2015年、9月1日。始業式。長い夏休みが終わり、境港の街にはしとしとと冷たい雨が降っていた。日本海から吹き付ける風は、夏の熱気を洗い流すと同時に、どこか物悲しい秋の気配を運んでくる。
境港駅のバス停に、一人の男が降り立った。黒いスーツに、黒いネクタイ。左手には黒い革手袋をしている。鵺野鳴介(ぬえの めいすけ)。通称、地獄先生ぬ~べ~。彼は境第2小学校の教師であり、日本で唯一(というわけではない)の霊能力教師である。
「……ふぅ。帰ってきたか」
鵺野は大きく息を吐き、濡れた前髪をかき上げた。彼の手には、一束の鬼灯(ほおずき)と、線香の香りが微かに残っていた。彼は昨日まで、地方のとある山間部──夜見山(よみやま)に行っていたのだ。夜見山北中学校。三年三組。かつて彼が赴任し、そして……一人の生徒を救えなかった場所。
『先生。……さようなら』
脳裏にフラッシュバックする、ガラスの割れる音。赤く染まった教室。妖怪でも悪霊でもない、「現象」と呼ばれる理不尽なルールの前に、霊能力者である彼は無力だった。あれから数年。PTSD(心的外傷後ストレス障害)としての震えやパニックは、専門の治療と時間によって克服した。だが、この時期──九月の新学期になると、どうしても心が沈む。メランコリー。古傷が痛むような、鈍い憂鬱。
「……しっかりしろ、俺。ここは夜見山じゃない。境港だ」
鵺野は自分に言い聞かせるように呟き、喪服のネクタイを緩めた。彼はポケットからいつもの赤いネクタイを取り出し、締め直す。ここには、守るべき生徒たちがいる。六年生になったばかりの、元気で、少しばかり手のかかる子供たちが。鵺野は傘を開き、雨に煙る水木しげるロードを歩き出した。妖怪ブロンズ像たちが、雨に濡れて彼を見送っているようだった。
境第2小学校、六年三組の教室。始業式のホームルームが始まろうとしていた。久しぶりに顔を合わせる生徒たちは、夏休みの思い出話に花を咲かせている。
「おっはよー! 宿題やったー?」
「マジ無理。あとで写させて」
「ねえねえ、黒山の方でなんかすごい雷あったよね?」
「自衛隊の演習だってさー」
平和な喧騒。鵺野は教壇に立ち、出席簿を開いた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。ザワッ……。霊感ではない。もっと本能的な、生物としての警鐘。教室の空気が、ほんの少しだけ「重い」。湿度のせいだろうか。それとも、自分の精神状態のせいだろうか。
「……出席を取るぞー。席につけ」
鵺野は努めて明るい声を出した。生徒たちが席につく。教壇から見渡す景色。一番前の席には、佐藤蓮(さとう れん)がいる。転生者であり、精神年齢の高い彼は、心配そうな目でこちらを見ていた。窓側の席には、小鳥遊六花(たかなし りっか)がいる。彼女は今日、サングラスをかけていた。黒いレンズの奥の瞳は読めないが、その態度はいつも通り気怠げで、窓の外の雨を眺めている。
「(……サングラス? まあ、あの子の家庭事情なら仕方ないか)」
六花の父は、あの五条悟だ。彼女自身も特殊な「眼」を持っているため、視覚情報を遮断するためにサングラスをしているのだろう。校則違反だが、鵺野は黙認していた。問題は、そこではない。鵺野の視線が、教室の後ろ側へと流れる。
「……?」
人数が多い気がする。六年三組の在籍数は、三十名だ。机の配置は、横五列、縦六列。ぴったり三十セットのはずだ。だが、一番後ろの列。窓際から三番目。そこに、もう一つ机があるような気がした。いや、物理的にはない。三十脚しかない。だが、「誰かが座っている」という気配の密度が、三十一人分ある。
「(……疲れているのか?)」
鵺野は眉間を揉んだ。夜見山の「現象」──通称『あるクラスのルール』。それは、死者が一人、生者に紛れ込むという呪いだ。死者自身も自分が死んでいることに気づかず、周囲の記憶や記録も改竄され、誰も「増えている」ことに気づかない。そして、その歪みを正すために、毎月誰かが死ぬ。
「(馬鹿な。あれは夜見山だけの風土病みたいなものだ。それに呪いは止まったはずだ)」
鵺野は首を振り、出席を取り始めた。一人、また一人と名前を呼ぶ。全員がいる。欠席者はいない。増えてもいない。……はずだ。
「先生、どうしたの? 顔色悪いよ」
最前列の蓮が、小声で尋ねてきた。鵺野はハッとして、作り笑いを浮かべた。
「あ、ああ。何でもないぞ佐藤。ちょっと寝不足でな……ハハハ」
乾いた笑い声が、教室に吸い込まれていく。その時。ドンッ!! 窓ガラスに、何かが激突した。濡れた羽毛の塊。スズメだ。雨に濡れて飛行能力が低下したスズメが、窓ガラスにぶつかって落ちていったのだ。
「ひぃっ!?」
鵺野は過剰に反応し、チョークを粉々に握り潰してしまった。白い粉が舞う。教室が静まり返る。
「……せ、先生?」
生徒たちが不安そうに見つめる。鵺野は震える手を隠すように背中に回した。
「す、すまん! びっくりしただけだ! ……よし、ホームルーム終わり! 一時間目は国語だ!」
鵺野は逃げるように教科書を開いた。だが、彼の左手──鬼の手は、手袋の中で熱く脈動していた。何かがいる。この教室に、招かれざる「異物」が。
放課後。雨はまだ降り続いていた。職員室で、鵺野は一人、名簿と睨めっこをしていた。
「(……三十人。何度数えても三十人だ。記録は正しい)」
だが、夜見山の現象は記録すら改竄する。名簿自体が書き換わっている可能性は否定できない。
「(もし、始まっているとしたら……。俺はまた、生徒を死なせるのか?)」
ズキリ、と胃が痛む。霊能力者として妖怪と戦うことは怖くない。だが、「現象」は戦う相手がいない。それは自然災害のような、理不尽な死の運命だ。鬼の手で切り裂くことも、お経で浄化することもできない。
「お疲れ、鵺野センセ」
不意に、背後から声をかけられた。鵺野が振り返ると、そこに長身の男が立っていた。丸いサングラスをかけ、仕立ての良いシャツを着崩した白髪の男。手には、長い木箱を持っている。五条悟(ごじょう さとる)。境港の商店街にある「五条骨董店」の店主であり、六花の父親だ。そして、この世界における呪術界の頂点に立つ男。
「ご、五条さん……。どうしたんですか、こんな雨の日に」
鵺野は立ち上がり、頭を下げた。彼は五条の正体(呪術高専群の名誉講師)を知っている。鵺野自身もプロの霊能力者だが、五条の持つ「出力」と「権限」は桁違いだ。ある意味、同業者としての敬意と、少しの畏怖を抱いている。
「んー? これこれ。頼まれてた社会科の教材」
五条は木箱をデスクに置いた。中には、錆びついた火縄銃が入っていた。
「戦国時代のやつ。もちろん模造品だし、火薬も抜いてあるから安全だよ。骨董屋の在庫整理ついでに寄贈しに来たわけ」
「ああ、そういえば……ありがとうございます。助かります」
鵺野は礼を言ったが、その表情は晴れない。五条はサングラスを少しずらし、蒼い瞳(六眼)で鵺野を覗き込んだ。
「……で? 随分と参ってるみたいじゃん。顔色、土気色だよ? なんか変なもんでも拾ってきた?」
その口調は軽い。原作のような若者言葉ほどではないが、教師に対する敬語というよりは、対等な友人に対するタメ口に近い。この世界の五条は、三十代後半の鵺野に対しても、年下の「先輩」のような距離感で接してくる。
「……分かりますか」
鵺野は観念したように息を吐いた。この男の眼を誤魔化すことはできない。
「実は……昨日まで、昔の教え子の墓参りに行っていたんです。夜見山という場所へ」
「ああ、あの『現象』の?」
五条は知っていた。呪術高専の情報網は、日本中の怪異データを網羅している。
「はい。……それで、帰ってきてから、どうも調子がおかしいんです。教室の人数が、合わない気がして……」
鵺野は、すがるような思いで五条を見た。
「五条さん。貴方の眼なら、視えるはずだ。……私のクラスに、『死者』は混ざっていませんか? 現象が、私についてきたんじゃないですか?」
深刻な問い。もし答えがイエスなら、鵺野は今すぐ学校を封鎖し、対策を講じなければならない。五条はふむ、と顎に手を当て、職員室の窓から六年三組の教室がある校舎を見上げた。六眼が、雨越しの呪力残滓を解析する。
「……んー。鵺野センセ、安心していいよ。夜見山の呪いは、ここにはない」
五条はあっさりと断言した。
「ほ、本当ですか!?」
「うん。あの現象は、夜見山っていう土地の因縁と、学校というシステムがバグを起こして生まれる特異点だ。ウィルスみたいに付着して移動するものじゃないよ。君のクラスは、霊的な意味ではクリーンだ。……まあ、若干賑やかだけどね」
五条は意味深にニヤリと笑った。
「賑やか……?」
「そ。だから、心配しすぎないこと。センセが不安がってると、生徒にも伝染るよ? 特に、ウチの六花とか、蓮くんあたりは敏感だからさ。ま、何かあったら僕も協力するからさ。今日は早く帰って寝なよ。美味しい日本酒でも差し入れようか?」
「いえ、お酒は……。でも、ありがとうございます。少し安心しました」
鵺野は深々と頭を下げた。最強の術師が「ない」と言ったのだ。間違いはないはずだ。五条は手を振りながら職員室を出て行った。鵺野はその背中を見送りながら、胸のつかえが少し取れたような気がした。
……だが。五条は嘘は言っていないが、「全て」を言ったわけではなかった。彼は廊下を歩きながら、独り言ちた。
「(ま、死者はいないけど……『生きてないやつ』はいるね。鵺野センセ、真面目すぎ。自分の力で見つけなきゃ意味ないでしょ、こういうのは)」
翌日。九月二日。雨は上がったが、空はまだ重い雲に覆われている。一時間目の授業中。鵺野は黒板に歴史の年号を書きながら、背中に視線を感じていた。五条の言葉で安心したはずだった。だが、違和感は消えない。
誰かが、見ている。三十人の生徒以外の、誰かが。
「(……五条さんは『死者はいない』と言った。だが、『賑やかだ』とも言った。あれはどういう意味だ? 俺には見えていない何かがいるのか?)」
鵺野は振り返り、教室を見渡した。視線が、小鳥遊六花のところで止まる。彼女は今日もサングラスをかけていた。授業中だというのに、肘をついて気怠そうにしている。
「(……六花。彼女は五条さんの娘だ。特殊な眼を持っている。もしや、彼女は何かを『視て』いて、それを隠すためにサングラスをしているのか?)」
疑心暗鬼。一度芽生えた疑念は、雑草のように広がる。夜見山の現象では、記憶や認識が改竄される。もしかしたら、六花こそが……いや、蓮か? それとも、いつも元気な中島か?
「……小鳥遊」
鵺野は思わず声をかけた。
「……ん。なに、先生」
六花はサングラスを少しずらし、露わになった蒼い瞳で鵺野を見た。その瞳は澄んでいて、底知れない深さがある。
「……いや。そのサングラス、見にくくないかと思ってな」
「別に。……光が眩しいだけ」
六花は素っ気なく答えて、またサングラスを戻した。嘘をついているようには見えない。だが、彼女の隣の席──今は空席になっているはずの空間に、彼女が一瞬だけ目を向けたのを、鵺野は見逃さなかった。
「(……そこか? そこに、いるのか?)」
鵺野の心臓が早まる。教室の後ろ。窓際から三番目。六花の隣。蓮の後ろ。そこは、誰も座っていないはずの空席だ。だが、そこには確かに「重み」がある。
放課後。生徒たちが帰宅の支度をする中、鵺野は決意した。今日こそ、正体を暴く。もしそれが、生徒たちを脅かす「現象」の予兆なら、俺の手で終わらせなければならない。
「みんな、気をつけて帰れよー」
生徒たちが教室を出ていく。六花と蓮も、ランドセルを背負って廊下へ消えた。教室には、鵺野一人だけが残された。……いいや。一人ではない。
夕闇が迫る教室。薄暗がりの中で、一番後ろの席に、小さな影が座っていた。
「(見つけた……!)」
鵺野は、震える手で左手の手袋を掴んだ。鬼の手。地獄の鬼を封じ込めた、最強の霊的武装。これを使えば、どんな悪霊も、どんな呪いも断ち切れる。
「……誰だ。そこで何をしている」
鵺野は低く問いかけた。影は答えない。ただ、じっと黒板の方を見つめている。おかっぱ頭の、着物を着た子供のようにも見える。
「(生徒じゃない。この時代の子供の服装じゃない。やはり……死者か! 夜見山からついてきた、浮遊霊か!)」
鵺野の脳内で、トラウマが警報を鳴らす。これを放置すれば、明日にも生徒が死ぬかもしれない。ガラスが割れる。階段から落ちる。心臓発作が起きる。そんな理不尽を、二度と許してはならない。
「悪く思うな……!!」
バリィッ!! 鵺野は手袋を引き裂いた。露わになったのは、赤黒く変色し、異形の爪を持つ、恐ろしい鬼の手。
「宇宙天地、与我力量……!!」
鵺野は呪文を唱え、鬼の手を構えた。殺すのではない。浄化するのだ。強制的に成仏させ、死の世界へ還す。それが、教師としての俺の責務だ!
「ハァァァァッ!!」
鵺野が床を蹴り、影に向かって跳躍した。鋭い爪が、子供の影を切り裂こうとした、その瞬間。
「──ストップ」
乾いた声と共に、鵺野の体が空中で静止した。赤黒く脈動する鬼の手が、空中でピタリと止まっていた。彼の目の前には、薄暗い教室の隅に座る「子供の影」。その影と、鵺野の爪の間には、見えない壁が存在していた。まるで、アキレスと亀のパラドックスのように、無限の距離がそこにあるかのようだ。
「……な、なんだこれは!?」
鵺野が驚愕の声を上げる。全力を込めているはずなのに、あと数センチが届かない。教室の入り口に、いつの間にか男が立っていた。五条悟。彼はサングラスを指先で押し上げ、蒼い瞳(六眼)を露わにしていた。その瞳は、宇宙のように深く、すべてを見透かしている。
「ご、五条さん!? 邪魔をしないでくれ!」
鵺野は叫んだ。額から脂汗が流れる。
「こいつは『死者』だ! 夜見山の呪いだ! 今すぐ還さなければ、また生徒が死ぬ! ガラスが割れて、階段から落ちて、理不尽な死がクラスを襲うんだ!」
トラウマが鵺野を突き動かしている。彼の脳裏には、まだあの時のサイレンの音と、生徒たちの悲鳴が響いているのだ。
「……ふぅ」
五条は小さくため息をつき、ゆっくりと鵺野に歩み寄った。彼は鵺野の肩に手を置いた。その瞬間、鵺野の全身から力が抜けた。強制的な鎮静。五条の呪力が、鵺野の荒ぶる霊気を中和したのだ。
「落ち着いて。……よく見て。恐怖という色眼鏡を外して。その眼で、ちゃんと『生徒』を見るんだ」
「生徒……?」
鵺野は荒い息を整え、再び影の方を見た。五条が指をパチンと鳴らす。教室の照明が点灯した。蛍光灯の白い光が、教室の隅を照らす。そこにいたのは、青白い顔をした亡霊でも、血塗れの死体でもなかった。おかっぱ頭に、古い絣(かすり)の着物。あどけない顔をした、五歳くらいの子供。その子は、鵺野と五条を見て、キャハハと無邪気に笑った。
「……え?」
鵺野の思考が停止した。霊気を感じる。だが、それは夜見山の澱んだ死の気配ではない。もっと純粋で、清らかな……。
「座敷童子(ざしきわらし)だよ」
五条が子供の頭を撫でながら言った。
「この辺の古い蔵に住み着いてたみたいなんだけど、最近寂しかったみたいでね。鵺野センセのクラスが楽しそうだから、釣られて遊びに来ちゃったみたい」
「ざ、座敷童子……?」
鵺野はその場にへたり込んだ。鬼の手が、元の人の手へと戻っていく。
「じゃあ……死者じゃない? 現象じゃないのか?」
「うん。むしろ逆だね。座敷童子は『福』を呼ぶ妖怪だ。この子がいついている間は、六年三組は安泰だよ。テストの平均点も上がるかもね」
五条は笑って、座敷童子に「ねー?」と同意を求めた。童子はコクコクと頷き、机の上にあった六花の教科書(置き勉)をパラパラと捲って遊んでいる。
「……なんだ。そうか。……そうだったのか」
鵺野は両手で顔を覆った。安堵と、脱力感と、そして自分への情けなさで、涙が滲んだ。
夜の屋上。雨上がりの空には、綺麗な月が出ていた。鵺野はフェンスに寄りかかり、缶コーヒーを握りしめていた。隣には、同じくコーヒー(微糖)を飲む五条がいる。
「……恥ずかしい限りです」
鵺野がポツリと言った。
「私は教師でありながら、生徒を信じられなかった。あの子が妖怪だと見抜けず、ただ過去の恐怖に囚われて、排除しようとした……」
彼はコーヒーのプルタブを開ける気力もなく、うつむいた。
「もし五条さんが止めてくれなかったら、私は……何の罪もない座敷童子を切り裂いて、クラスの守り神を殺すところでした」
「まあ、そうかもね」
五条は空を見上げたまま、淡々と答えた。
「でも、仕方ないよ。先生はそれだけ、夜見山の生徒たちのことを想っていたんでしょ? 救えなかった悔しさが、恐怖に変わっていただけだ」
五条はサングラスを少しずらし、鵺野を見た。その瞳は、いつもの軽薄な色は消え、深く、静かな光を宿していた。
「僕もね。……救えなかった生徒はいるよ」
「えっ? 五条さんが……ですか?」
鵺野は驚いた。最強の術師に、そんな過去があるとは思えなかったからだ。
「うん。理不尽な死なんて、この世界にはいくらでも転がってる。僕がどれだけ強くても、全部の手は届かない。……北海道でも、沖縄でもね」
五条は少しだけ寂しそうに笑った。それは、鵺野が初めて見る「大人」の顔だった。
「でもさ。だからこそ、僕らは『今』を見なきゃいけない。死んだ子を想うのは大事だけど、それに縛られて、今生きてる六花や蓮くんたちの笑顔を見逃しちゃったら、本末転倒でしょ?」
五条はコーヒーを一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。カラン、と乾いた音が響く。
「昨日、僕は言ったよね。『教室は賑やかだ』って。あれは、座敷童子がいて、六花たちがいて、みんなが楽しそうにしているって意味だよ。……先生のクラス、いいクラスじゃん」
鵺野はハッとして、五条を見た。五条はニカッと笑い、サムズアップしてみせた。
「胸張りなよ、地獄先生。君は、ちゃんと生徒を守ってるよ」
「……っ」
鵺野は目頭を熱くさせながら、コーヒーを開けて一口飲んだ。苦くて、甘い味がした。
「……ありがとうございます、五条さん。貴方は……本当に、いい先生ですね」
「んー? 僕はただの骨董屋のお兄さんだよー」
五条は照れ隠しのように肩をすくめた。
翌日。六年三組の教室は、いつもの喧騒に包まれていた。鵺野が教室に入ると、生徒たちが一斉に席につく。
「起立! 礼!」
「おはようございまーす!」
元気な挨拶。鵺野は教壇に立ち、教室を見渡した。三十人の生徒たち。そして、一番後ろの席には──やはり、誰も座っていない。だが、鵺野には見えていた。ちょこんと座り、興味津々にこちらを見ている座敷童子の姿が。
「よし! 今日も元気だな!」
鵺野は満面の笑みで言った。その表情からは、昨日の陰鬱な影は消え去っていた。
「今日のホームルームは、特別授業だ! 『妖怪との共存』について話すぞ! 妖怪は怖いだけじゃない。人間と仲良くなれるやつもいるんだ。例えば……」
鵺野は黒板に『座敷童子』と大きく書いた。生徒たちが「知ってるー!」「家に出たらお金持ちになれるんでしょ?」と口々に叫ぶ。一番前の席で、佐藤蓮が小さく笑った。
「……先生、元気になったな」
「うん。昨日のパパの説教が効いたみたい」
隣の席の六花が、サングラス越しに答えた。彼女は頬杖をつきながら、座敷童子の方を見ていた。
「……六花ちゃん気づいてたんでしょ? 座敷童子のこと」
「当然。私の眼なら、最初から丸見えだったよ」
「なら、先生に教えてあげれば良かったのに」
「だって」
六花はサングラスを少しずらし、いたずらっぽく笑った。
「先生が必死になってるの、なんか面白かったし。それに……あの子、悪い子じゃないから。教える必要ないかなって」
「……君さあ」
蓮は呆れつつも、六花らしい判断だと納得した。この世界では、妖怪も呪いも日常茶飯事だ。いちいち騒いでいたら身が持たない。
「ま、先生が受け入れたなら、それでいいや」
蓮は教科書を開いた。教室の後ろ。座敷童子は、鵺野の話をうんうんと頷きながら聞いていた。時折、六花の方を見て、ニコッと笑う。六花もまた、サングラスの奥で小さく微笑み返した。
夜見山の呪いは、ここにはない。あるのは、妖怪と人間、そして最強の術師の娘と転生者が織りなす、賑やかで奇妙な日常だけだ。鵺野鳴介の鬼の手は、今は静かに眠っている。生徒を守るための剣として、再び抜くその時まで。