条は舌打ちし、結界の天井を見上げた。
「それにしても……ムカつくねぇ。僕のナワバリで、勝手に『聖杯戦争ごっこ』なんて始めやがって」
◇
その時だった。夜空に、巨大な魔法陣のような紋様が浮かび上がった。そして、街全体に響き渡るような、魔術的な放送(テレパシー)が脳内に直接語りかけてきた。
『喜べ、極東の民よ。そして魔を志す者たちよ』
朗々とした、傲慢な男の声。ベルンハルトの声だ。
『これより、聖杯戦争の儀を行う。ルールは単純。街に放たれた七騎のサーヴァントを屠り、その魂を聖杯に捧げよ。最後の一騎となった者には、万能の願望機を与えよう』
「聖杯戦争……やっぱりか」
蓮が頭を抱える。
「勘弁してくれよ……。俺はただの小学生だぞ……」
『なお、この領域は既に外界から隔絶されている。魔術協会も、J-GOCも、助けには来ない。逃げ場はないと思え。生き残りたくば、恐怖と魂を捧げよ』
放送が途切れると同時に、遠くの方角――港や黒山の方から、爆発音や異様な魔力の光が上がり始めた。他の「偽サーヴァント」たちも、行動を開始したのだ。
「……やれやれ」
五条は首をポキポキと鳴らした。
「聞いた? 『外界から隔絶』だってさ」
「つまり、J-GOCの支援はなし?」
六花が問う。
「そゆこと。……まあ、あそこの支部にいる八雲さんあたりは、今頃カンカンになって結界破ろうとしてるだろうけど。外から壊すには時間がかかりそうだ」
五条の周囲の空気が、ピリリと張り詰める。彼の顔から柔和さが消え、魔術師としての冷徹さが浮かび上がっていた。
「僕はね、時計塔の『祭位(フェス)』なんだよ。一応ね。こういう、流儀(マナー)のなってない三流魔術師が、僕の庭を荒らすのが一番許せない」
彼は蓮と六花を見た。
「帰ろう、二人とも。ホシノが待ってる。作戦会議だ。……今夜中に、このふざけたお祭りを終わらせるよ」
魔都・境港の夜が、赤く染まっていく。英霊なき聖杯戦争。抑止力なき殺し合い。それは、Fateの物語よりも遥かに生々しく、泥臭い戦いの始まりだった。