仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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035 夜見山の残響と、増えた教室

 

 2015年、9月1日。始業式。長い夏休みが終わり、境港の街にはしとしとと冷たい雨が降っていた。日本海から吹き付ける風は、夏の熱気を洗い流すと同時に、どこか物悲しい秋の気配を運んでくる。

 

 境港駅のバス停に、一人の男が降り立った。黒いスーツに、黒いネクタイ。左手には黒い革手袋をしている。鵺野鳴介(ぬえの めいすけ)。通称、地獄先生ぬ~べ~。彼は境第2小学校の教師であり、日本で唯一(というわけではない)の霊能力教師である。

 

「……ふぅ。帰ってきたか」

 

 鵺野は大きく息を吐き、濡れた前髪をかき上げた。彼の手には、一束の鬼灯(ほおずき)と、線香の香りが微かに残っていた。彼は昨日まで、地方のとある山間部──夜見山(よみやま)に行っていたのだ。夜見山北中学校。三年三組。かつて彼が赴任し、そして……一人の生徒を救えなかった場所。

 

『先生。……さようなら』

 

 脳裏にフラッシュバックする、ガラスの割れる音。赤く染まった教室。妖怪でも悪霊でもない、「現象」と呼ばれる理不尽なルールの前に、霊能力者である彼は無力だった。あれから数年。PTSD(心的外傷後ストレス障害)としての震えやパニックは、専門の治療と時間によって克服した。だが、この時期──九月の新学期になると、どうしても心が沈む。メランコリー。古傷が痛むような、鈍い憂鬱。

 

「……しっかりしろ、俺。ここは夜見山じゃない。境港だ」

 

 鵺野は自分に言い聞かせるように呟き、喪服のネクタイを緩めた。彼はポケットからいつもの赤いネクタイを取り出し、締め直す。ここには、守るべき生徒たちがいる。六年生になったばかりの、元気で、少しばかり手のかかる子供たちが。鵺野は傘を開き、雨に煙る水木しげるロードを歩き出した。妖怪ブロンズ像たちが、雨に濡れて彼を見送っているようだった。

 

 境第2小学校、六年三組の教室。始業式のホームルームが始まろうとしていた。久しぶりに顔を合わせる生徒たちは、夏休みの思い出話に花を咲かせている。

 

「おっはよー! 宿題やったー?」

 

「マジ無理。あとで写させて」

 

「ねえねえ、黒山の方でなんかすごい雷あったよね?」

 

「自衛隊の演習だってさー」

 

 平和な喧騒。鵺野は教壇に立ち、出席簿を開いた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。ザワッ……。霊感ではない。もっと本能的な、生物としての警鐘。教室の空気が、ほんの少しだけ「重い」。湿度のせいだろうか。それとも、自分の精神状態のせいだろうか。

 

「……出席を取るぞー。席につけ」

 

 鵺野は努めて明るい声を出した。生徒たちが席につく。教壇から見渡す景色。一番前の席には、佐藤蓮(さとう れん)がいる。転生者であり、精神年齢の高い彼は、心配そうな目でこちらを見ていた。窓側の席には、小鳥遊六花(たかなし りっか)がいる。彼女は今日、サングラスをかけていた。黒いレンズの奥の瞳は読めないが、その態度はいつも通り気怠げで、窓の外の雨を眺めている。

 

「(……サングラス? まあ、あの子の家庭事情なら仕方ないか)」

 

 六花の父は、あの五条悟だ。彼女自身も特殊な「眼」を持っているため、視覚情報を遮断するためにサングラスをしているのだろう。校則違反だが、鵺野は黙認していた。問題は、そこではない。鵺野の視線が、教室の後ろ側へと流れる。

 

「……?」

 

 人数が多い気がする。六年三組の在籍数は、三十名だ。机の配置は、横五列、縦六列。ぴったり三十セットのはずだ。だが、一番後ろの列。窓際から三番目。そこに、もう一つ机があるような気がした。いや、物理的にはない。三十脚しかない。だが、「誰かが座っている」という気配の密度が、三十一人分ある。

 

「(……疲れているのか?)」

 

 鵺野は眉間を揉んだ。夜見山の「現象」──通称『あるクラスのルール』。それは、死者が一人、生者に紛れ込むという呪いだ。死者自身も自分が死んでいることに気づかず、周囲の記憶や記録も改竄され、誰も「増えている」ことに気づかない。そして、その歪みを正すために、毎月誰かが死ぬ。

 

「(馬鹿な。あれは夜見山だけの風土病みたいなものだ。それに呪いは止まったはずだ)」

 

 鵺野は首を振り、出席を取り始めた。一人、また一人と名前を呼ぶ。全員がいる。欠席者はいない。増えてもいない。……はずだ。

 

「先生、どうしたの? 顔色悪いよ」

 

 最前列の蓮が、小声で尋ねてきた。鵺野はハッとして、作り笑いを浮かべた。

 

「あ、ああ。何でもないぞ佐藤。ちょっと寝不足でな……ハハハ」

 

 乾いた笑い声が、教室に吸い込まれていく。その時。ドンッ!! 窓ガラスに、何かが激突した。濡れた羽毛の塊。スズメだ。雨に濡れて飛行能力が低下したスズメが、窓ガラスにぶつかって落ちていったのだ。

 

「ひぃっ!?」

 

 鵺野は過剰に反応し、チョークを粉々に握り潰してしまった。白い粉が舞う。教室が静まり返る。

 

「……せ、先生?」

 

 生徒たちが不安そうに見つめる。鵺野は震える手を隠すように背中に回した。

 

「す、すまん! びっくりしただけだ! ……よし、ホームルーム終わり! 一時間目は国語だ!」

 

 鵺野は逃げるように教科書を開いた。だが、彼の左手──鬼の手は、手袋の中で熱く脈動していた。何かがいる。この教室に、招かれざる「異物」が。

 

 放課後。雨はまだ降り続いていた。職員室で、鵺野は一人、名簿と睨めっこをしていた。

 

「(……三十人。何度数えても三十人だ。記録は正しい)」

 

 だが、夜見山の現象は記録すら改竄する。名簿自体が書き換わっている可能性は否定できない。

 

「(もし、始まっているとしたら……。俺はまた、生徒を死なせるのか?)」

 

 ズキリ、と胃が痛む。霊能力者として妖怪と戦うことは怖くない。だが、「現象」は戦う相手がいない。それは自然災害のような、理不尽な死の運命だ。鬼の手で切り裂くことも、お経で浄化することもできない。

 

「お疲れ、鵺野センセ」

 

 不意に、背後から声をかけられた。鵺野が振り返ると、そこに長身の男が立っていた。丸いサングラスをかけ、仕立ての良いシャツを着崩した白髪の男。手には、長い木箱を持っている。五条悟(ごじょう さとる)。境港の商店街にある「五条骨董店」の店主であり、六花の父親だ。そして、この世界における呪術界の頂点に立つ男。

 

「ご、五条さん……。どうしたんですか、こんな雨の日に」

 

 鵺野は立ち上がり、頭を下げた。彼は五条の正体(呪術高専群の名誉講師)を知っている。鵺野自身もプロの霊能力者だが、五条の持つ「出力」と「権限」は桁違いだ。ある意味、同業者としての敬意と、少しの畏怖を抱いている。

 

「んー? これこれ。頼まれてた社会科の教材」

 

 五条は木箱をデスクに置いた。中には、錆びついた火縄銃が入っていた。

 

「戦国時代のやつ。もちろん模造品だし、火薬も抜いてあるから安全だよ。骨董屋の在庫整理ついでに寄贈しに来たわけ」

 

「ああ、そういえば……ありがとうございます。助かります」

 

 鵺野は礼を言ったが、その表情は晴れない。五条はサングラスを少しずらし、蒼い瞳(六眼)で鵺野を覗き込んだ。

 

「……で? 随分と参ってるみたいじゃん。顔色、土気色だよ? なんか変なもんでも拾ってきた?」

 

 その口調は軽い。原作のような若者言葉ほどではないが、教師に対する敬語というよりは、対等な友人に対するタメ口に近い。この世界の五条は、三十代後半の鵺野に対しても、年下の「先輩」のような距離感で接してくる。

 

「……分かりますか」

 

 鵺野は観念したように息を吐いた。この男の眼を誤魔化すことはできない。

 

「実は……昨日まで、昔の教え子の墓参りに行っていたんです。夜見山という場所へ」

 

「ああ、あの『現象』の?」

 

 五条は知っていた。呪術高専の情報網は、日本中の怪異データを網羅している。

 

「はい。……それで、帰ってきてから、どうも調子がおかしいんです。教室の人数が、合わない気がして……」

 

 鵺野は、すがるような思いで五条を見た。

 

「五条さん。貴方の眼なら、視えるはずだ。……私のクラスに、『死者』は混ざっていませんか? 現象が、私についてきたんじゃないですか?」

 

 深刻な問い。もし答えがイエスなら、鵺野は今すぐ学校を封鎖し、対策を講じなければならない。五条はふむ、と顎に手を当て、職員室の窓から六年三組の教室がある校舎を見上げた。六眼が、雨越しの呪力残滓を解析する。

 

「……んー。鵺野センセ、安心していいよ。夜見山の呪いは、ここにはない」

 

 五条はあっさりと断言した。

 

「ほ、本当ですか!?」

 

「うん。あの現象は、夜見山っていう土地の因縁と、学校というシステムがバグを起こして生まれる特異点だ。ウィルスみたいに付着して移動するものじゃないよ。君のクラスは、霊的な意味ではクリーンだ。……まあ、若干賑やかだけどね」

 

 五条は意味深にニヤリと笑った。

 

「賑やか……?」

 

「そ。だから、心配しすぎないこと。センセが不安がってると、生徒にも伝染るよ? 特に、ウチの六花とか、蓮くんあたりは敏感だからさ。ま、何かあったら僕も協力するからさ。今日は早く帰って寝なよ。美味しい日本酒でも差し入れようか?」

 

「いえ、お酒は……。でも、ありがとうございます。少し安心しました」

 

 鵺野は深々と頭を下げた。最強の術師が「ない」と言ったのだ。間違いはないはずだ。五条は手を振りながら職員室を出て行った。鵺野はその背中を見送りながら、胸のつかえが少し取れたような気がした。

 

 ……だが。五条は嘘は言っていないが、「全て」を言ったわけではなかった。彼は廊下を歩きながら、独り言ちた。

 

「(ま、死者はいないけど……『生きてないやつ』はいるね。鵺野センセ、真面目すぎ。自分の力で見つけなきゃ意味ないでしょ、こういうのは)」

 

 翌日。九月二日。雨は上がったが、空はまだ重い雲に覆われている。一時間目の授業中。鵺野は黒板に歴史の年号を書きながら、背中に視線を感じていた。五条の言葉で安心したはずだった。だが、違和感は消えない。

 

 誰かが、見ている。三十人の生徒以外の、誰かが。

 

「(……五条さんは『死者はいない』と言った。だが、『賑やかだ』とも言った。あれはどういう意味だ? 俺には見えていない何かがいるのか?)」

 

 鵺野は振り返り、教室を見渡した。視線が、小鳥遊六花のところで止まる。彼女は今日もサングラスをかけていた。授業中だというのに、肘をついて気怠そうにしている。

 

「(……六花。彼女は五条さんの娘だ。特殊な眼を持っている。もしや、彼女は何かを『視て』いて、それを隠すためにサングラスをしているのか?)」

 

 疑心暗鬼。一度芽生えた疑念は、雑草のように広がる。夜見山の現象では、記憶や認識が改竄される。もしかしたら、六花こそが……いや、蓮か? それとも、いつも元気な中島か? 

 

「……小鳥遊」

 

 鵺野は思わず声をかけた。

 

「……ん。なに、先生」

 

 六花はサングラスを少しずらし、露わになった蒼い瞳で鵺野を見た。その瞳は澄んでいて、底知れない深さがある。

 

「……いや。そのサングラス、見にくくないかと思ってな」

 

「別に。……光が眩しいだけ」

 

 六花は素っ気なく答えて、またサングラスを戻した。嘘をついているようには見えない。だが、彼女の隣の席──今は空席になっているはずの空間に、彼女が一瞬だけ目を向けたのを、鵺野は見逃さなかった。

 

「(……そこか? そこに、いるのか?)」

 

 鵺野の心臓が早まる。教室の後ろ。窓際から三番目。六花の隣。蓮の後ろ。そこは、誰も座っていないはずの空席だ。だが、そこには確かに「重み」がある。

 

 放課後。生徒たちが帰宅の支度をする中、鵺野は決意した。今日こそ、正体を暴く。もしそれが、生徒たちを脅かす「現象」の予兆なら、俺の手で終わらせなければならない。

 

「みんな、気をつけて帰れよー」

 

 生徒たちが教室を出ていく。六花と蓮も、ランドセルを背負って廊下へ消えた。教室には、鵺野一人だけが残された。……いいや。一人ではない。

 

 夕闇が迫る教室。薄暗がりの中で、一番後ろの席に、小さな影が座っていた。

 

「(見つけた……!)」

 

 鵺野は、震える手で左手の手袋を掴んだ。鬼の手。地獄の鬼を封じ込めた、最強の霊的武装。これを使えば、どんな悪霊も、どんな呪いも断ち切れる。

 

「……誰だ。そこで何をしている」

 

 鵺野は低く問いかけた。影は答えない。ただ、じっと黒板の方を見つめている。おかっぱ頭の、着物を着た子供のようにも見える。

 

「(生徒じゃない。この時代の子供の服装じゃない。やはり……死者か! 夜見山からついてきた、浮遊霊か!)」

 

 鵺野の脳内で、トラウマが警報を鳴らす。これを放置すれば、明日にも生徒が死ぬかもしれない。ガラスが割れる。階段から落ちる。心臓発作が起きる。そんな理不尽を、二度と許してはならない。

 

「悪く思うな……!!」

 

 バリィッ!! 鵺野は手袋を引き裂いた。露わになったのは、赤黒く変色し、異形の爪を持つ、恐ろしい鬼の手。

 

「宇宙天地、与我力量……!!」

 

 鵺野は呪文を唱え、鬼の手を構えた。殺すのではない。浄化するのだ。強制的に成仏させ、死の世界へ還す。それが、教師としての俺の責務だ! 

 

「ハァァァァッ!!」

 

 鵺野が床を蹴り、影に向かって跳躍した。鋭い爪が、子供の影を切り裂こうとした、その瞬間。

 

「──ストップ」

 

 乾いた声と共に、鵺野の体が空中で静止した。赤黒く脈動する鬼の手が、空中でピタリと止まっていた。彼の目の前には、薄暗い教室の隅に座る「子供の影」。その影と、鵺野の爪の間には、見えない壁が存在していた。まるで、アキレスと亀のパラドックスのように、無限の距離がそこにあるかのようだ。

 

「……な、なんだこれは!?」

 

 鵺野が驚愕の声を上げる。全力を込めているはずなのに、あと数センチが届かない。教室の入り口に、いつの間にか男が立っていた。五条悟。彼はサングラスを指先で押し上げ、蒼い瞳(六眼)を露わにしていた。その瞳は、宇宙のように深く、すべてを見透かしている。

 

「ご、五条さん!? 邪魔をしないでくれ!」

 

 鵺野は叫んだ。額から脂汗が流れる。

 

「こいつは『死者』だ! 夜見山の呪いだ! 今すぐ還さなければ、また生徒が死ぬ! ガラスが割れて、階段から落ちて、理不尽な死がクラスを襲うんだ!」

 

 トラウマが鵺野を突き動かしている。彼の脳裏には、まだあの時のサイレンの音と、生徒たちの悲鳴が響いているのだ。

 

「……ふぅ」

 

 五条は小さくため息をつき、ゆっくりと鵺野に歩み寄った。彼は鵺野の肩に手を置いた。その瞬間、鵺野の全身から力が抜けた。強制的な鎮静。五条の呪力が、鵺野の荒ぶる霊気を中和したのだ。

 

「落ち着いて。……よく見て。恐怖という色眼鏡を外して。その眼で、ちゃんと『生徒』を見るんだ」

 

「生徒……?」

 

 鵺野は荒い息を整え、再び影の方を見た。五条が指をパチンと鳴らす。教室の照明が点灯した。蛍光灯の白い光が、教室の隅を照らす。そこにいたのは、青白い顔をした亡霊でも、血塗れの死体でもなかった。おかっぱ頭に、古い絣(かすり)の着物。あどけない顔をした、五歳くらいの子供。その子は、鵺野と五条を見て、キャハハと無邪気に笑った。

 

「……え?」

 

 鵺野の思考が停止した。霊気を感じる。だが、それは夜見山の澱んだ死の気配ではない。もっと純粋で、清らかな……。

 

「座敷童子(ざしきわらし)だよ」

 

 五条が子供の頭を撫でながら言った。

 

「この辺の古い蔵に住み着いてたみたいなんだけど、最近寂しかったみたいでね。鵺野センセのクラスが楽しそうだから、釣られて遊びに来ちゃったみたい」

 

「ざ、座敷童子……?」

 

 鵺野はその場にへたり込んだ。鬼の手が、元の人の手へと戻っていく。

 

「じゃあ……死者じゃない? 現象じゃないのか?」

 

「うん。むしろ逆だね。座敷童子は『福』を呼ぶ妖怪だ。この子がいついている間は、六年三組は安泰だよ。テストの平均点も上がるかもね」

 

 五条は笑って、座敷童子に「ねー?」と同意を求めた。童子はコクコクと頷き、机の上にあった六花の教科書(置き勉)をパラパラと捲って遊んでいる。

 

「……なんだ。そうか。……そうだったのか」

 

 鵺野は両手で顔を覆った。安堵と、脱力感と、そして自分への情けなさで、涙が滲んだ。

 

 夜の屋上。雨上がりの空には、綺麗な月が出ていた。鵺野はフェンスに寄りかかり、缶コーヒーを握りしめていた。隣には、同じくコーヒー(微糖)を飲む五条がいる。

 

「……恥ずかしい限りです」

 

 鵺野がポツリと言った。

 

「私は教師でありながら、生徒を信じられなかった。あの子が妖怪だと見抜けず、ただ過去の恐怖に囚われて、排除しようとした……」

 

 彼はコーヒーのプルタブを開ける気力もなく、うつむいた。

 

「もし五条さんが止めてくれなかったら、私は……何の罪もない座敷童子を切り裂いて、クラスの守り神を殺すところでした」

 

「まあ、そうかもね」

 

 五条は空を見上げたまま、淡々と答えた。

 

「でも、仕方ないよ。先生はそれだけ、夜見山の生徒たちのことを想っていたんでしょ? 救えなかった悔しさが、恐怖に変わっていただけだ」

 

 五条はサングラスを少しずらし、鵺野を見た。その瞳は、いつもの軽薄な色は消え、深く、静かな光を宿していた。

 

「僕もね。……救えなかった生徒はいるよ」

 

「えっ? 五条さんが……ですか?」

 

 鵺野は驚いた。最強の術師に、そんな過去があるとは思えなかったからだ。

 

「うん。理不尽な死なんて、この世界にはいくらでも転がってる。僕がどれだけ強くても、全部の手は届かない。……北海道でも、沖縄でもね」

 

 五条は少しだけ寂しそうに笑った。それは、鵺野が初めて見る「大人」の顔だった。

 

「でもさ。だからこそ、僕らは『今』を見なきゃいけない。死んだ子を想うのは大事だけど、それに縛られて、今生きてる六花や蓮くんたちの笑顔を見逃しちゃったら、本末転倒でしょ?」

 

 五条はコーヒーを一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。カラン、と乾いた音が響く。

 

「昨日、僕は言ったよね。『教室は賑やかだ』って。あれは、座敷童子がいて、六花たちがいて、みんなが楽しそうにしているって意味だよ。……先生のクラス、いいクラスじゃん」

 

 鵺野はハッとして、五条を見た。五条はニカッと笑い、サムズアップしてみせた。

 

「胸張りなよ、地獄先生。君は、ちゃんと生徒を守ってるよ」

 

「……っ」

 

 鵺野は目頭を熱くさせながら、コーヒーを開けて一口飲んだ。苦くて、甘い味がした。

 

「……ありがとうございます、五条さん。貴方は……本当に、いい先生ですね」

 

「んー? 僕はただの骨董屋のお兄さんだよー」

 

 五条は照れ隠しのように肩をすくめた。

 

 翌日。六年三組の教室は、いつもの喧騒に包まれていた。鵺野が教室に入ると、生徒たちが一斉に席につく。

 

「起立! 礼!」

 

「おはようございまーす!」

 

 元気な挨拶。鵺野は教壇に立ち、教室を見渡した。三十人の生徒たち。そして、一番後ろの席には──やはり、誰も座っていない。だが、鵺野には見えていた。ちょこんと座り、興味津々にこちらを見ている座敷童子の姿が。

 

「よし! 今日も元気だな!」

 

 鵺野は満面の笑みで言った。その表情からは、昨日の陰鬱な影は消え去っていた。

 

「今日のホームルームは、特別授業だ! 『妖怪との共存』について話すぞ! 妖怪は怖いだけじゃない。人間と仲良くなれるやつもいるんだ。例えば……」

 

 鵺野は黒板に『座敷童子』と大きく書いた。生徒たちが「知ってるー!」「家に出たらお金持ちになれるんでしょ?」と口々に叫ぶ。一番前の席で、佐藤蓮が小さく笑った。

 

「……先生、元気になったな」

 

「うん。昨日のパパの説教が効いたみたい」

 

 隣の席の六花が、サングラス越しに答えた。彼女は頬杖をつきながら、座敷童子の方を見ていた。

 

「……六花ちゃん気づいてたんでしょ? 座敷童子のこと」

 

「当然。私の眼なら、最初から丸見えだったよ」

 

「なら、先生に教えてあげれば良かったのに」

 

「だって」

 

 六花はサングラスを少しずらし、いたずらっぽく笑った。

 

「先生が必死になってるの、なんか面白かったし。それに……あの子、悪い子じゃないから。教える必要ないかなって」

 

「……君さあ」

 

 蓮は呆れつつも、六花らしい判断だと納得した。この世界では、妖怪も呪いも日常茶飯事だ。いちいち騒いでいたら身が持たない。

 

「ま、先生が受け入れたなら、それでいいや」

 

 蓮は教科書を開いた。教室の後ろ。座敷童子は、鵺野の話をうんうんと頷きながら聞いていた。時折、六花の方を見て、ニコッと笑う。六花もまた、サングラスの奥で小さく微笑み返した。

 

 夜見山の呪いは、ここにはない。あるのは、妖怪と人間、そして最強の術師の娘と転生者が織りなす、賑やかで奇妙な日常だけだ。鵺野鳴介の鬼の手は、今は静かに眠っている。生徒を守るための剣として、再び抜くその時まで。

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