黒山山頂。かつて静謐な霊地(※動物が寄り付かないので)であったその場所は、今やこの世の地獄(※元からです)と化していた。
ズズズズズ……! 不快な音を立てて膨れ上がる、黒い泥。それは単なる物質ではない。境港という土地に蓄積された数十年の「澱(おり)」、そして無理やり霊脈から引き剥がされた七騎の偽サーヴァントたちの「無念」が、高濃度に圧縮された呪いの奔流だった。
「グオオオオォォォォ……!!」
泥は形を成し、天を衝くごとき巨人の姿へと変貌していた。高さ五十メートル超。不定形の腕が周囲の木々をなぎ倒し、口とおぼしき空洞からは、焼けつくような瘴気が吐き出される。その巨人の胸部、心臓にあたる位置に、半ば取り込まれる形でベルンハルト・フォン・アインズワースが埋まっていた。
「素晴らしい……! これが、私が到達した『真理』の姿か!」
ベルンハルトは狂喜していた。彼の目には、周囲の惨状が見えていない。泥の侵食による激痛さえも、根源へと至るための通過儀礼(イニシエーション)だと誤認していた。
「見よ! この圧倒的な魔力質量! これこそが『第三魔法』の亜種、魂の物質化への第一歩だ!」
眼下の地面で、佐藤蓮が叫んだ言葉――「型月世界」「冬木」「アンリマユ」――など、彼にとっては意味不明な雑音でしかなかった。
「冬木? アンリマユ? 何を訳の分からぬことを! これは私の理論だ! アインズワースの悲願なのだ! 過去の遺物や他所の魔術体系など知ったことか!」
ベルンハルトは杖を振るう。泥の巨人が呼応し、その巨大な腕を振り上げた。標的は、空中に浮かぶ二つの点――五条悟と小鳥遊六花、そして地上で蟻のように見える小鳥遊ホシノと佐藤蓮だ。
「消え失せろ、凡愚ども! 私の儀式(レクイエム)の邪魔をするなァァァ!!」
ドォォォォン!! 巨人の拳が、黒山の中腹を直撃した。衝撃波が広がり、土砂崩れが発生する。その破壊力は、対艦ミサイルの直撃にも匹敵していた。
「うわぁぁぁぁ!!」
蓮が悲鳴を上げ、木の陰に飛び込む。降り注ぐ岩石と、腐食性の泥しぶき。触れれば肉が溶け、魂が汚染される致死の雨だ。
「蓮くん、下がってて!」
ピンク髪の女性――小鳥遊ホシノが、巨大なライオットシールド(神秘礼装)を展開し、蓮の前に立ちはだかった。ジュッ、ジュワァァァ……! 泥の雨が盾に降り注ぐ。通常の物質なら瞬時に溶解するほどの強酸性呪詛。だが、ホシノの頭上に輝く光輪(ヘイロー)は、その一切を拒絶していた。
「うへぇ、きついね~。これ、ただの泥じゃないよ。『概念的な重さ』がある。……『色彩』に近いかも」
「色彩……!?」
蓮が戦慄する。それは、ホシノの世界における最大級の脅威の一つだ。この泥は、それと同質の「世界を侵食する異物」と化しているのか。
「ホシノさん、大丈夫ですか!? あの量、支えきれますか!?」
「んー、正直めんどくさいけど……。旦那と六花が片付けるまで、ここは通さないよ」
ホシノは盾を地面に突き立て、ショットガンを構えた。
「蓮くん。君は見てて。……これが、『最強』の家族の戦いだよ」
黒山山頂から上空二百メートル。五条悟は、あぐらをかいたまま浮遊していた。その隣には、呪力で身体強化し、ふらつきながら浮遊する小鳥遊六花の姿があった。
「パパ、あれどうするの? 再生速度が速すぎる。私の波紋パンチじゃ、表面を焼くのが精一杯だよ」
「そうだね。あれはもう生物じゃない。境港の『負の遺産』が具現化した、巨大な呪いの塊だ。物理攻撃も、生半可な魔術も、全部飲み込んで大きくなるだけさ」
五条は淡々と解説する。それは、戦場のただ中とは思えないほど落ち着いた、授業のような口調だった。
「六花。あいつを倒すには、核(コア)ごと消し飛ばす必要がある。でも、ただ消し飛ばすだけじゃダメだ。あの泥は、飛び散ると周囲を汚染する。だから、『吸い込みながら消す』と同時に、『浄化』しなきゃいけない」
「……吸い込みながら、浄化?」
六花が首をかしげる。高度な術式操作が必要だ。五条の「茈(むらさき)」なら質量ごと消せるが、呪いの残滓(浄化しきれない穢れ)が雨となって街に降る可能性がある。それを防ぐには、対消滅の瞬間に「正のエネルギー」を流し込み、呪いを中和する必要がある。
「僕一人でもできるけどさ」
五条はニカッと笑い、六花の頭をポンと撫でた。
「せっかくだから、六花にも手伝ってもらおうかなって」
「私に?」
「うん。六花、さっき覚えた『波紋』。あれは太陽のエネルギーだろ? 呪霊や吸血鬼にとっての猛毒。つまり、最強の浄化作用だ。僕が巨人の防御をこじ開けて、核を露出させる。そこに、六花の最大出力の波紋を叩き込むんだ。そして最後は、僕の『虚式』で全部持っていく」
「……わかった!」
六花の瞳に、覚悟の光が宿る。彼女は深く息を吸い込んだ。スゥゥゥゥ……。上空の希薄な酸素を、肺の細胞一つ一つに行き渡らせる。心臓の鼓動が早まる。血液が沸騰するような熱さ。
「準備はいいかい? ……課外授業、最終試験だ」
「小賢しい蝿どもがァァァ!!」
ベルンハルトが絶叫する。泥の巨人が、その腕を鞭のようにしならせ、上空の二人を襲った。数万トンの質量攻撃。回避不能の広範囲爆撃。
「邪魔だね」
五条は指先一つ動かさない。巨人の腕は、二人の数メートル手前で「無限」に阻まれ、霧散した。
「な、なんだその障壁は……! 我が魔術を無効化するなど……!」
「魔術じゃないよ。現実(リアル)さ」
五条が右手を掲げる。
「術式順転・『蒼』」
五条の指先に、ブラックホールのような引力が発生する。彼はそれを、巨人の胸部――ベルンハルトが埋まっている位置に向けて射出した。ギュオオオオオン!! 空間がねじ切れる音。「蒼」は巨人の泥を次々と吸い込み、胸部に巨大な風穴を開けた。再生しようと蠢く泥の壁を、圧倒的な引力が押し留める。
「ぐ、がぁぁぁぁ!?」
ベルンハルトが悲鳴を上げる。彼の周囲の泥が削ぎ落とされ、その身が外気に晒される。
「今だ、六花!!」
「はいっ!!」
六花が跳んだ。五条が作った「引力のトンネル」の中を、弾丸となって突き進む。彼女の全身から、黄金色のオーラが噴き出していた。波紋の呼吸・最大出力。フィジカルギフテッドの全身体能力を乗せた、捨て身の特攻。
「コォォォォォォォォッ!!」
六花の姿が、一筋の流星に見えた。彼女は右拳を振りかぶり、ベルンハルトの目の前まで肉薄した。
「ひぃっ……来るな、来るなァァァ!!」
魔術師が恐怖に顔を歪める。
「震えるぞハート! 燃え尽きるほどヒート!!」
六花が叫ぶ。その拳が、黄金の光を纏って輝く。
「刻め、血液のビート!! 山吹き色の波紋疾走(サンライトイエロー・オーバードライブ)!!!!」
ドゴォォォォォォォォン!!!! 六花の拳が、ベルンハルトの障壁ごと、巨人の核(小聖杯の残骸)を打ち砕いた。炸裂する太陽の波動。それは物理的な破壊力だけでなく、泥に含まれる「呪い」を連鎖的に浄化していった。黒い泥が、金色の光に焼かれ、白煙となって昇華していく。
「馬鹿な……私の……根源が……!!」
ベルンハルトが白目を剥き、意識を失う。六花は反動で吹き飛ばされるが、空中で体勢を立て直した。
「パパ! やったよ!」
「うん、満点だ」
五条が、六花のさらに上空で印を結んでいた。浄化されたとはいえ、巨人の質量はまだ残っている。これを完全に消滅させるための、最後の一撃。
「術式反転『赫』。術式順転『蒼』」
二つの無限を衝突させる。生まれるのは、仮想の質量。
「虚式・『茈(むらさき)』」
カッッッ!! 世界から音が消えた。紫色の閃光が、黒山山頂を貫いた。泥の巨人、ベルンハルトの儀式場、そして空を覆っていた結界。その全てが、原子レベルで分解され、虚空の彼方へと消え去った。
静寂が戻った。黒山の山頂は、綺麗さっぱりと吹き飛び、巨大なクレーターだけが残されていた。夜空には、結界が消えたことで、満点の星空が広がっている。
「……終わった」
蓮は、ホシノの盾の陰から顔を出した。足の震えが止まらない。目の前で起きた「神話級の戦い」に、魂が圧倒されていた。
「うへぇ、派手にやったね~。これ、事後処理が大変そうだね。八雲さんに請求書回しておこうか」
空から、五条と六花が降りてくる。六花は五条に抱きかかえられていた。波紋の使いすぎで、完全に脱力しているようだ。
「……パパ、眠い」
「うん、よくやったよ。帰ったらご馳走だ」
五条は優しく娘の頭を撫でた。クレーターの中心。そこには、全身の魔術回路を焼き切られ、廃人のようになったベルンハルトが転がっていた。彼はうわ言のように呟いていた。
「……なぜだ……計算は……完璧だった……」
「計算が間違ってたんじゃないよ」
五条が冷たく見下ろす。
「場所が悪かったんだ。……ここじゃ、僕らがルールだからね」
バサバサバサ……。ヘリコプターの音が近づいてくる。J-GOCの特殊部隊だ。結界の消滅を確認し、回収に来たのだろう。
「あとはプロに任せようか。帰ろう、みんな。……アイス、買い直さないとね」
翌朝。境港は、何事もなかったかのように朝を迎えた。ニュースでは「昨夜、局地的な雷雨と土砂崩れが発生」と報じられていた。魔術的な隠蔽工作(カバーストーリー)は完璧だ。五条家のリビング。蓮は、六花と一緒に宿題を広げていた。
「……ねえ六花。昨日のこと、覚えてる?」
「ん? 何のこと? 私はただ、パパと夜の散歩をしただけだよ。……ちょっと変なオジサンと喧嘩したけど」
「喧嘩ってレベルじゃなかっただろ……」
蓮は苦笑いする。彼女の中では、あれも「日常の延長」なのかもしれない。テレビには、逮捕されたベルンハルトらしき男のニュースが流れていた。『自称・魔術師の男を、不法侵入と器物損壊の疑いで逮捕。男は意味不明な供述を繰り返しており……』
「……自称・魔術師か」
蓮は窓の外を見る。真夏の青空。入道雲。セミの声がうるさいほどに響いている。この世界には、英霊はいない。抑止力も、根源への道もないかもしれない。けれど、ここには「彼ら」がいる。最強の呪術師と、神秘の乙女と、フィジカルギフテッドの少女。
「(……ま、退屈はしないな)」
蓮はアイス(パピコ)を口に咥え、数学のドリルに向き直った。彼の「偽典聖杯戦争」は終わった。しかし、転生者としての、そしてこのカオスな世界での生活は、まだまだ続いていくのだ。
「あ、蓮。その問題間違ってる」
「えっ、マジで?」
「ここ、因数分解だよ」
「うわぁぁぁ、やり直しだぁぁぁ!!」
平和な悲鳴が、五条家に響き渡る。魔都・境港の夏休みは、まだ始まったばかりである。